曦瑶

「陳情令」金光瑶と藍曦臣についての彼是

金光瑶を花に喩えると

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以前、斂芳尊と呼ばれたからには、さぞ芳しい香りだったのだろうと、
金光瑶に花の香りを考えて浮かんだのが、臘梅(蝋梅)でした。
12月から2月頃にかけて蝋で出来たかのような黄色い花を咲かせる
甘いよい香りのする蝋梅。
少し俯き加減に咲く様子から花言葉は、「ゆかしさ」「優しい心」
「慈愛」「慈しみ」などです。
あれだけの罪を犯した金光瑶に蝋梅は、ふさわしくないでしょうか。
藍曦臣が金光瑶を想うとき、絢爛豪華な牡丹の花、それもあるでしょう。

けれども私は、あの観音廟事件の後でさえ、曦臣が最も強く阿瑶を感じるのは、

芳しく可憐な蝋梅のような花、なのではなかろうかと思うのです。
独り閉じた寒室に生けられた一輪の蝋梅、
目を閉じた藍曦臣には、その甘い香りが、
阿瑶がそこに佇んでいるかのように感じられるのではないでしょうか。
言葉は、必要ありません。
愛しい人は、曦臣の傍にただ寄り添っているのです。
たとえ蝋梅の花弁が散って仕舞っても。
阿瑶という花は、永遠に曦臣の中に咲き続けるのです。

「被釘上七十二顆桃木釘」という最強の封印を施され、
転生も叶わぬ定めだとしても、曦臣と阿瑶に未来は無いのだとしても、
「愛」という花の命は、永遠なのだと私は、思います。

 

花びらは散っても花は散らない。
形は滅びても人は死なぬ。
永遠は現在の深みにありて未来にかがやき、
常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる。
その永遠の光を感ずるものはただ念仏である。

         金子大栄著 『 歎異抄領解 』

 

 

 

 

曦臣は、阿瑶に何を夢見たか

このブログを「曦瑶」と名付けたからには、
藍曦臣と金光瑶(孟瑶)の関係を徹底的に考えたいと思っています。
観音廟事件の後の藍曦臣が気がかりで堪らず、
解決策がないものかと海外の二次創作も探し始めました。
それぞれ素晴らしい作品が多かったですが、
昨日の朝に出会った物に、衝撃を受けました。
阿瑶が赤ちゃんを産んでいて、寝かしつけた後、
曦臣へ授乳していました!
何故、阿瑶が生きていて曦臣と結ばれ、
更には、妊娠出産までしているのか?
その部分を見つけられません。詳細は、判りませんが、
赤ちゃんの名は、「アソン。」と書かれていました。
私は、この時点で何故、男が妊娠出産出来るのかなどという
疑問は、吹き飛びました。
古代中国において、金光瑶の「光善殺害」この
父親殺しが一番の重罪なのでしょう。
ついで義兄である赤鋒尊(聶明玦)殺害も
絶対的な上下関係を貴ぶ封建社会において、
決して許されない悪であったことでしょう。
理解できます。
けれどそれでも私は、阿瑶が行った最大の悪は、
我が子「阿松」殺しだと思っているのです。

阿瑶の、生涯の目的は、父光善に認められる事だった筈です。
母孟詩に強烈に植え付けられた呪縛とはいえ、
「父から受け継いだ血は高貴。」
「自分には父に認められる資格がある。」と信じる阿瑶には、
行く手を阻む障害を排除するという必然性がありました。
「正」か「悪」かと問われれば、「悪」に違いないのでしょうが、
阿瑶にとっては、決して逃れることの出来ない選択です。
決して擁護する訳ではないですが、それぞれの時点での
阿瑶の決断は、阿瑶にとっての行動理念に沿う、
迷いのない道だったのだろうと思います。

 

