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スペイン・セビリアの旧市街地。ネオクラシック調のこの建物は18世紀から20世紀初頭までたばこ工場だった。地下には、たばこを運んだ水路の跡が残っている。葉巻は適度の脂と柔らかさがある女性の太ももで巻くのが一番良質とされた時代。女性たちは、なまめかしい姿でたばこを巻いた。女性の社会進出の象徴でもあったという。 このたばこ工場を舞台に描かれた小説が、フランスの作家メリメが1845年に発表した「カルメン」だ。 衛兵のドン・ホセはたばこ工場で工員のカルメンに声をかけられ夢中になる。しかし、束縛されるのが大嫌いなカルメン。ホセは翻弄(ほんろう)されたあげく、カルメンと一緒にいた上官をもみ合いの末に死なせ、脱走し山賊になる。ホセは何とか自分のものにしようとカルメンに迫るが、拒まれ殺してしまう。 カトリックの教えで離婚が厳しく制限されてきたスペイン。カルメンのような女性はメリメの時代も、とても認められない存在だった。ところが、フランコ政権の崩壊から約30年。「カルメンの不運」の著者、アルベルト・ゴンサレス教授(65)は「女性の意識は全く違う国になったかのように変わった」と話す。 フランコ時代、メリメへの反発からこんな歌がはやったことがある。 私はスペインのいい女カルメン スペインの勇気あるカルメン フラメンコのドレスを着ても 中身は信心深くて慎みがあるの 私はスペインのカルメン メリメのカルメンじゃないわ ゴンサレス教授は「今なら、『私はメリメのカルメンよ 昔から求められてきた女じゃない』と歌うのではないか」と笑った。 スペイン留学中の清水憲男・上智大学教授(59)によると、女性の意識の変化に弾みがついたのは、離婚法が制定された1981年以降。離婚率は上昇の一途をたどり、83年に3万8900件だった離婚数は05年には13万5000件になった。女性の晩婚化も進み、女性が一生に産む子どもの平均人数は欧州で最低水準にあるという。 セビリア大学のパティオ(中庭)にいた歴史地理学部の女子学生、バネッサさん(25)は「法律の改正で離婚しやすくなったのはいいことよ。若い人たちはもう教会を信用していない。ミサに行くのはおばあちゃんだけよ」。マリアデルマルさん(22)は同棲(どうせい)中。「彼と結婚するかどうかまだ分からないわ」と話した。 「知られざるカルメン」の著者、マラガ大学のレアンドロ・フェリックス教授(63)は言った。 「女性の自立という意味では、カルメンは現代女性の象徴だと思う」
綿密な下調べで描いた「悪女」抜けるような青い空に、ひと筋の飛行機雲が伸びる。 メリメがカルメンと出会ったと書いたスペイン・コルドバの街並みは、強い日差しに白く光っていた。 女性の水浴びを見物したグアダルキビール川にかかるローマ橋、カルメンに連れられて訪れたヒターノ(女性形はヒターナ。いわゆるジプシー)の住宅街。ドン・ホセと出会ったというカルチェナ平野も遠くに見える。 「カルメン」の風景描写の、なんと忠実なことか。肌をジリジリと焼かれながら思った。
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マラガ大学のフェリックス教授の説明は明快だった。 「メリメはフランス歴史学会のアカデミー会員。『カルメン』はスペインの歴史や地理などを詳しく調べて書かれており、単なる悪女の物語ではありません」。物語の随所にメリメらしさが垣間見えるという。 ホセに出会ったメリメは、歌からホセがバスク人であることを見抜く。柔らかい言葉つきからカルメンがアンダルシアの女だと言い当てる。 ホセが裕福で教育水準の高い北の男なのに対し、カルメンは山賊も暗躍する怪しげな南の女だ。その魅力をこう表現している。「少なくとも彼女は私がこれまでにあった同族(ヒターナ)のいかなる婦人よりもはるかに美しかった(中略)不思議な美しさであり、一目見た者をまず驚かすが、以後決して忘れることのできない顔だちである」 カルメンのモデルは誰なのか。