哲学探究3 永井 均
問題の概念化とそのうえでのさらなる懐疑の可能性
Ⅰ 落穂拾い1――「端的な現実」の概念化
1 今回もまずは前回の段落7,8,9の落穂拾いから。そこでは、「端的な現実」の概念化が論じられていた。段落7では、現に感じている感覚が痛みであっても、もし現に感じている感覚が痒みであったならば、それが端的な現実となる、ということがすでに前提されてもいる、ということと並行的に、端的な現実としては、なぜか永井均という人の心(意識)が直接的に、すなわち「むきだし」のあり方で与えられていても、もしそういう仕方で与えられているのが安倍晋三のそれがであったなら、そちらが端的な現実となる、ということがすでに認められている、ということが確認されていた。このような仕方で、「端的な現実」はすでに概念化されており、端的に端的ではない、概念としての「端的」の用法がすでに認められているわけである。これはもちろん、もしそうでなければこの問題をめぐるこのような(=この連載でやっているような)議論自体が成り立ちようがないであろうから、ある意味ではまったくあたりまえのことにすぎない。それでもこれは、たんに前提するのではなく、表立って確認しておくべき事実ではある。
2 段落8ではいわば、同じことの別種の実例が提示されていた。医者は患者が「近頃なぜかくすぐられると痛みを感じる」と訴えれば、なるほどそうなのかと思うであろう。これはつまり、そういう(第0次内包的な)直接的認知というものが存在することが客観的に認められているということを意味する。言い換えれば、他者における「端的な現実」の存在が、すなわち端的に端的ではない「端的な現実」の存在が認められている、ということである。第0次内包ではなく無内包の場合にも、並行的な現象が認められるとされた。なぜか永井均という人の心(意識)だけが「むきだし」のあり方で与えられてしまっているなら、自分にとってはもちろんそれが端的な現実であるが、それが端的な現実としては与えられてはいない他者もまた、そこにそういう「端的な現実」が存在するという事実を認めることができる、ということである。ということはつまり、ここでもやはり、端的に端的ではないような「端的な現実」の存在が認められている、ということだ。無内包の直接的事実の存在にも、客観的な承認が得られうるわけである。繰り返すが、もしそうでなければこの問題をめぐるこのような議論自体が成り立ちようがないのだから、これはまったくあたりまえのことにすぎないともいえはする。
3 しかし、もう一歩掘り下げて、このことは何を意味するのかを考察する必要がある。それはおそらくこういうことだ。この連載では最初に、たくさんの心に中になぜか一つだけ例外的にむきだしの形で存在している心がある、という形で問題を立てた。概して私は、いつもこの形で問題を立てているといえる。特徴的なことは、始めから複数の心の存在が(そのほとんどはむきだしではない形で与えられているという仕方で)前提されている、ということである。諸々の可能世界(それらはみなその世界にとっては現実世界である)の中に端的な現実世界がある、とか、諸々の時点(それらはみなその時点にとっては現在である)の中に端的な現在である時点が存在する、とか、そういう形の問題理解と並行的な捉え方をしているわけである。これは珍しい問題の立て方である。
4 これは同じ問題事象に対する通常の観念論的・主観主義的・独我論的な問題理解とは問題を捉える視角が本質的に異なっている。通常の主観主義的な問題理解がべったりとその主観そのものに固着して、ともあれ端的に存在しているそれからだけから出発して世界を構成していこうとするのに対して、私は最初から、そのような直接与件的なものを超越した客観的・鳥瞰的視点からの世界把握をも前提にし、そのような客観的・鳥瞰的視点に立ったうえで、諸々の主観性・中心性(そういうものが存在していることを前提したうえで)のうちになぜか一つだけ現実的な中心性が存在しているという点に問題を絞っているといえる*。〈私〉という捉え方は、諸々の「私」の存在を前提にして始めて可能になるのである。
*これを、通常の観念論的・主観主義的・独我論的な見地がごちゃ混ぜにしている認識論的問題と存在論的問題を峻別している、ともいえるし、通常の観念論的・主観主義的・独我論的な見地が視野の外に置いている、その見地に内在するはずの存在論的問題を取り出そうとしている、ともいえる。
5 このことを図示するとこうなるだろう。
図1 『論理哲学論考』の5.6331の視野の図の、視野の中の眼が視野の外に出た図
