【10】
ファウステリアは宙を向いたまま、暫く放心する。
眼からは涙が、鼻からは鼻水が、口からは唾液が。
止めることもできないまま、だらだらと流れて、ファウステリアの顔を濡らす。
獣のように息は荒く、体はいまだあちこち痙攣している。
まるで激しい情事の後のようだ。
ファウステリアにとって性行為は快楽を得るための手段ではなく、生きる為に耐え忍ぶべき苦痛。
チアノーゼが浮き出るほど首を絞めながら、自分を買った嗜虐趣味の男が絶頂した後、同じような状態になった。
あの時違うのは、体の奥で漲りうねる濁流のような力を、ファウステリアが理解していること。
(ああ、確かに力は、私の中にあった)
新しく生まれたわけではない。ずっと力はファウステリアの中に存在して、ファウステリアに寄り添っていた。
生まれた時からそれが当たり前故に、ファウステリアがそれが特別なものだと気付かなかっただけだ。
ファウステリアは天に向かって、震える手を掲げる。
目を瞑ると、瞼の裏に、路地裏で横たわっているファウステリアには見えるはずがない、表通りの光景が見えた。
意志を持ってファウステリアは瞼に映る風景を動かす。
まるで目玉だけが宙に浮いて、自由に街中を闊歩しているかのようだ。
表通りを直進し、角を曲がり、小道を抜け、古ぼけた建物の中に入っていく。
(…いた)
シミだらけの、古く薄汚れたベッドにふてくされたような表情で寝入っているのは、先程ファウステリアを買った男。
ファウステリアをナイフで切り裂き、殺そうとした男。
ファウステリアは男の場所を正確に把握した途端、カッと目を開き、指先に力を流し込んで放出した。
途端、天に届かんばかりの火柱が遠くで上がるのが、建物の陰から見えた。
真っ赤に燃え上がる炎は、闇夜で輝き、思わず見とれてしまうくらい、美しい。
聞こえてくる悲鳴。
炎は近くの建物に、燃え移り、その勢いを増していく。
「…あは…」
ファウステリアの口から、笑い声が漏れた。
「あははははははははははははは」
ファウステリアは生まれて初めて、声を上げて笑った。
腹を抱えながら、服が汚れるのも構わず、その場に転げまわる。
愉快だ。
愉快で仕方ない。
こんな愉しい気分になったのは、初めてだ。
ファウステリアは、生れてはじめて満ち足りた気分を味わった。
(…ああ、でも一瞬で消し炭にしてやったのは親切過ぎたな)
突然のことに、男は恐怖も苦痛も感じなかっただろう。
そう考えると腹立たしい。
もっと苦しめて、苦しめて、殺してやればよかった。
(まあ、いい。次は、もっとうまくやるさ)
「ソーゲル…リューク・ソーゲル」
メティによって知識を与えられたファウステリアは、次に復讐すべき対象が誰か、正確に理解していた。
英雄と呼ばれた、先王。
自らが力を有するが故に、紫水晶の瞳の手助けを必要としなかった男。
ファウステリアを探すことも、利用することさえ考えなかった男。
「次は、お前だっ…!!必ず、必ず破滅させてやるっ…!!あははははは」
決意を込めてファウステリアは天に毒づき、哂う。
メティはそんなファウステリアを、愉しげに眺めていた。
ファウステリアが魔法で出現させた炎は、何十もの家屋を焼き、何百もの死傷者と負傷者を出した。
だが、そんな事実はファウステリアにとって、どうでもいいことであった。