広く表現の自由を守るオタク連合@hyougenmamoru
作品をちょっとでも批判すると「規制だ!」と騒ぎ立てる表現の自由ダイスキッズの皆さんがウマ娘の二次創作ガイドラインには一切何も言わず粛々と従っているの、彼らの馬脚がはっきり露われたといえるな。馬だけに。
2021/02/26 09:32:34
このツイートにクソリプが殺到しています。
元々は『ウマ娘』という作品について、公式の「二次創作の注意」にオタクたちが粛々と従うところを「普段のイキりと全然違うやんけ」と馬鹿にしたツイートだったのですが、オタクの読解力の低さを甘く見ていました。いつもの悪い癖なのですが、オタクが美少女以外の発言を理解するときIQが3くらいになることをすっかり忘れていたわけですね。
とはいえ、この手の「突如物わかりの良くなるオタク」という光景は『ウマ娘』に限った話ではありません。このような矛盾は彼らの思考回路を読みとくヒントになるので、この機会に深堀していきましょう。
オタクたちの矛盾
まず、最初のツイートがどのようにしてオタクたちの矛盾を指摘していたのかを明らかにしなければいけません。掛け算をやる前に足し算の理屈を説明するような遠回りですが、お付き合いください。当該ツイートは「A:批判を規制だと言って騒ぐ」態度と「B:公式の二次創作に関する注意に従う」態度の間の矛盾を指摘したものです。この時点で理解できた人は読み飛ばして結構です。
なぜAとBの態度は矛盾するのでしょうか。Aでポイントとなるのは、批判という強制力がなく表現を制約するわけでもないものを規制と言い換えているという点です。裏を返せば、批判の持つ表現への些細な影響力ですら規制であるとみなすほど、強烈なまでの「表現に差しさわりがあってはいけない」という潔癖症的な態度がそこにはあります。批判は確かに、説得力を持って作者に訴えかけることで表現を変える可能性があります。そのことをもって、批判が表現に作用するものであるとみなすことは間違いではありません。しかし、その影響力は強制力もなくたかが知れており、規制と呼ぶにはあまりにも些細であることも事実です。数字にすれば、政府による規制が10なら批判は1とか2とかです。
言い換えれば、Aの持つ態度は、表現に差し障る何らかの活動を、その影響力の大きさにかかわりなく「規制だ」として否定する態度です。このような態度は到底賛同できるものではありませんが、その点はさておき、Aのもつ要素としてそういうものがあると理解してください。
さらに言えば、Aには批判を規制と言い換えることで、そのものの性質を大きく変えてしまうという側面もあります。これは後に出てくるクソリプを理解するのに役立つことなので念頭に置いておいてください。
一方、Bの持つ態度は、公式の注意事項を素直に順守するというものです。公式の注意もまた規制というほどのものではありませんが、批判に比べれば表現への影響力が大きく、少なくとも批判と同程度には影響するとみなすのが自然です。批判が常に表現の修正を迫るとは限らない一方、公式のアナウンスは直接的に特定の表現を控えるように求めているからです。
仮に、Aの態度を支持するのであれば、このような公式の注意にも反発しなければいけません。表現を制約するという点においては、批判よりも公式の注意のほうが強烈に作用するはずだからです。批判を強く否定するのに公式の注意に従うというのは、一本の木を切るのを否定しながら山火事を起こすようなものです。
しかし、彼らはAとBの間にある矛盾を一切気にしません。これはおかしなことです。
批判にならない批判
このツイートに集まるクソリプは、残念ながら、140字程度の中にあるシンプルな論理構造を捉えることすらできていません。故に、その批判のすべては有効なものになりえていません。そもそも、このツイートに対して批判を行うのであれば、前提を否定するほかありません。つまり、Aが事実に反し批判を規制と呼ぶ態度が一般的でないことを示すか、Bが事実に反し公式のアナウンスに素直に従う態度が一般的でないことを示す以外に、このツイートを否定する手段はありません。AとBが事実であるという仮定の下では、AとBが矛盾することは論理から自動的に導かれるからです。
矢崎十兵衛竜座@2/28維新vs松本@yazakiryuza
うまいこと言ったと思ってるようだが二次創作は公式のガイドラインに従うものだしジャンル自体が公式のお目溢しの上に成り立ってるということも知らないのかね。ましてやウマ娘の場合扱われてる馬は実在してるわけだから本当に底が浅いし無知なのが… https://t.co/Ii92sJlVyD
2021/02/26 16:53:03
最も多いクソリプは、このように二次創作における著作権者との関係をとうとうと述べるというものです。しかし、ツイートで一切言及していないように、そもそも私はツイートでBの態度を肯定も否定もしていません。ただ、AとBの間にある矛盾を「あれれ~おかしいぞ~」と言っているだけなのです。彼らには「それぞれの態度の是非をわきに置き、その矛盾を指摘する」というメタ的で抽象的(といってもたかが知れている)議論を理解するのが難しいようです。
ひなた@hinata_1627
権利者による権利の行使と、第三者による根拠のない口出しの区別がついていない。
2021/02/26 16:23:32
https://t.co/Oa82b1r2UY