図2
図3
通常の主観主義的な世界理解が図1あるいは図2のように世界を表象するのに対し、私は最初から図3のように表象している。どの図においても、〇、△、◇、□、▽、…、は人間(あるいは意識的存在者)を表現しており、形の違いはそれぞれの(物的および心的な)識別的特徴を表現している*。〈私〉は、図1では世界の開けの原点(視角の比喩では視点)であり、図2では世界の開けそのもの(視角の比喩では視野)である。対して図3では、〈私〉は最初から(それぞれがみな自分の視点と視野をもつ)人間たちのうちの一人である(だから視角の比喩は成り立たない)。とはいえ、□が黒塗りされて■となっているのは、□だけがなぜか図1、図2のようなあり方もしているということを表現するためである。したがって、この図3は図1や図2をすでに含み込んでおり、異なる(どころか矛盾する)二種の世界像が合体していることを表現している。すなわち、図3は、世界はなぜかふつうに一人の人間であるはずの□が図1、図2で表現されるようなあり方もしている!という存在論的な驚きを表現しており、このことを表現するのが〈私〉という表記法である。
*心的な識別的特徴の中心はもちろん自分の来歴の記憶である。
6 〈私〉という表記法は、それが「私」たちと対比されていることを表現しており、それは〈□〉という表記では表せないことを表現している。もし〈□〉であったなら、そう表現された独在性は、□にだけ心が、意識が、すなわち中心性がある(のではないか)、という独我論的問題感覚と簡単に混同されてしまうだろう。私の問題意識はそれとは違っており、その違いを表現するための表記法が〈私〉である。それは、複数の「私」たちが存在している中に、なぜか一人だけ変なあり方をしている奴がいることを表現している。だからそれは通常の独我論的問題感覚も含んでいてもよく、そのほうが自然であるとさえいえるのではあるのだが、そのような形で表現してしまうと、ほとんどの人がそこに隠れているもう一つの問題を見落とし、問題を即座に「ものごとの理解の基本形式」に沿って捉えてしまうのである*。私の問題感覚を先鋭に(=他と混同されないように)取り出すには、すでにたくさんの中心性が存在しているのだが、なぜかそのうち一つだけが現実的な中心性であること、なぜかそういう変わったものが(現在は**)存在していること、そのことに論点が絞られねばならない。すなわち、なぜ他人にも中心性があるとわかるのかといった認識論的な問題意識をそこから切り離さなければならないのだ***。この存在論的な現実性への驚きは認識論的独我論の問題感覚とはまた別のものであること、これが私が言いたいことである。それゆえ、繰り返しになるが、〈私〉ははすでに他の複数の「私」(中心性)が存在する(少なくとも問題なく存在しうる)ことを前提にした表記法となっている。やはり繰り返しになるが、ここに通常の他我問題を混ぜ込んでしまうと、「なぜかそのうちの一つだけが……!」という原初の驚きの水準が取り逃がされてしまうからである。この問題水準だけを切り離して取り出すことが私の問いの眼目である****。
*私自身は、逆に、人々のそのような傾向を知ったとき、非常に意外に感じたが。
**この捉え方の内には、100年前はそうではなくおそらく100年後にもそうではなくなるという問題感覚が強烈に存在している。その際に最も重要なポイントは、100年前にも100年後にも複数の中心性が、すなわち心や意識がふつうに存在しているということであり、その際にはしかし、たんに並列的に存在しているだけである、ということである。問題はこの違いだけに絞られねばならないのだ。
***本質的には注*と同じことだが、このことを知ったときにもとても驚いた。しかし、そうしないとなぜかほとんどすべての人が即座に問題の意味を誤解し、当初はそこに含まれていたはずの存在論的問題意識をすっかり見失って、平板な(のっぺりした)認識論的問題だけに関心を集中してしまうのである。哲学史を振り返ってみても、この問題をめぐる議論のすべては、まさにこの見失いから出発して立てられている。
**** だから私の問題設定は、一見したところ、他我の実在性を前提しているように見えるだろうが、そうではない。そう見えるような設定を選択したのは、私の問いが他人はもしかしたらゾンビかもしれない等々といった種類の問題とは異なる水準にあることを明示するための方策なので、その設定に何らかの主張が込められているのではない。他人はじつはゾンビであっても(なくても)、まったくかまわない。