さようなら、カウンター

 私はこの講演の中で、「あなた方が、ほんとうに、母国のことばの発音で読まれたいと思ったら、カンジを使ってはいけません。朝鮮人に日本語を学ぶギリがないと同様に、日本人にも朝鮮語や朝鮮でのカンジの読み方を学ばなければならぬという理由はありません。日本人に、朝鮮人の名前をその発音通りに読ませるためには、あなたがたはカンジをやめてカタカナだけで名前を書いてください」と言ったところ、まあたとえてみれば、私は「袋叩き」のような状態になってしまった。中にお腹の大きな女性がいて、その人は演壇上の私をキッと見据えて、「私はこのお腹の中の子に、立派なカンジの名前をつけてやります」と言ったものだ。私はあまりのキハクにちょっとこわくなって、そそくさと壇をおりた。司会者のチォエさんが、「田中さんは、決して悪い考えで言われたのではないのです。わたしたちの味方です」ととりなしてくれたが、会場はおさまらなかった。

 (田中克彦『法廷にたつ言語』岩波現代文庫版所収、「チォエさんの要求に思う──民族呼称と差別」より)


 これはNHKに自分の名前を朝鮮語読みで読めと要求し、受け入れられなかったことで請求額1円の裁判をNHKに対して起こしたチォエ・チャンホア(崔昌華)さんの支援集会でのひとこま。

 社会言語学者の田中克彦は、チォエさんの主張の正当性を言語学の立場から説明し、それが後に『法廷にたつ言語』として書籍化された。

 20代の終わりか30代のはじめころ、これを読んで、とくに上記引用部分に大きな感銘を受けた。

 判決は結局チォエさんの請求を棄却するのだが、その判決文では (1) 言語はまず第一に社会的なもので、個人の意向や創意がもっとも及びにくいものであること、(2) しかし一方で人名は個人の人格を象徴するものであることが記されていた。

 加えて田中は、言語の本質は表記ではなく音にある、ということを明快に示した。それこそが、チォエさんの要求の正当性を担保する根本的な言語の性質なのだ、ということである(=漢字で書こうがカナで書こうがローマ字で書こうが言葉の意味はかわらない。文字のない言語を考えればわかる)。それを支援集会で述べたところ、冒頭のような目にあってしまったのだった。

 横断幕における「Zainichi」という表記をめぐる「カウンター」の人たちの意見は、そうした過去の知の積み重ねを全く無視した暴論だったと思う。そして何よりも問題だったのは、その暴論を「当事者がやめろと言っているのだからやめろ」という言葉で正当化しようとした人が少なからずいたこと、そしてそれを咎める人がほぼいなかったこと、さらにはそれを言われた側にも「当事者」がいたことである。

 これは、絶対にNGです。なぜなら暴力を招くから。

 差別語であれなんであれ、言葉に関する議論では「当事者」はことの是非を決定する主体ではない。言葉に限らず、何が差別に当たるかも、当事者だけが決定主体ではない。「当事者が言っているから」「被害者が言っているから」は、それらを考慮するにあたって参考にする程度にとどめておかねばならない。それは多数者側にいる人は、なおさら矜持としてもっておかなければならないものだ。言い換えれば、責任をマイノリティに負わせるなということでもある。

 このことはこの10年間、口を酸っぱくして言ってきたつもりだったが、まったく伝わっていなかったようで力不足を痛感した。

 街頭のヘイターたちに向かって堂々と、そして怒りをもって声を上げる人がものすごく増えたことは非常によいことで、その担い手は広義/狭義の「しばき隊」とは無関係になって久しく、それもまた好ましいことだと思っていた。その人たちは同じ志を持っていると、なんとなく思っていた。

 しかし今回のことで、それは間違いだったとわかった。

 何が差別かを考えるうえで決定主体をマイノリティに委ねてはいけないということは、2013年以降のカウンター運動ではもっとも重要な大原則で、いま路上で「カウンター」をやっている人たちがそこを外しているのなら、私は一切同意できない。

 路上でヘイターに罵声を浴びせること自体は良いことなので、それは今後も存分にやっていただくとして、しかし私は「当事者がいやがることはやめろ」と迫るそれら「カウンター」の一部ではなく、それに反対する者だということは明確にしておきたいと思う。

 それは必ず将来、バックラッシュを正当化するための格好のネタになる。そのとき若い人たちに向かって謝罪するハメになるのはいやである。部落解放同盟の朝田理論がどれぐらいバックラッシュのネタになったか、過去から学んでほしいと思う。

 なお私は、ネトウヨや一部のリベラル、あるいは共産党が言うほど、朝田理論が間違っているとは思わない。それは基本的には差別が構造的なものであることを述べた理論で、たとえばよく揶揄される「商売の不利益も差別のせいにした」という話も、構造的な差別状況の中では普通にありうることだし、現実の事例もいくらでも見つかる。

 しかし一点だけ絶対に間違いだと言えるポイントがあって、それは「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」というテーゼだ。

 これは本当は「差別の痛みは差別された者にしかわからない」とすべきであって、それならば同意はできる。しかし何が差別にあたるか、あるいはどんな言葉が差別の言葉か、それらは「差別された者にしかわからない」わけではないし、痛みを知らなくても「わかる」ものだ。もしそうでないなら、差別する側のマジョリティがそれを是正することは不可能となる。

 解放同盟の糾弾闘争には正当なものも不当なものもあったと思うが、このテーゼに基づいた糾弾は100%不当なものだったと言うことができる。部落の当事者だけではなく、当事者以外がそれらに乗っかって個人を激しく「糾弾」した例も少なからずあっただろう。

 それが恐怖の記憶となって、バックラッシュを正当化した。さらにそれは数十年後に、「在日特権」デマといういびつきわまりない変形となって現れたのである。

 というわけで、ヤバいと思った人は今からでも遅くないので、考えをあらためましょう。

 ではさようなら。