大戦士ヘラクレス――。

　確固(かっこ)たる自信と深い叡智(えいち)に溢れた群青(ぐんじょう)の瞳。

　二メートルを超える巨躯(きょく)には、隆起(りゅうき)した筋肉が搭載されており、腰に差したる獲物は、神話の宝剣マルミアドワーズ。

　威風堂々としたその立ち姿は、まさに大英雄然(ぜん)としていた。

（……よかった。なんとか間に合った……っ）

　今回ばかりは、冗談抜きで危なかった。

　レグルスの幻想神域が完成する直前、本当に紙一重のタイミングで、ヘラクレスが応(こた)えてくれたのだ。

　後コンマ数秒でも遅れていたら、この召喚は成立しなかっただろう。

「はぁはぁ……っ。よくも、私の命々流転郷(めいめいるてんきょう)を……ッ」

　幻想神域は魔術の極致であり、その構築には細心の注意を要する。

　今回の場合は命々流転郷(めいめいるてんきょう)が完成しきる直前――術式が最も不安定となる瞬間に、ヘラクレスという『超級の異物』が混入したことで、論理崩壊を起こしてしまったのだ。

（……かなり消耗しているようだな）

　神螺転生(しんらてんせい)の能力によって、先ほど引き千切られた右腕はもう復活しているのだが……。

　レグルスの顔色は、まるで優れない。

（幻想神域の発動には、途轍(とてつ)もなく膨大な魔力を消耗すると聞く……）

　この消耗具合から判断して、二度目の幻想神域は警戒しなくてもよさそうだ。

「――ヘラクレス、やってくれ」

「ル゛ォオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛……！」

　俺の魔力供給を得た大英雄は、凄まじい勢いでレグルスのもとへ突き進む。

「……真正面から向かって来るとは、私も舐められたものですね。――神螺転生(しんらてんせい)」

　レグルスの右手がヘラクレスの脇腹に触れた瞬間――ヘラクレスの体はボコボコと膨れ上がり、黒い肉片となって飛び散った。

「ふっ、他愛(たわい)もありません。魔術師の勝負は、魔力の過多で決まるものじゃない。術式の相性や術者の判断能力、そのほか多くの要素が複雑に絡まり合っ――」

「――何をもう勝った気でいるんだ？　今のは最弱の(・・・)第一形態(・・・・)だぞ？」

「……え？」

　四散した漆黒の肉片が瞬(またた)く間に集(つど)い、ヘラクレスが完全復活を果たす。

「ゴ゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛……！」

　大英雄の強靭(きょうじん)な右腕が、レグルスの顔面に突き刺さった。

「が……っ！？　ぐぉ……ぎ……ッ」

　レグルスはまるでボールのようにバウンドしながら、遥か後方へ吹き飛んでいく。

　遥か神代の頃――ヘラクレスは神々に課せられた『十二の難行(なんぎょう)』を乗り越え、半神半人の英霊となった。

　この大英雄を殺し切るには、性質の異なる十二の攻撃でその命を奪った後、真のヘラクレスを――『十三番目の大英雄』を倒さなければならない。

　第一形態こそ、特筆した力を持たないが……。

　第二形態はネメアーの鎧、第三形態はヒュドラの毒矢、第四形態はケリュネイアの剛角(ごうかく)を……というように、『死』という難行を克服するたび、ヘラクレスは一つまた一つと神話の魔具を獲得していく。

　要は、倒せば倒すほど耐性と魔具を獲得していく、ほとんど不死の召喚獣というわけだ。

　彼と契約を結ぶのは……本当に死ぬほど大変だった。

「はぁはぁ……なるほど、『条件付きの不死性』ですか……っ。ヘラクレスの逸話(いつわ)から推察するに……後十二、三回は殺す必要がありそうですね……」

　その後、レグルスは神螺転生(しんらてんせい)と結界術を駆使し、なんとか必死に食らい付くが……。

「～～ッ」

「グ゛ォオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛……！」

　幻想神域を破壊された反動が――膨大な魔力を失った影響が大きいのか、終始ヘラクレスに圧倒されていた。

「ふぅ、ふぅー……困りました。今の私では、この召喚獣を殺し切れなさそうだ……」

「……諦めたのか？」

「まさか。ただ、少しだけ『基本』に立ち戻ろうと思いましてね。召喚獣が強力な場合は、召喚士(ほんたい)を叩く――召喚士対策の基本です」

　奴は肩を軽く回した後、小さく息を吐き出した。

「……正直に告白しましょう。私はアルトくんのことを正しく評価し、然るべき警戒をしていた……つもり(・・・)でした(・・・)。しかし実際のところは、心のどこかであなたを侮っていたようだ。所詮は無知蒙昧(むちもうまい)な人間。ただの劣等種族に過ぎないうえ、まだまだ未成熟な十代の子どもだ。そんな油断や慢心が……今の醜態に繋がっている」