最後、観音廟で進退窮まった阿瑶は、
金凌を人質に取ってまで生き延びようとしました。
自分の「生」を憎んでいた彼が、意地汚く生きようとした。
私は、あの場面で、阿瑶の人間臭さ、脆さ弱さを
痛ましく愛しく感じました。
だからこそ尚更、父に苦しめられて生きた自分が、
自分の為に我が子「阿松」の生を抹殺するとは、
何と罪深い事だろうと感じます。
人として絶対許されない事だと思うのです。
私は、「アソン」を「阿松」を思い込んで
感情爆発させてしまいましたが、
二次創作とはいえ、阿瑶が子を産み、
そして曦臣に乳を飲ませるというその情景に
感銘を受けました。
曦臣は、阿瑶に母を求めたのではなかろうかと
以前から私は感じてきました。
性愛の表現だけでない、一心に阿瑶の乳を飲む
曦臣を想うとき、これこそが曦臣の理想なのでは、
と思いました。

 

曦臣と阿瑶、たとえ封印を解くことが出来ても、
転生の末に巡り会うことが出来ても、結ばれたとしても、
二人の間には、重くて深い愛憎の試練が待ち受けるでしょう。
それでも「死」が二人を隔てるのではない。
お互いの感情が行違っているだけです。
誤解は、熱情がきっと溶かすことが出来ます。
私は、そう信じています。

 

 

月に想う

曦臣が阿瑶に手紙を書くとしたら、の続きです。
最初に訪れるであろう、悔しさ怒り、
次に訪れるであろう、後悔と謝罪、深い悲しみ、
その後は、阿瑶との楽しかった美しい思い出だと思うのです。
阿瑶と過ごした長い年月、その中には、きっと
二人だけの掛け替えのない時間があったに違いないと考えました。
金光瑶が仙督になって間もない頃、
阿瑶は既に聶明玦を殺し、父光善を殺すという大罪を犯し、
曦臣には、決して知られてはならぬ大きな秘密を抱えていました。
犯した罪の大きさに慄き、家庭では、二度と触れられぬ、
異母妹の妻との夜を閉じ、夜毎悪夢に怯える地獄の日々が
始まっていた筈です。
そのような苦しみの日々の阿瑶にとって唯一の光が安らぎが、
曦臣と過ごす時間だったろうと私は、思うのです。
阿瑶が曦臣に見せるのは、阿瑶の為りたかった理想の姿、
阿瑶にとっては、演技ではない、
阿瑶の本物の一部分だったと思うのです。

曦臣が思う阿瑶の姿は、笑顔であって欲しいと思います。
月夜に浮かび上がる阿瑶の面影は、
儚く美しかったあの日の姿、
控えめに微笑む阿瑶であれば良いと思います。
阿瑶の犯した罪は罪として、それでも、
曦臣には、阿瑶という一人の人間と出逢った事を、
悔やんで欲しくないのです。
誤った選択をしたであろうけれど、苦しく痛ましい人生を
懸命に生きた人と受け入れてやって欲しいと望むのです。
捉われないで良いのです。
ただありのままの阿瑶を感じて、想ってやって欲しいです。

 

 

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曦臣が阿瑶に手紙を書くとしたら

絶望の淵に佇む曦臣がどうしたら救われるのかを考え続けているのですが、
リルケの詩の一節
『すべてを経験せよ 美も恐怖も 生き続けよ 絶望が最後ではない』を
思い浮かべました。
阿瑶を喪った曦臣は、かけがえのない存在を失くして仕舞ったのですが、
引き換えに今まで封じ込めてきた感情を手にしたのでしょう。

曦臣が阿瑶に手紙を書き綴るとしたらどんな文面でしょう。

一番最初は、
「阿瑶、何故、私を独り残したのだ?」かもしれません。
「阿瑶、何故、私に真実を告げてくれなかったのか?」
一番先に来るのは、悔しさだと思うのです。

次は、
「阿瑶、あなたを救ってやれなくてすまない。」
「阿瑶、あなたを信じてやれず、朔月で刺してしまってすまない。」
次に来るのは、後悔、謝罪のように思います。

これまで阿瑶と過ごした長い時の中で、自分は何を見て、何を見ずに、

何の間違いを犯したのか、己の過去と徹底的に向き合うのだと思います。

観音廟事件の直後、曦臣は、まだ己が阿瑶を愛していた事すら
気づいていなかったろうと思うのです。
ここに至ってようやく曦臣は、
自分の感情が「愛」だと気づくのでは、ないでしょうか。