フェリックス教授は「メリメは少なくともバレンシアなど3カ所で見たカルメンのイメージを合体させている」と分析する。そのうち、グラナダではカルメンを想像させるような美しいヒターナと出会い、バレンシアでは占い女の営む居酒屋で、少しも日に焼けていない美しい娘が作ってくれたガスパッチョを食べている。その娘の名がカルメンシータだった。 メリメは「カルメン」を書く前に少なくとも2度、スペインを旅行している。フェリックス教授は「『カルメン』を読み解く手がかりは、メリメの『スペインからの手紙』にある」と言う。雑誌社や友人などにあてた準短編小説ともいうべき内容。「盗賊」や「スペインの占い女」などが収められ、アンダルシアで活躍した山賊の話や旅の途中に出会った占い女の話なども書かれている。それらが、山賊になったホセがカルメンの夫と決闘するシーンや、磁石やカメレオンの干し物などで占いをするカルメンの描写などに生かされているという。
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スペイン文学者の荻内勝之・東京経済大学教授(63)は「スペインに良き理解者がいたことも、メリメには好都合だった」と話す。マドリードのテーバ伯爵夫人(後のモンモンテホ伯爵夫人でナポレオン3世の皇后の母にあたる)とスペイン人作家のセラフィン・エステバネス・カルデロン。スペイン旅行の際には必ずこのふたりを訪ねている。テーバ夫人は小説家としてのメリメのために様々な話をしている。ナバーラの男が女のために国を売った話や、マラガのヒターノの男が売春した妻を殺した事件などが、「カルメン」を書く際のヒントになったとみる。 カルデロンは遊び友達で、一緒にマドリードのマンサナーレス川沿いの売春宿をしばしば訪れている。メリメが見たというグアダルキビール川の女性の水浴びは、実際にはマンサナーレス川だったというのがメリメ研究家の大方の見方だ。 「カルメン」を発表する前年の1844年、メリメは売春婦を主人公にした小説でフランス社会の猛反発を買った。「上流社会の婦人よりも売春婦の方が知的水準が高い」という内容。フランスでは小説を焼き捨てろという声が上がるなど激しい批判を浴びた。しかし、メリメは翌年、テーバ夫人にあてた手紙に、「『カルメン』は売春婦の小説と姉妹編だ」と書くなど動じなかったとされる。 主人公をヒターナにしたのは、スペイン社会の反発をかわすためだったようだ。インドから来たとされる移動民族。男は博労や獣医師、女は占いなどをしていた。独自の文化を持ち、ほとんど社会にとけ込むことはなかった。
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メリメがスペインを初めて旅行したのは1830年。パリで金持ちの女性と恋に落ちたが、実らなかった。その痛手をいやすための旅だった。生涯、独身を通しながら、不倫相手の夫と決闘し負傷するなど盛んな女性関係でも知られる。 怪しげな魅力にあふれるカルメンに夢中になりながら、自分のものにできなかったホセ。メリメはその姿を自分に重ね合わせたかもしれない。
文・佐藤昭仁 写真・岩下毅
〈ふたり〉
作者のプロスペル・メリメ(1803~70)がスペイン旅行中に山賊のドン・ホセから聞いたという話を中心に描かれている。バスク地方の伝統的球技でけんかになり、相手を殺してしまったホセは、故郷のナバーラを捨て騎兵連隊に入隊する。伍長の時、セビリアのたばこ工場で働くカルメンと出会いすっかりとりこになった。 ホセは、工員仲間をナイフで切りつけたカルメンを連行途中、わざと逃がす。さらに彼女とあいびきしていた上官を刺殺し、兵舎を脱走。密輸、山賊へと悪の道に手を染める。監獄を脱走してきたカルメンの夫も決闘の末に殺してしまう。闘牛士とつきあっていることを知ったホセは「何もかも水に流すからアメリカに一緒に行って地道に暮らして欲しい」と懇願する。しかし、彼女は「カルメンはどこまでも自由だ」と拒否、殺されてしまう。 作品はビゼーが1875年に歌劇化して有名になった。 |
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