「絶対の正義はない」とか「正義の暴走はいけない」とか言ってる人の言い分を俺なりに咀嚼すると、要するに一つの価値体系の正しさを信じ込み、現実と乖離してしまうのは危険だということであろう。
そうだとすると、その危険が現実化しているのは、現代日本では、実は「表現の自由」絶対思想である。
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返信先: さん
「表現の自由」絶対思想を巧く要約したのがヴォルテールが言ったと言われる(本当は言ってない)例の格言。
憲法学的に表現すれば「内容中立規制」原則となる(表現内容に着目して規制してはならないとの原則)。
この原則を支えたのは本来「思想の自由市場」思想だろう。
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思想の自由市場思想は20世紀初頭に米連邦最高裁のホームズ判事が唱えた理論。しかし、米国で内容中立規制原則が定着するのはもう少し後ではないか。
ヴォルテール格言を捏造したのは、1970年代、スコーキー事件でネオナチを弁護した米自由人権協会だった。
公民権運動がひと段落ついた後の時代だ。
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スコーキー事件でネオナチを弁護した弁護士たちが強く主張した「内容中立規制原則」。日本の憲法学はこれを「絶対の正義」として受容した。
しかし、スコーキー事件でネオナチを弁護できる理論を日本に持ち込めば、当然、ヘイトスピーチ問題で在特会を擁護する議論になる。
日本は土壌も背景も違う
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土壌も背景も違うところに米国産の「表現の自由」自由絶対思想をそのまま持ち込めば現実との乖離が生じる。それでも米国産の理論を「絶対の正義」と信じてヘイトスピーチ規制に反対する弁護士が後を絶たなかった。
私見によれば、彼らの姿こそ「正義の暴走」そのものだったのである。
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