「スカーレット・ピンパーネル(紅はこべ)」の活躍は、フランス革命の時代を背景としています。
長きに亘りフランスを支配してきたブルボン王朝と特権階級の貴族や僧侶に対して、一般市民が反旗を翻した市民革命、それがフランス革命でした。
絶対王制からの脱却、政治を民衆のものとするフランス革命は、「バスティーユ牢獄の襲撃」により始まり、やがて独裁者、ジャコバン党のロベスピエールの登場とともにあらぬ方向へ突き動かされてしまい、無実の人々の命が断頭台へ消えていく日々が続きます。
「THE SCARLET PIMPERNEL」は、こうしたジャコバン党による恐怖政治の時期に、イギリス貴族であるパーシー・ブレイクニーを筆頭とした謎の秘密結社が、無実の罪で命を脅かされている、フランスの貴族たちを救うという活躍を描いた痛快且つ、スリル満点の歴史冒険作品なのです。
フランス革命といえば、国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットなどの王朝や一部特権階級への市民の制裁を思い描く方々が多いかもしれませんが、「自由・平等・博愛」を希求する純粋な情熱が、フランス革命がもたらした“負の遺産”、罪のない人たちへの制裁を生んだことも忘れてはならないことです。
こうした歴史的背景を知っていただくことにより、「THE SCARLET PIMPERNEL」という作品を、より楽しんでいただけます。
1789年にブルボン王朝と特権階級に対して、一般市民が反旗を翻した市民革命。契機は、財政悪化に伴う新規課税導入のために招集された三部会で旧体制(アンシャン・レジューム)の矛盾が吹き出し、最終的にはブルボン王朝の崩壊へと導き、共和国が誕生します。新生フランスに対して、列強国は干渉戦争を企て、その重圧下に革命戦争と恐怖政治が進行します。
1794年のテルミドールの反動によって急進的な革命は終わりへ向かいますが、1799年にナポレオンがクーデターで政権を掌握したことにより、フランス革命はようやく終息を迎えることになるのです。
アンシャン・レジュームの崩壊 |
産業が発達するにつれ、アンシャン・レジューム(旧制度)の矛盾が露呈し始めます。
まず、イギリスとの戦争での莫大な出費やアメリカ独立戦争への援助が決定的となり、フランスは財政危機に陥ります。そこで、ルイ16世は特権階級への課税を試み、貴族からの反発を受けてしまいます。また、イギリスで起こった産業革命の波が押し寄せ、さらに啓蒙思想の影響により、革新的な思想に目覚める人々の台頭が、大きなうねりとなり、絶対王政を覆すことになっていきます。
1774年 |
国王ルイ16世即位
「ルイ16世」(“Louis XVI”) |
---|
1775年 | アメリカ独立戦争勃発 |
---|
1783年 | イギリスがアメリカの独立を承認したパリ条約締結 |
---|
1787年 | 国王の諮問機関である名士会開催。ルイ16世が税制改革を試みようとする |
---|
1789年 | |||
---|---|---|---|
5月5日 | ベルサイユで三部会開会 | ||
6月17日 | 第三身分による国民議会設立を宣言 | ||
6月20日 | 国民議会の議員によるテニスコート(ジュー・ド・ポーム)の誓い | ||
“自由・平等・博愛”を謳った市民革命は、絶対王政の象徴である「バスティーユ牢獄」を民衆が襲撃したことに 始まります。この大きな流れは地方にも飛び火し、フランス全土に拡大していきました。 |
|||
7月14日 |
パリ民衆が廃兵院を襲撃。バスティーユ牢獄襲撃
「バスティーユ襲撃」(“La Prise de la Bastille”) |
||
8月26日 | フランス人権宣言の採択 | ||
10月5日 | パリ市民がヴェルサイユへ行進 | ||
10月6日 | 国王一家、パリへ強制送還。 それに伴い、議会もパリに移動(同年10月12日) |
1791年 | |
---|---|
6月20日 | ヴァレンヌ事件。国王一家逃亡 |
6月25日 | 国王一家ヴァレンヌで逮捕。パリに連行される。 |
9月3日 | 憲法制定。立憲君主制に移行 |
1792年 | |||
---|---|---|---|
3月10日 | ジロンド派内閣成立 | ||
7月11日 | 立法議会にて「祖国は危機にあり」宣言。各地から義勇兵集結 | ||
8月10日 | パリ民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿を攻撃(8月10日の革命) 立法議会が国王の権利停止を宣言。普通選挙による国民公会召集を決定 |
||
