【15】
老いらくの恋。
リュークは、まさにその言葉を体感していた。
訳もなく胸が弾み、取り巻くすべてがきらきら輝いて見える。そんな青臭い感情を、この年で抱くようになるとは思わなかった。
(ファウステリア)
その名を胸の奥で呼ぶだけで、思わず笑みが漏れる。
かつての妃を、リュークは確かに愛していた。
だがあくまで英雄たるリュークを王にする為の政略的な結婚であり、リュークが彼女に抱く感情は恋とは程遠かった。
高貴な身分の彼女を敬愛は、していた。
病弱で美しく、繊細な彼女を守りたいと思った。
だけどどこまでも内向的で、歳を重ねても夢見がちな少女のようだった妃を、女性として愛していたかと言えば嘘になる。
正直なところ、妃に向ける愛情は、妹や娘に対するような親愛でしかなかった。
だからこそ、跡継ぎであるリーシェルが生まれた後、妃の病弱さを言い訳にして、それ以上に子を成そうとはしなかった。
だけど、ファウステリアは、違う。
リュークは美しく、悲しい彼女を、女性として愛した。
ただリュークの愛だけを求める彼女に、自分の愛を注ぎ満たしてやりたいと思った。
自分がこの手で幸せにしてやりたいと、心から思った。
齢60。
この年で恋に浮かれる自分は、さぞ滑稽に思われるだろう。
だが、妃はとうの昔に亡くなっており、誰に迷惑を掛けるわけでもない感情なのだから、許して欲しい。
古の英雄で、年をとってから恋に溺れ、政事を疎かにした事例はいくらでもある。
だが、自分はけしてそんな愚は犯さない。そして慎ましく無欲なファウステリアも、そんな事態はけして望まないだろう。
彼女は英雄である自分を慕っているという。
ならば、自分は彼女が愛した自分であり続けるべく、今以上に英雄であり続けよう。
英雄であり続けることと、彼女の誠実な恋人であり続けることは、同義なのだから。
(――くそっ、思った以上に面倒臭い爺だ)
恋に浮かれる英雄とは裏腹に、ファウステリアの内心は穏やかでは無かった。
一度堕とせば意のままに操れるかと算段していたのに、リュークはそう一筋縄でいく男ではなかった。
リュークは分かりやすく単純な男だ。
単純であるが故の厄介さが、リュークにはあった。
リュークの理想とする女性像は、一般男性の理想とする理想像のままだった。
慎ましく、謙虚。芯は強く、男に全てを任せて完全に寄りかかることはなく、自分の考えを持っていて人間として自立している。
それでいて一途に男を愛し、一歩後ろで穏やかに見守っているような、従順な女。
男にとって、どこまでも都合が良い女だ。
(何が愛だ、哂わせる。結局お前が一番愛しているのは自分じゃないか)
リュークが求めているのは、自分の英雄像を維持させてくれる、ナルシシズムを満たしてくれる女だ。
そのことに気づかず、まるでそれが美しい至高の感情のようにファウステリアに愛を語る様に、虫唾が走る。
ファウステリアが自分の理想から外れた行為を行った瞬間、恐らくリュークの熱は瞬く間に褪めるだろう。
リュークが語る愛など、その程度の物だ。
それが容易に察せられるからこそ、ファウステリアは自由に動けない。
無知を装い、それとなく破滅の道に誘導しようにも、頭は無い癖に動物的勘だけは人一倍優れているリュークには通用しない。
万が一、一時的にリュークが乗ったとしても、自分が余り賢くはないことを自覚しているリュークは、必ず周囲に助言を求め、そこで潰されるのは目に見えている。
それが積み重なれば、周囲もリューク自身も、ファウステリアを徐々に疎ましく感じてくるだろう。
そうなれば今まで積み上げてきたものが、全て無駄になってしまう。
(せめて、あいつがもっと依存心が強い男だったら…)
依存心が強く、誰かに寄り掛かることに安堵を覚えるような男だったら、もっと簡単だった。
溺れさせ、政治の手助けをする振りをして、都合よく操れた。
女に救いを求めるような、そんな男だったら。
苛立ちを鎮めるべく、リュークから与えられた部屋の大窓から夜の中庭を見下ろしていたファウステリアの視界に、不意に横切る陰があった。
こんな夜中に、供もつけず、不用心に中庭に佇むその人物が誰か気付いた途端、ファウステリアは口端を釣り上げた。
(――いるじゃないか)
依存心が強く、女に救いを求めるような、それでいて高い身分を持つ、そんな打ってつけの存在がいるじゃないか。
ファウステリアは簡単に身なりを整えると、一人中庭に佇む、リーシェル・ソーゲルの元へ向かった。