　レグルスの纏(まと)う空気が、確かに変わった。

「――アルト・レイス。私はもうあなたを格下と思いません。『神代の大召喚士』と殺(や)り合うつもりで、最後の魔術を放ちます」

　これは、気を引き締める必要がありそうだ。

「――神螺転生(しんらてんせい)」

　レグルスは右手を天高く掲げ、静かに術式の名を告げる。

　奴の頭上に魔力で作られた巨大な球体が発生し、それはどんどん小さくなっていた。

「球体内を満たす『空気』に命を授(さず)け、それらを自壊させていく。誕生と死滅を繰り返した果てに生まれるのが、この『絶対真空』……！」

　レグルスの人差し指に、莫大な魔力の籠った小さな球体が完成する。

　小さなガラス玉のようなそれには、恐るべき量の魔力と暴力的な生命力が、これでもかというほどに詰め込まれていた。

（あんなのをまともに食らえば、さすがにただじゃ済まないな……）

　俺は静かに呼吸を整え、魔力の精錬(せいれん)に集中する。

「では……行きますよ？」

「あぁ、来い……！」

　互いの視線が交錯し、レグルスが動いた。

「――神螺転生(しんらてんせい)・崩真(ほうしん)！」

　小さな球体にヒビが入った瞬間、赤黒い閃光が凄まじい勢いで射出された。

（神螺転生・崩真は、『真空崩壊』という極大のエネルギーにありったけの魔力と生命力を注いだ最強の一撃！　これならば、ヘラクレス諸共(もろとも)、召喚士本体(アルト・レイス)を殺れる……！）

　眼前に迫る大魔術に対し、迎撃を開始する。

「ヘラクレス――第十三形態」

　莫大な魔力を投じ、ヘラクレスを『十三番目の大英雄』へ進化させる。

「――宝剣マルミアドワーズ、解放。残存魔力を全て解き放ち、目の前の敵を殲滅しろ！」

　ヘラクレスが天高く掲げた宝剣に、空間が歪むほどの魔力が集中。

「ウ゛ォオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛……！」

　振り下ろされた斬撃は、まさに『神話の一ページ』。

　全てを断ち斬る究極の一撃は、神螺転生(しんらてんせい)・崩真(ほうしん)を食い破り、

「この、化物、め……ッ」

　レグルスの胸部に、巨大な風穴をぶち開けたのだった。

■

「……ぜひゅ、ぜひゅ……ッ。神螺(しんら)、転(てん)……生(せい)……っ」

「……驚いた。まだそんな余力があるんですね」

　全身の約七割を消失したレグルスは、息も絶え絶えと言った様子で再生を始める。

　しかし、その速度は異常に遅く、右腕は回復しなかった。

　これはおそらく、先ほど放った大魔術――神螺転生・崩真(ほうしん)に、ほぼ全ての魔力を注ぎ込んだせいだろう。

「レグルス、お前には聞きたいことが山ほどある。悪いが、拘束させてもらうぞ」

『蟲(むし)』の手印(しゅいん)を結び、食々蟲(しょくしょくちゅう)を召喚――粘性のある触手を利用して、奴の手足を拘束していく。

「……私はこの先、冒険者協会で尋問を受け、いずれは処分されるでしょう……。もはや大魔王様の力になることができない、そんな自分がどうしようもなく情けない……っ」

　仰向けに拘束されたレグルスは、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。

「そこで、一度よく考えてみたんです。どうすればこの命を、吹けば飛ぶような風前の灯(ともしび)を、大魔王様のために活(い)かせるか……。するとなんと、素晴らしい名案が浮かんできました！」

　奴は凶悪な笑みを浮かべ、おぞましい悪意を撒き散らしながら、けたたましい大声を張り上げる。

「――さぁさぁ、みなさんお立合い！　レグルス・ロッドがお送りする、生涯最後の大悲劇が幕を開けますよォ！」

　レグルスが左手で『爆(ばく)』の手印を結んだ瞬間、モンスター化した冒険者たちの体が、ボコボコと膨れ上がっていった。

　この現象は、比翼神(ひよくしん)アゴラを弾け飛ばしたときと同じだ。

「ほらほら冒険者のみなさん、しっかりと目を開けてください！　醜いお仲間(モンスター)の最期をちゃんと看取(みと)ってあげましょう！　この残酷で醜い死を！　なんの意味もない空虚な最期を！　しかとその眼に焼き付けようではありませんか！（――感情が揺らげば、魔力が揺らぎ、魔力が揺らげば術式が揺らぐ！　さぁ怒れ！　傷付け！　己(おの)が無力を嘆け！　その負の感情は、抉られた心の傷は、あなたたちの成長を阻む、大きな足枷(あしかせ)となる……！）」