手紙に書かれる言葉は、
「阿瑶、あなたを想っています。あなたに逢いたい。」に
変わっていくのだろうと思います。
手紙には、阿瑶と過ごした日々の楽しい思い出、美しい思い出が
綴られていくのではなかろうかと感じます。

もう逢えないことを嘆くのではなく、
「私と出逢ってくれてありがとう。」
そんな言葉が書き記された時、曦臣は、闇を抜けるのだろうと思います。

 

 

阿瑶と藍曦臣、二人の生と性

ドラマの登場人物の「性」について彼是考えた挙句にブログを、
書いてしまう自分は、相当いかれてると自分でも思います。
ただの萌え好きな感想です。
阿瑶は、あの作品世界の中で、「性」の問題から見れば、
被害者の立場だったと思うのです。
妓楼で妓女が子供を産み育てるというだけでも相当なハンディが
あったでしょう。
幼い頃より周りの偏見や侮蔑の対象だっただけに留まらず、
やがて母親の容色が衰え、更に病気がちになり、満足な稼ぎが
無くなったとすれば、母を養う為に

身体を差し出すことを強制されたのでは、と思うのです。
富と権力に物を言わせ、年端も行かぬ子を蹂躙する大人達。

阿瑶が社会を恨むようになった大きな一因と考えます。


阿瑶が持って生まれた美貌は、大人達を虜にするのは、
是非もない事だったでしょう。
性を無理強いされる恐怖、痛み、屈辱を「過目不忘」の
阿瑶は、決して忘れる事が出来ないのです。
日々繰り返される行為に、阿瑶は、
心を殺すしかなかったろうと思います。
半面、その身体は、否応なしに敏感に反応する身体に、
作られていったのだろうと感じます。
浅ましく快感を覚える阿瑶は、
自分の性を憎むようになったのではないでしょうか。

阿瑶が聶家で仕え始めた時、「妓女の子」と知られていた上に、
小柄で見目麗しい阿瑶は、当然のように聶の家臣達の一部に、
性の対象と狙われた筈と思います。
ドラマでの表現は、ありませんでしたが、
阿瑶が殺してしまった総領も、相当阿瑶に執着していたようでした。
(原作の方で、阿瑶が聶家追放の原因になった殺人は別です。)

ドラマ4話で阿瑶が藍曦臣に心を救われた場面、
私は、あれが阿瑶の初恋の始まりだったと思います。
阿瑶が生涯貫いた純愛。
対して阿瑶が聶明玦に抱いた感情は、何だったのでしょう。
最初は、純粋な尊敬と信頼、初めて大人の男性に、
認めて貰えた喜びを感じて、尽くしたいと思ったと思います。
そこに肉を伴う情は、無かったろうと感じます。
どうだろう。
二人に性愛があった方が良かったのだろうか。
ともあれ、阿瑶と明玦には、決して埋められない溝が生じ、
後の悲劇に繋がっていきました。

次に温氏による雲深不知処襲撃から逃亡した曦臣を阿瑶が匿い、
二人は、急激に接近していきますが、曦臣の方は、
感情を自己抑制していることすら気づいていない無垢なお人で、
阿瑶は、曦臣を聖域視しているので、
もう一歩が訪れないと思うのです。
もどかしいにも程があります。

 

温家征服後、金光善の密命により阿瑶が陰虎符の捜索並びに修復を
行う時期に阿瑶は、薛洋と密接な関係をもっていたろうと推察されます。
互いに不遇な境遇で育ち、自分の力だけでこの社会に挑もうとする者同志、
二人は、本音であいみまえる対等の友だったでしょう。
子供のように性に快楽に貪欲だったろう薛洋にとって、
当然のように阿瑶は、その対象であったろうと思うのです。
阿瑶にとっても薛洋は、見返りも演技も何も求められない、求めない、
純粋に快楽を極めることの出来る相手だったと思うのです。
そこに愛など全く介在しない、純粋に快楽だけの性交。
虚しさを互いに埋め合わせるだけのような切なさを感じます。