もう1つよくあるクソリプは、批判を規制とみなす態度を自明視したうえで、公式のアナウンスは合理性があるが批判はそうではないと訴えるものです。これは皮肉なことに、Aに示した前提が正しいことを自ら証明しているようなものです。私は批判を規制とみなしていますと言っているようなものですから。
AとBを、その訴えの妥当性で比較するという態度は、一見すると正しいように見えます。しかし、これも大きな誤りです。なぜなら、Aは訴えの妥当性で態度が決まっていることを示しているのではなく、「ちょっとでも」と書かれているように、とにかく表現に影響するならば規制とみなすという態度を示しているからです。Aを前提とする時点で、内容の妥当性による態度の形成という要素は存在しません。
また、上述のように、Aはそもそも規制ではないものを規制とみなすことで、その性質を変容させる態度でもあります。AとBにおいて、その両者を規制の一種であるとみなしたうえで内容の妥当性を比較するのは、Aが扱う批判がそもそも規制ではないので、虚偽の比較であるということになります。ものの金額を比較するとき、社会通念上絶対にありえないにもかかわらず、ポルシェを1グラム当たりの金額に換算しほかの商品と比較するような欺瞞がここにはあります。
さらに言えば、彼らが信じる「無理筋な批判」というものの実在性がそもそも怪しいので、仮に彼らの論理構造を鵜呑みにしたとしても、やはり彼らの主張は誤りになります。
公式のアナウンスなら従うのか
AとBの矛盾を、「オタクは権力には従うクソ雑魚ナメクジである」とまとめたくなりますが、しかし、この理解も一面的にすぎないと言わざるを得ないでしょう。我々が既に知っているように、オタクが公式に常に従順かといえば必ずしもそうではないからです。例えば、政権に批判的なイラストを掲載した高橋和希氏は強くバッシングされましたし、先日復活が伝えられたタカラトミーのTwitterアカウントにも「つまらない」といったクソリプが殺到していました。旧正月を祝う『あつまれどうぶつの森』のツイートにも差別的なリプライが押し寄せましたし、これに限らずゲームの多様性に配慮したデザインや変更には否定的なコメントが寄せられるのが常態化しています。
このようなオタクたちの態度を見るに、「オタクは権力には従うクソ雑魚ナメクジである」という認識には1つの追加が必要なようです。それは「オタクはマジョリティ権力には従うクソ雑魚ナメクジである」というものです。
仮に権力のある公式や原作者であっても、マジョリティ権力から外れマイノリティの味方をするとみなされた時点で、オタクはその公式を軽んじます。そのため、政権を批判することも女性差別を反省することも近隣諸国の行事を祝うこともポリティカルコレクトに配慮することも、すべてマジョリティ権力に反するため許されないことであり、そのような行為を行ったとあらば即座に否定します。
フェミニズムや反差別由来の批判が彼らに強烈な拒否感情を抱かせるのも、それが表現を変容させる可能性があるからではなく、自身が所属するマジョリティ権力に反するものだからです。裏を返せば、彼らは表現の自由が大事だから批判に反発するわけではありません。自由はあくまでお題目です。
ですから、『ウマ娘』公式のアナウンスのように、馬主というマジョリティ権力の最たるものがチラつけば、そのアナウンスが二次創作の可能性を大幅に狭めるものであったとしても、たやすく屈服します。そのため、表現の自由という視点から整理されたAとBの態度に矛盾が生じるのです。
仮に、Aを「A':マイノリティの権利に由来する批判はどのようなものであれ否定する」と書き換え、Bを「B’:マジョリティに由来する要請はどのようなものであっても肯定する」と書き換えれば、A’とB’に矛盾はなく、オタクたちの態度を合理的に解釈することができます。これこそが、彼らの本心なのです。
欺瞞を排し態度を更新せよ
私は、『ウマ娘』公式の出したアナウンスが不当なものだとは思いません。問題は、こうしたアナウンスに従うそぶりを見せつつ、一方では「表現の自由無罪」かのように暴れまわるオタクたちの醜悪な幼稚さです。オタク文化が進歩を望むのであれば、そうした幼稚な欺瞞は排されるべきでしょう。権利を軸とした表現の自由を確立し、様々なほかの権利と折衝を重ねたうえで社会での立ち位置を決めていく必要があります。
まぁ、それがやりたくないのであれば、そういう人たちが回顧と衰退の中で安楽死することは否定しませんが。私はそうはなりたくないですからね。
今回の記事も後半の展開を見るに、叩きたい権力やマジョリティが前提にあることがチラついてるよね。
他のやり方無いのかね。
まあ、記事の頭のツイートが袋叩きに合うのもわかるよ。
なんつーか、物事の捉え方や感覚がズレてるんだろ。
アンタからすれば、愚かな連中と違う視点でものを見てるから当然の違う捉え方をするし、周りがバカに見えて仕方ないんだろうな。
だけど、アンタが下等生物のように蔑んでいる連中がマジョリティを支える勢力だとしたら、アンタがいくら自己の正しさや相手の矛盾を叫んでも結局は数の暴力でやられる。
だって、大多数に理解されて共有されない「正しさ」では、何も変えられないから。周りの理解が少しでも進むと良いね。
周りからの批判をクソリプと切り捨てる自身の傲慢さを改めることも必要だと思うけどね。