そんな違いを超えて、ともあれなんと他人ではないか! 驚き(タウマゼイン)は何よりもまずそこに結集されねばならない。
7 したがって〈 〉は、ウィトゲンシュタインが『青色本』で提示した、チェスの駒に被せられた紙の冠*のような比喩にもきれいに対応してはいない。画期的とさえいえる対応点があるにもかかわらず、そうなのである。画期的とさえいえる対応点とは、冠も〈 〉もそのゲームに関与できないことこそを表現している、という一点である。このことが画期的であるのは、それが超越論哲学の伝統と、すなわち超越論的主観性の伝統ときっぱりと縁を切っており、むしろその真逆の方向への一歩を踏み出しているという点にある。冠や〈 〉が表しているのもある種の主観性ではあるのだが、それはそれが属する世界でおこなわれているあらゆる有意味なゲームの(その有意味性の)外に存在することを最大の特徴としており、その主観性はそのゲーム(つまり世界)とのあいだに、超越論哲学が主張するような、それの存在こそがそのゲーム(つまり世界)をはじめて成立させ、開始可能にするような、超越論的な意味連関はまったくない。むしろ、それとの関係のなさこそがその本質なのである。なぜかそこを強調する人があまりいないのだが、ウィトゲンシュタインの冠が独我論を表象する比喩形象であったならば、これはその点において真に画期的な一歩だった、といわねばならない。世界の意味は、ゲームのルールとそれに基づく駒のはたらき方によって全面的に与えられており、冠や〈 〉が被せられること(が表現していること)は、その世界の内部で意味のある何ものもそこに付け加えることができないのだ。
*拙著『「青色本」を掘り崩す』(講談社学術文庫)の「27 白のキングに紙の冠をかぶせる」を参照されたい。
8 それならば、それは世界に何を付け加えるのか、と問われるなら、冠は文字どおり何も付け加えない(ということを表現している)のに対し、〈 〉は、何も付け加えない(ということを表現している)と同時に、現実性(actuality)あるいは現実存在(existence)を付け加えている(ということを表現してもいる)、と答えなければならない。冠は文字どおり何の働きもしないが、〈 〉は、ゲーム内では何の働きもしないとはいえ、ゲーム全体が現実にはなぜかそこから開かれているという形で、そのゲームにその現実存在を与えるのである。ただその現実存在だけを与えるにすぎない(中身に何の変りもない)ともいえるし、初めて現実に存在させるのだ(大変な変化だ)ともいえる。とはいえもちろん、現実的である(actual)こと、現実存在する(exist)ことは、カントも言うとおり*、事象内容的な(=新たな内包を付け加えるような)述語ではないので、その世界のだれかが〈私〉であっても、そのことはその世界に事象内容的(real)な何ものも付け加えることはない。いや、現実に存在するという、これ以上ないほどに重要なことが付け加わったのだ、といくら言い募っても、それはたんにもともとからあったあたりまえのことを繰り返して語っていることにしかならない**。
*この無内包の現実性は、カントが『純粋理性批判』第二部「超越論的弁証論」の第三章「純粋理性の理想」の第4節「神の存在の存在論的証明の不可能性について」において、神の存在の存在論的証明を批判する際に持ち出した、現実的100ターレルと可能的100ターレルの間に額の増減がない(すなわち内包においては等しい)という議論に対応している。現実的100ターレルと可能的100ターレルのあいだに存在する差異は事象内容的(内包的)な差異としては表現できず、できてはならないのである。もしできてしまったら可能であったそれの現実化にならないからだ。(それゆえ、「最大である」「完全である」等々の事象内容的特性から「存在する」という事象内容的ではない無内包の特性を導き出すことはできない、というのがカントの存在論的証明批判であった。)