バスティーユ牢獄の襲撃にはじまった革命から、落ち着きを取り戻しつつある者たちは保守化に転じ始めます。 また、国外からの締め付けが厳しくなり、ジャコバン党急進左派(山岳派)は孤立していきます。 ジャコバン党の党首・ロベスピエールは、不穏な勢力を排除し、格差のない社会、規律ある社会を建設するために、取り締まりをより強化しました。反対派を容赦なく弾圧・処刑し始めます。 これが歴史的にも悪名名高い「恐怖政治」と発展していったのです。 |
1793年 | |||
---|---|---|---|
1月21日 | ルイ16世処刑 | ||
3月10日 | 革命裁判所設置 ヴァンデの反乱(暴動) |
||
7月27日 | ロベスピエールが公安委員会に参加 | ||
10月10日 | 革命政府宣言(サン・ジュスト提案) | ||
10月16日 | 王妃マリー・アントワネット処刑 | ||
10月31日 | ジロンド派21名の処刑 | ||
以降~ 1799年 |
ナポレオンが台頭し、数々の暴動を鎮圧。1799年のプリュメールのクーデターにより、第一統領政府を設立。 (ナポレオンが第一統領として着任)この出来事により、約10年間続いたフランス革命がようやく完結したのでした。 |
||
ナポレオンの台頭で恐怖政治の混乱は収束を迎えることになります。フランス革命は、特権階級以外の人々が初めて政治の世界に介入した前代未聞のことであり、旧制度に取って代わり、近代民主主義の道が拓かれた画期的な出来事だったと言えます。この影響は、ヨーロッパのみならず全世界に波及していったのでした。 |
王政の停止後、民衆の要求に沿って革命が推進されました。それが、かの有名な恐怖政治です。
革命の推進を少しでも妨げる恐れのある者は、次々と断頭台に送り込まれました。この血生臭い恐怖政治に拍車をかけた要因の一つが、1793年革命裁判所の設置です。裁判が簡略化されたことにより、これ以降に処刑される人は急増しました。
また、ヴァンデの反乱のように、宗教信仰者がいつ反革派に転じるかもしれないという危惧から、キリスト教を徹底的に排除しました。政策としては、西暦(グレゴリー暦)を廃止する替わりに、1週10日、1か月30日からなる共和暦(革命暦)の採用や宗教の祭典(最高存在の祭典・理性の祭典)が有名です。信じ難いことに、この祭典のメインイベントは、なんと数百人の断頭台処刑でした。
恐怖政治が敷かれた1793~1794年のわずか2年の間に、反革派のみならず、裕福な貴族やブルジョアジー、有名な学者、果ては罪のない一般民衆への断罪が後を絶ちませんでした。この間、処刑された人数は、フランス国内で延べ4万人、5万人とも言われています。
【公安委員会の独裁】
ジロンド派失脚後、ロベスピエールを中心とした山岳派は次々と急進的な政策を行います。その中の一つとして、当時、食糧難や経済の混乱から各地で暴動が多発したことや外国軍の流入など、内外の危機から脱出するために、経済統制を行い、そして軍隊を再編成し、取り締まりに当たりました。それは、1793年発令の国民総動員法により、全国から若い男性が強制的に徴兵され、それを指揮する将校は選挙で選出され、強固な体制づくりができたからと言えるでしょう。また、ロベスピエールの補佐役の一人、サンジュストが提案した「平和が到来するまで革命的である」と宣言した法令(革命政府宣言)を発令することにより、さらに反革派に対する取り締まりを強化、全政府機関が公安委員会の監視下に置かれ、公安委員会は絶大な勢力を誇るようになっていきます。
【ジャコバン党の内紛】
内外の危機からの脱却に見事成功したのも束の間、改革を遂行していた中心人物である寛容派のダントンでさえも、恐怖政治の緩和を示唆するようになりました。ロベスピエールは、盟友ダントンでさえも断頭台に送り込みます。また、ジャコバン党過激派のエベールも、公安委員会に民衆を扇動させる不穏な勢力とみなされ、断頭台の露と消えました。ダントン一派とエベール一派を排除したことにより、ますますロベスピエールの独壇場となっていきました。
しかし、極端な平等主義や厳しすぎる経済統制、恐怖政治の徹底ぶりが、ブルジョアジーの反感を買い、また、当初は恐怖政治を支持していた民衆でさえも、明日は我が身と恐怖に戦きました。こうした民意とともに、過半数を占めていた一般議員は、ロベスピエールを筆頭とした公安委員会の存在を疎ましく思うようになりました。そこで反旗を翻し、ロベスピエール一派の逮捕、処刑となるテルミドールの反乱(テルミドールクーデーター)に発展しました。約2年間の恐怖政治に終止符が打たれた瞬間でした。
◆参考文献
河野 健二『フランス革命小史』(岩波新書)
小栗 了之『フランス革命』(教育社)
アレクシス・ド・トクヴィル著/伊井玄太郎訳『アンシャン・レジームと革命』(講談社学術文庫)
アレクシス・ド・トクヴィル著/小山勉訳『旧体制と大革命』(ちくま学芸文庫)
バロネス・オルツィ著/山崎洋子訳『世界の冒険文学14 紅はこべ』(講談社)
バロネス・オルツィ著/西村孝次訳『紅はこべ』(東京創元社)