そうこうするうちに阿瑶を出自に関係なく慕う少女秦愫の
登場です。父光善の有力な家臣の娘です。阿瑶は、金家での
地位を固める為の政略という目的というだけでなく、この娘を
心から愛したのだろうと思っています。
この結婚を確実なものとするために、疑い深い阿瑶は、
間違いを犯します。
妓楼で男娼としての経験はあったかも知れませんが、
初めて阿瑶は、男性として秦愫を、身も心も愛してしまった。
結婚前夜に彼女の母親から、実は、異母兄妹だと知らされるのです。
阿瑶は、自分の地位を守る為、今更結婚を取りやめられない。
ましてたった一度で秦愫は、身ごもって仕舞っている。
このことが阿瑶の心を最終的に壊したのだと思っています。

 

自分の「生」も「性」も人も自分自身をも全て憎み、恨んだ。
あれだけ性に奔放だったろう阿瑶は、これ以降「性」を
封印したのではないかと私は、思っています。
世の全ての男を憎んだたったひとつの例外が「白月光」藍曦臣だった。
「性」を除外したあくまでも清らかな慕情・・・では、あり得ませんね。

無理に性の部分を抑え込んで、
曦臣を慕っていたのだろうと感じるのです。

曦臣から見た阿瑶は、というと、これまでも感じてきたように、
曦臣は、阿瑶に対する気持ちが友情以上だという事に
全く気付いていなかったろうと思います。
雲深不知処で曦臣が魏嬰に、自分達の両親の話をした時、
「忘機には執着がある。」と語りましたが、
曦臣は、自分の事でもあると全く気付いていないのです。
自分の感情を理解出来ていない。
おもむろに裂冰を吹き始める。己の内に湧き上がって来る
その感情が何であるか理解できずに、ただ抑えようとする姿、
曦臣の苦悶が切なく愛しく感じられました。

結局、阿瑶と藍曦臣二人にとっての性の発現は、
あの観音廟での、それも最終場面、曦臣が阿瑶の胸に、
朔月を突き刺してからのわずかな時だったのかなあと感じています。
壮絶なエロスの爆発だったでしょう。
極限状態での肉体と精神の交合、凄まじいものだったでしょう。
最高のエクスタシーを得られたのは、
阿瑶のみであったろうことが残念です。

 

兄様、どうか封印を解いて、生身の阿瑶を取り戻して
再挑戦なさって下さい♪

 

 

阿瑶と藍曦臣、二人の空洞

私が金光瑶に完全に嵌ったのは、
あのテーマ曲「多恨生」からなのだけれど、
あの中で歌われる「空洞」、金光瑶の生涯は、
結局阿瑶が抱えたブラックホールに呑み込まれたのだと感じています。
彼の霧に覆われたような世界で唯一の光が、
「白月光」と言うべき存在、藍曦臣であったのだと知りました。
動画を翻訳しながら見まくってあの最後の場面を見た時、
確かに阿瑶の生涯は、痛ましく哀れな一生だったけれど、
最期には、死の救済を得られたのだと感じました。
対して、残された曦臣のあの憔悴しきった姿に胸が痛んだのです。
そこから私の「曦瑶」の道が始まりました。
その時はまだ、阿瑶の現世での地獄にばかり心を奪われていて、
阿瑶の味わった痛み、苦しみ、それらが引き起こした阿瑶の罪、
というものに目が向いていました。
ところが、阿瑶と藍曦臣、それぞれの心情に考えが及んだ時、
そこには、想像も出来なかった程の深淵が口を開けて待っていました。
藍曦臣が抱えていた空洞は、阿瑶が抱えたものに
勝るとも劣らぬほどの空洞だったのでは、なかろうか。
阿瑶は、現世で自分の持つ空洞に気づいていたと思います。
己を突き動かすどうしようもないほどの渇きを自覚していたでしょう。