**これは、言ってみれば、すでにその定義の内に「存在する」ことが含まれている神について「なんと現実に存在している!」と発見して驚いていることにあたる。あたかもある独身者が結婚していないことにあらためて驚いているように。
9 可能的100ターレルが現実的100ターレルになっても「100ターレルである」という事象内容には変わりがないというのはわかるが、複数の人間からなる世界において、そのうちのだれかが〈私〉であったなら、世界はそこから開かれることになるのだから、その世界が〈私〉の存在しないのっぺりした世界である場合や、他の人が〈私〉である場合と比較して、世界はその事象内容(事実的な中身)を大きく変えるのではないか、内包自体が大きく変わるのではないか、と思われるかもしれない。たしかに、一面ではそう捉えることもできるし、そう捉えざるをえないとさえもいえる*。しかし、ここで哲学的に重要なポイントはむしろ、決してそうは捉えられないのだ、という他面の存在にこそあるのだ。どういうわけかこのゲームを構成する(=成立させる)ルールの中には、〈私〉の存在が初めて付け加えるはずの事柄が最初からすでに用意されているからである。チェスの比喩とは異なり、この世界の場合には、それぞれの駒にあたる人間たちがみな心(意識)を持ち、したがってそれぞれそこから世界が開けている中心性を持っていることが、その世界を構成する(=成立させる)ルールとして、予め認められているわけである**。中心性なのだから当然、それぞれにとってはそれこそが唯一の原点であることになる。このことを、『哲学探究1』以来の装置を適用して、「第一基準」によって自己を識別している、と表現することもできるし、この事態を、《私》の存在があらかじめ組み込まれている、と表現することもできる。そうすると、〈私〉の存在は、そこに内包的に異なる何ものも付け加えることはができない、ということになる。何かが付け加わるとしても、そこで起こることをその世界を構成している言語で語ることはできない。《私》とは〈私〉が概念化されたものなのだから、それは当然のことだろう。
*『哲学探究2』における唯物論的独我論者の問題提起をめぐる議論はこのことに関連していた。
**あくまでもチェスの比喩に固執して、このチェスにおいてはそういう主観性・中心性がその構成的規則としてあらかじめ組み込まれているのだ、と言っても同じことである。チェスの比喩をそう解するほうが興味深い解釈だと思う。
10 そこで、事態をチェスの比喩と重ねて表現しなおしてみよう。〇、△、◇、□、▽、…、は駒の形と機能を表現している。形は見かけの容姿等、機能はその他の内面を含む働き方の特質と重なる。ところが与えられた端的な事実として、なぜかそのうちの一つである□だけが■という特殊なあり方をしている! すなわち、事実としてそこからだけ世界が開けている! いいかえれば、事実としてそれだけがむきだしの心(意識)である! なぜかそういう世界が与えられてしまっているのだ。□がその不思議な端的な事実を(その世界で通じる言語の文法の従って)他の駒たちに語るとしよう。他の駒たちの反応は、「なるほど、よくわかりますよ。□さんにとっては□さんが、そして□さんだけが、■という特別なあり方をしている、ということですよね。実をいえば、私もそうなのですよ! そして、他の駒たちもきっとみんなそうですよ。」というものであろう。なぜそういう反応なのかといえば、それがこのチェスを構成する最も基礎的なルールだからである*。いいかえれば、どの駒にとっても、およそ自分というものを捉える仕方はその仕方以外にはありえないからである**。すなわち、だれでも自分を自分として捉えるには「事実としてそこからだけ世界が開けている! いいかえれば、事実としてそれだけがむきだしの心(意識)である! (なぜかそういう世界が与えられてしまっている)」というように捉えているほかはないのだ。それ以外には「自己」(もっと簡単な言葉でいえば「自分」)が存在する仕方はありえないからである***。自己は単なる反省によって生じることはできない。いいかえれば、自己反省の意味での「反省」とはこのような「しかなさ」が与えられているということ以外ではありえない。もしこの事態を「独我論」と表現するなら、■の独我論が成り立たない理由は簡単なことであろう。それは、彼の独我論表明は彼とその仲間全員が従っているゲームの基礎的なルールそのものの表現でしかありえない、という理由だからだ。彼が真に言いたいことは決して言えない。このゲームにかんしては、その成員のだれもがその同じ意味で独我論者であらざるえないからだ。それこそがこのゲームの構成的な規則だからである。
*だから、一面では■はその事実をあらかじめ知っていたはずであり、他の駒たちからそういう反応が返ってくることもあらかじめ予想できたはずである。もちろん■にとっては、その反応が言っていることは彼の問題提起の答えにはならない。「そうであっても現にこんなに違うではないか!」というのが彼の言いたいことだからだ。だから、他の駒たちが彼と同じ種類の状況にあることは決してない。その決してなさこそが彼が言いたい当のことなのだから(この連載ではまさにそのことを何度も繰り返して語ってきた)。しかし、もちろん、逆に、そのことが他の駒たちに理解され賛同されてしまえば、『哲学探究2』の唯物論的独我論者の想定が提起していた問題に類する、問題の内包化、事象内容化、実在化が起こってしまう。これが哲学的論点である。