　奴は満面の笑みを浮かべながら、高らかに術式を謳(うた)いあげる。

「――神螺転生(しんらてんせい)・解(かい)！」

　次の瞬間――静寂があたりを包み込む。

「「「……？」」」

　そこには、あるべきはずものがなかった。

　弾け飛んだ無残な遺体・冒険者たちの悲鳴・二度と癒えぬ悲しみ――悲劇を構成するものが、何一つとして存在しない。

「何、故……？　どうして、誰も弾(はじ)けないのですか……！？」

　レグルスには、目の前の光景が到底理解できないのだろう。

　声を震わせながら、小さく首を横に振っていた。

「残念ですが、レグルスの思い通りにはなりませんよ」

　万が一、『最悪の事態』を想定したときの保険が――今ここで生きた。

「――王鍵(おうけん)・開錠」

　第七地区に突き立てておいた王鍵シグルドに接続。

　世界を走る不可視の『王律』に指を掛け――命令を下す。

「アルト・レイスの名において、当該対象の事象を――破却(はきゃく)する」

　刹那(せつな)――キィンという甲高い音が響き、世界が修正されていく。

「そん、な……馬鹿な……っ」

『命のカタチ』をいじられ、モンスターと化した冒険者たちは、みるみるうちに元の体へ――人間の体へ戻っていった。

「マシュ、マシュぅ……！　よかった。本当によかったぁ……っ」

「い、痛いよ、ティルト……」

　ティルトさんは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、緋色(ひいろ)のブローチを付けた女性冒険者に抱き着く。

　その他にも、あちらこちらで歓喜と感動の声が湧き上がった。

「あ、あり得ない……。こんなことは、絶対にあり得ない……！　神螺転生(しんらてんせい)で壊した命は、どんな回復術式をもっても治せないはず……ッ」

「えぇ、アレは間違いなく、『不可逆の破壊』でした。レグルスの言う通り、回復魔術じゃ絶対に治せません」

「ならば、いったいどうやって！？」

　食い気味に聞いてくるレグルスへ、とても簡単な答えを告げる。

「なかったこと(・・・・・・)にした(・・)んですよ(・・・・)」

「……は？」

　奴は理解できないといった風に、ポカンと大口を開けた。

「『レグルス・ロッドが神螺転生(しんらてんせい)を使って、冒険者をモンスターに改造した』――この事実をなかったことにしたんです」

　レグルスに改造されたという『過程』が消えたのだから、冒険者たちがモンスター化したという『結果』も消滅する。

　至極、当然のことだ。

「それは過去を……事象を改変したということですか！？」

「はい、その通りです」

「ふ、ふざけないでください！　事象の改変など、できるわけが――」

「――王鍵には、それができるんですよ。ただまぁ、『王律の干渉』にはたくさんの制限(しばり)があって、思ったよりも万能じゃないんですけどね」

　王律で干渉できる範囲は、現在の時間から前後三日のみ。

　また、『座標』である俺から離れた事象ほど改変が難しくなる。

　そして何より、『死』という『絶対的な収束』の破却は不可能。

　他にも数多くの制約があるのだが……最大の欠点をあげるとするならば、死ぬほど魔力を食うことだろうか。

　魔力量には、ちょっとだけ自信があるのだけれど……王律に三回も干渉すれば、その日はもうヘトヘトで動けなくなってしまう。

　俺が保有する魔具の中で、一番魔力消費の激しいのが王鍵だ。

「……っ（変幻自在の召喚術・摂理を超えた魔具、そして何より『無尽蔵の大魔力』……ッ。今、確信した。アルト・レイスは、いずれ必ず『幻想』の域に到達し、大魔王様に牙を剥く。……駄目だ。この少年は、あまりにも危険過ぎる……。なんとかして、他の復魔十使(ふくまじゅうし)に伝えなければ……アルト・レイスという未曽有(みぞう)の危機を、どうにかして伝えなければ……！）」