**もちろん、このありえなさはをゲームのルールによるありえなさと見なすのは、チェスの比喩をあえて最大限に拡大適用しているこの文脈においてのことにすぎない。実際には話はそんなに簡単ではなく、ある意味ではむしろ逆で、B系列がA系列の相対化によってしか成立しえないように、そのルールは唯一の黒塗り存在である■のもつ黒塗り性を全体に相対化することによってしか成立しえない、ともいえるからである。しかしまた、A系列は始めからB系列への相対化が可能ななり方をしている(じつはA事実とA変化に分割可能であることによって)でなければそれとして捉えることもできないのと同様に、黒塗り性は最初から相対化可能なあり方をしている(すなわち他の駒が黒塗りであった可能性を理解している)のでなければそれを黒塗りとして捉えることができない、ともいえるのである。この仕組みについては、これまでの何度も論じてきた(が、これからもまた何度も論じなおすことになるだろう)。
***これをウィトゲンシュタインの伝統に従って「自己」(「自分」)という語の「文法」と呼ぶこともできるが、前注の述べた事情により、それはじつはたんなる言語の「文法」ではありえない。
11 □が自分の■性がまったく例外的なものであるという端的な事実*を他者に伝えたくても、それを言葉で伝えることは決してできない。言語とは、何かを伝えようとする側とそれが伝わる側とのあいだに、どちら側から見ても同一の事柄があるという前提のもとで(それを伝達するという仕方で)はじめて成立する伝達の方法だからである**。すなわち、それは、一つの客観的世界というものがあって、すべてがその一つの共通世界に収まるという前提のもとで成立する仕組みなのであって、逆にいえば、その仕組みこそがそのわれわれの世界をはじめて創り出している、ともいえる。世界という共通の客観的なものがあるという前提のもとにおいてであれば、□にしか経験できないような事実が存在することには何の問題もない***。しかし、□がいま言いたいことは、じつは世界はそんなふうに出来てはいないではないか、ということなのである。
*もしそうでなければ、みなその同じ仕方で「自分」を捉えている者たちのうち、どれがこの自分であるのか、その一番肝心なところがわからなくなってしまうはずだから。
**しかし、それ以外の伝達方法がありえようか。何度も指摘してきたことだが、「私」や「今」という語には、伝えようとする側と伝わる側とのあいだに、もともとは無いこの「同一の事柄」を作り出す仕組みが内在しており、それが双方を一つの客観的世界の内に収めることになるのだ。われわれはみなすでにしてその仕組みの下僕である。
***すなわち、第0次内包のようなものである。こうしたものの存在はむしろ不可欠であり、その延長線上に、□(という客観的な存在者)が個人的に持つ私的言語のようなものが存在することにも何の問題もない。
12 彼が言いたいことは、この世界はそのようにどちらから見ても(ただ捉える角度が変わるだけで)同じ事態が捉えられるようには出来ていないではないか、ということなのだ。□が■であるという事実は、△や〇たちにはたまたま見えないのではなく、そもそも存在していないのだ。それが存在するとされる場合には、△や〇たちの側からもまったく同じことがいえるとされる場合か、さもでなければ『哲学探究2』における東洋の専制君主らの場合のように、実在化(事象内容化)を経てでなければならない。いいかえれば、冠は、(見る角度によって見えたり見えなかったりするだけで)じつはだれもが被っているとされるか、あるいは、実際に一人しか被っていない場合には、ゲームの規則によって規定された有意味な冠であるとされるか、どちからでしかありえない。つまり、■の言いたいことそのものは決して伝えられないのだ。
13 ところでしかし、△や〇たちが言う「こちら側からも同じことがいえる」とは、「君がいま言おうとしているのと同じことがこちらかも言えてしまうよ」という意味であるだけではなく、それと同時に、「君がいまそれが言えなくて驚いているそのこととまったく同じ問題は、つまり同じ驚きは、こちら側からも同じように存在しているんだよ」という意味でもあらねばならないだろう*。もし■がそう(=この後者のように)言われたなら、そのとき■は、この△や〇たちの主張するその「驚き」を自分と「同じ(種類の)驚き」であると認める(べき)であろうか。
*これはつまり、段落11の注*で指摘した「もしそうでなければ、みなその同じ仕方で「自分」を捉えている者たちのうち、どれがこの自分であるのか、そのいちばん肝心なところがわからなくなってしまうはずだから」というその問題が、すなわち、そうであるはずなのに現実にはなぜか「そのいちばん肝心なところ」がわからなくなってはしまわないという事実が存在するというその問題が、実のところはだれにでもいえる事実なのだ、ということでもあるだろう。
14 答えはもちろんイエス・アンド・ノーでなければならない。その答えがどこまでもイエス・アンド・ノーであるということこそが、この問題の哲学的な肝である。一方では、ここで「同じ」驚きが生じるのでなければ、この問題が――問題の存在そのものが――他者に伝わることはありえないだろう。しかし、他方で、そこで話が通じて意見が一致して終わるようないわば構造的な事実の水準にとどまっていたのでは、すなわちそれを超えた端的な実存の水準が(なぜか今は!)存在しているということが問題にされなければ、このことが根源的な哲学的問題である理由もないだろう。いや、そもそもそうでなければ前者のような構造的な問題も生じえないだろう。もちろん■はそれを言おうとしているのだ。
15 さて、ここまできて、問題がなぜか■という仮想の存在者に起こる問題として語られていることに不思議さを感じている方々もおられることであろう。つまり、このことが前段落で「構造的な事実の水準」として名指された水準にすでにして落とされて語られてきていることに。論じられている問題は〈私〉の存在だが、■はどこかしらに存在すると想定された仮想上の駒であって、そいつの〈私〉はすでに仮想上の〈私〉なのであるから、当然、これを書いている現実の(つまり永井の)〈私〉から見れば、現実の〈私〉ではない。それならば、それはすでにして《 》の水準に落とされているのかと言えば、必ずしもそうとはいえない。なぜなら、チェスの駒を人間のようなものと見立てて、そのゲーム全体を一つの完結した世界と見なしたその時点から、当然それはこの世界ではなく、そこにこの永井均などはもちろん存在していないからだ。その時点から、一つの客観的な可能世界であると同時に、なぜかその成員である■から(だけ)開かれている、一つの「中心化された世界」が想定されたのである。どういうわけか、事実として、端的にそういうものが与えられてしまっている!という形で、この問題の考察を開始することができるのだ。現実の自分の存在からは離れて、この問題構造それ自体をいわば客観的・構造的に考察することができるわけである。
16 これがすなわち、前回の段落9とさらに遡れば前々回の段落19で言及された、現実的に中心化された可能世界である。われわれ(=読者諸賢と私)はだれもその世界の住人ではないが、その世界のことを理解はできる。だが、そういう世界を自分の住んでいるこの世界に重ねることはできない。なぜなら、それは現実的な中心性を現実的に二重化することになるからだ。それはできないから、自分が住むこの現実世界において、■のような現実的に中心化された存在者を想定することもできない。この現実世界のだれかにそのようなあり方を想定する際には、それは自分の住むこの世界とは別の一つの新たな中心化された世界を(客観的世界としてはぴったり重ねる形で)構想するほかはない。しかい、それをすることに格別の困難はないだろう。
17 思いのほか長い道のりを経ることになったが、そこでようやく今回の第一の「落穂拾い」の問題に正面から答えることができる。端的な現実としては、なぜか永井均という人の心(意識)が直接的に、すなわち「むきだし」のあり方で与えられていても、もしそういう仕方で与えられているのが安倍晋三のそれがであったなら、そちらが端的な現実となる、ということがすでに認められている、ということが確認されていた。このような仕方で、「端的な現実」はすでに概念化されており、端的に端的ではない、概念としての「端的」の用法がすでに認められているわけである。これはすなわち、最初の直接的な「端的な現実」の成立の段階においてすでに、概念化された理解が介在していることを意味するだろう。