　手足を拘束されたレグルスは、何故か今頃になって抵抗を始めた。

　すると次の瞬間、

「――よかった。ギリギリ間に合ったようだね」

　黒いローブを纏(まと)った男が、食々蟲(しょくしょくちゅう)を一瞬で斬り裂き――レグルスの身柄を奪った。

（新手か……っ）

　俺はすぐさまバックステップを踏み、謎の乱入者から間合いを取る。

　目の前に立つのは、黒いローブを纏った背の高い男。

　フードを目深にかぶっているため、その顔を窺(うかが)い知ることはできない。

　右手に古びた剣を握っているところからして、前衛職の可能性が高いだろう。

「もしかして、復魔十使(ふくまじゅうし)のお仲間でしょうか？（こんなに接近されるまで、ほとんど気配を感じなかった。この人、相当強いぞ……ッ）」

　最大限の警戒を払いながら、ちょっとした問いを投げ掛ける。

「僕が復魔十使かどうか、ね……。難しい質問だけど、今のところはイエス、かな？」

　何やら、随分と含みのある回答だ。

「つまり、仲間を助けに来たということですね？」

「一応、そうなるね。レグルスの固有術式――神螺転生は『器(うつわ)』探しにもってこいだから、今はまだ失いたくないんだよ」

「器？」

「うん、器」

　男は同じ言葉を繰り返し、多くを語ろうとしなかった。

　どうやらこの『器』という言葉については、あまり詳しく話したくないようだ。

「さて……それじゃ、僕はこの辺りで失礼しようかな。今はまだ、あんまり目立ちたくないしね」

「このまま逃がすとお思いですか？」

　レグルス・ロッドは、とても貴重な情報源だ。

　それをみすみす持っていかれるわけにはいかない。

「うーん、それは困ったな……。今はあまり戦いたくないし、見逃してくれると嬉しいんだけど……？」

「それは難しいご相談ですね。偶像召喚――」

　俺が『獣』の手印を結ぼうとすると、

「――見逃がしてくれないかな？」

　男は別人のように冷たい声を発し――ほとんど全ての魔力を使い果たしたステラたちの方へ、スッと右手を伸ばした。

（な、なんだ……あのおぞましい魔力は……！？）

　絶望・悲哀(ひあい)・諦観(ていかん)・憤怒(ふんぬ)・怨嗟(えんさ)――右手に込められた魔力は、『負の感情』がギュッと凝縮された、恐ろしく醜悪なものだった。

（……もしも俺がこのまま手印を結び、召喚魔術を展開すれば……）

　あの男は躊躇(ちゅうちょ)なく、ステラたちへ攻撃を開始するだろう。

「…………わかった。その代わり、ステラたちには手を出すな」

「そうか、ありがとう。君が優しい子で助かったよ」

　黒いローブの男は柔らかい声色で感謝を述べ、転移術式を展開、その中へレグルスを放り込んだ。

「――おっと、忘れるところだった。それ(・・)はそっちに預けておこうかな」

　男が指さしたのは、大魔王の右腕。

　あれだけ激しい戦闘があったというのに、いまだ玉座の上に鎮座している。

　おそらくは特殊な魔術か何かで、座標が固定されているのだろう。

「大魔王の遺物……。復魔十使(ふくまじゅうし)にとって、大切なものなんじゃないんですか？」

「うん。だから、大切に保管しておいてほしいんだ。それに……もしかしたら(・・・・・・)、君かも(・・・)しれない(・・・・)しね(・・)」

「……？」

「いいや、こっちの話だよ。……多分、君とはいずれまたどこかで会うことになるだろう。そのときは、もっと深く話せるといいね。――それじゃ」

　謎の男は軽く手を振り、別の座標へ転移した。

「――アルトくん、どうする？　追うか？」

　ことの成り行きを静かに見守っていたラインハルトさんが、すぐに意見を求めてくる。

「いえ、やめておいた方がいいと思います。あの男は、相当強い……。こちらが大きく疲弊している今、下手に追ってしまうと、手痛い反撃を食らうかもしれません」

「そうか、わかった。それでは、大教練場へ戻るとしようか」

「はい」

　大魔王の遺物である『右腕』を回収した後、ティルトさんが転移魔術を発動。

　前回は不発に終わったが、今回はきちんと術式が機能してくれた。

　おそらくあの転移阻害の結界の術師はレグルスで、それを打ち倒したため、結界が消滅したのだろう。

（ふぅー……。いろいろ大変なことばかりだったけど、なんとか無事に終わって本当によかった……）

　復魔十使レグルス・ロッドとの死闘、黒いフードを纏った謎の男の急襲。

　今回飛び入り参加することになった第八次遠征は……正直、トラブルだらけだった

　だけど、モンスターにされた冒険者たちはみんな元に戻してあげられたし、戦術目標であった大魔王の遺物もちゃんと回収した。

　そして何より――誰一人として欠けることなく、全員無事に遠征を完了できた。

　結果を見れば、俺たちの『完全勝利』と言えるだろう。

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