18 分裂の思考実験に例を替えて、問題の意味をはっきりさせておこう。自分が二つ(RとLと名づけよう)に分裂したとき、分裂してみたらなぜかRの側が〈私〉であった、としよう。このとき、なぜかRが〈私〉であったなら、ことはそれでもう終わりで、Lは端的に他人であある。そういう現実が成立してしまったということをまずはしっかり捉えはなければならない。Lから見れば(Lにとっては)同じことがいえるという視点は、それはもちろんそうであり、あたりまえのことでもあるのだが、この問題場面に入り込む余地はない。まずはここをしっかりとらえないと問題の意味がさっぱり理解できないことになる。そのことを前提にしたうえではじめて、Lが〈私〉である可能性を考えることができる。Rが〈私〉である場合が中心化された現実世界であるのに対して、こちらは中心化された可能世界である。問題のこの構造をしっかりと捉えないと二種の無理解が生じることになる。一つは、どちらからも対等に同じことが言えるだけだという誤解であり、もう一つは、もしRが〈私〉であったならLが〈私〉であることは不可能であるという誤解である。後者はむしろ、Rが〈私〉であるという現実はLが〈私〉である可能性のもとでのみ理解可能な現実なのだ。そして最後に重要なのは、この分裂の思考実験がいずれにせよ架空の話であるということの確認である。つまり、これは独在性の構造についての議論なのである。そこでは現実に〈私〉である人のことなどはまったく考慮の外に置かれている。〈私〉の存在の問題は、このように概念的な考察が可能な存在論的問題なのである。
Ⅱ 落穂拾い2――過去の実在に対する他我問題型の懐疑論の可能性
19 今回は二つ落穂拾いをしてから本論に入ろうと思っていたのだが、第一の落穂拾いだけで予定の紙幅をすでに超過してしまったので、第二の落穂拾いにかんしては、その端緒だけを、それも第一のそれとの関連においてだけ、簡単に素描して終わることにしよう。
20 前回の段落14において、過去の実在に対する懐疑論には外界の懐疑型と他我の懐疑型があり、後者は「過去はあるにはあったのだがその時における現在はなかったのではあるまいか」と疑う懐疑論である、とされた。これはしかし、「存在はしたのだがその時における現在はなかったとはどういうことなのかがそもそもはっきりしない」という難点があるとされた。
21 過去における〈現在〉を他者における〈私〉と同型のものと見なして、今回ここまで論じてきたことの延長線上に、この問題に答えることができる。他者における〈私〉とは、現実の〈私〉の存在する世界に共在することはできないが、そこに可能的な中心化された世界が存在することを意味した。ある他者(生きた人体)にはそがれが無いかもしれないと疑うことは有意味であろう。それは、そこから開ける(私には感知できぬ)それがすべてでそれしかない世界の存在を疑うことである。これはつまり、私と他者のあいだに現実に存在する断絶を、概念化された仕方で他者の内部で再現してみることである。それは可能である。つねに逆懐疑論が可能であることからもわかるように、他者にそれがあってもなくても、私にはもちろんまったく関知しようもないことだが。しかし、その意味を理解することはできる。
22 同様にして、過去にかんしてその時の現在がなかったのではないかと疑うことに意味の与えようがないとはいえない。それはただ、その時点においてはA事実が消滅していた、すなわち「その時しかなさ」が存在しなかった、と想定するだけでよい。とはいえ上述の《私》ゾンビに比べると、もこの《現在》ゾンビの想定は遥かに難しいとはいえる。その理由は何よりも、それがその時点に存在する生き物の意識全体を巻き込む形でしか想定できないからだろう。世界はそのとき順次的な継起という形式を失わなければならない。だが、それは考えられることではなかろうか。そのとき世界はじつは年表やカレンダーのように一挙に存在したのだが、いまそれを想起する現在のわれわれに、それは順次的な継起という形式をとって現れるのではないか、と疑うことはできるのではるまいか*。
*われわれは現在を順次的に経験しているが、じつのところは過去をそのような形で思い出すわけではない(未来もそのような形で予期するわけではない)。だから、この懐疑にもやはり、現在と過去未来とのあいだの存在するあり方の断絶を、過去未来そのものの内部で反復しているにすぎない、といえるであろう。
23 この考察は、時間の経過という問題そのものの理解にも示唆を与えるだろう。年表のような時間軸上を〈現在〉が移動して行くはずなのに、「その動く現在は現在はどこにあるのか?」という問いが立てられてしまう、という現在概念の二重性をめぐる問題も、この議論の観点から答えられるであろう。さらに、〈私〉が時間的に持続するという不可思議な事実にも、この考察の観点から一定の示唆が得られるのではないだろうか。