けれど曦臣は、己が空洞を持つことすら
気づいていなかったのではないでしょうか。
幼い頃から、自分が感情を抑制して生きている事に気づかず、
求められる藍家の跡取りの立場、長じてからは若き宗主、
その理想像を疑う事もなく受け入れ、ただ穏やかに清廉に過ごす。
己に何が欠けているのか、深奧で何を渇望しているのか、
曦臣は、思いもしなかったと思うのです。
穏やかで周囲とも良く調和できる誰もが称賛する若き宗主は、
誰よりも孤独だったことでしょう。

ドラマ第4章雲深不知処での阿瑶と藍曦臣との出会いの場面、
出自を揶揄され狼狽える阿瑶を曦臣がとっさに庇ったのは、
曦臣自身の出自に対する痛みが阿瑶の痛みに共鳴したのかと感じます。
孤独なもの同士が惹かれ合ったのかとも思います。

ドラマ上でも確かに互いに友情以上のものを抱いているようなのに、
決してそれ以上には、踏み込まなかったであろう関係、
大変もどかしく思いますが、当人たちにとっては、
それが最上だと思っていたのでしょう。
どちらかが早く本音でぶつかっていれば、
私は、温氏制圧後に不夜天で温家残党の処分を話し合った際、
阿瑶が曦臣に「私は、悪でしょうか?」と尋ねた場面、
私は、あれも一つの岐路だったと思うのです。
阿瑶は、あの時、「曦臣は、正義を行う自分のみを認めるのだ。
決して悪を行う自分を受け入れはすまい。」と理解したのでしょう。
ifをどれだけ重ねても虚しいでしょうが、
阿瑶と曦臣は、互いが互いの空洞を埋め合える
運命の相手だったと思います。
阿瑶は、曦臣を突き放すことで、空洞を埋め、
魂は救済されたに違いないと感じますが、やはり残された藍曦臣を
思うと遣り切れない思いが募るのです。

原作のほうでは、最後の場面、阿瑶から藍曦臣へ
「一緒に死んでください。」との言葉は、ありません。
阿瑶の流した血が聶明玦の棺の封印を破壊し、棺を破って
飛び出した明玦の大きな手が阿瑶の首を絞めます。
続いてもう一方の手が曦臣の喉を突く。
明玦の手が曦臣の首を窒息させようとするその時、
阿瑶は曦臣の胸を叩いて押し出したのです。
「私は生涯あなただけは害そうとは思わなかった。」
その言葉を証明したのです。

ドラマのような阿瑶の微笑みは描かれてはいません。
けれど、阿瑶が生涯最も恐れた聶明玦に立ち向かう
勇気をもたらしたのは、藍曦臣だったのでしょう。
私は、阿瑶を救ったのは、藍曦臣なのだという事を
曦臣に気づいて欲しい。
絶望の先に見える景色を感じて欲しい。
ただ祈ります。

 

 

「典獄司」


【老九門】典獄司 by 音頻怪物 Warden

金光瑶を演じた朱賛錦が撮影していた『老九門之青山海棠』が楽しみでなりません。
朱賛錦が演じるのは、二月紅という京劇の人気女形かつ老九門のうち

「二爺」と呼ばれる宗主だということです。
朱賛錦のインタビューで、現代舞踊、ダンスの他に

中国古典舞踊、中国民族舞踊を学んだと発言していたので、

この二月紅役を早く拝見したいです。
予習をしようと動画を探してまず目にしたのが、この主題歌「典獄司」。
これは、中毒に為りそうな曲です。
繰り返し聴いているうちにトリップしそう。
更に動画を探っていくうちに、
最愛の妻を亡くした二月紅が失意の底で、
自分自身の心の奥の魔と対面する場面が出てきました。
魔が二月紅に詰め寄ります。
「何故彼女は死んだのにお前はまだ生きている?」
これはもう、曦瑶を想わないわけにいきません。
ここから妄想が混じりますが、
「何故、阿瑶は死んだのにお前はまだ生きている。」
「自分こそが阿瑶の最大の理解者だと言っていなかったか。」
「一生傍で支えてやりたいと思っていたのではないのか。」
魔は、更に続けます。
「お前は、自分自身を一番嫌っているのではないか。」と。
観音廟事件の後、藍曦臣は、自分自身を煉獄に堕としているのだと思います。
囚人は、藍曦臣、そしてその典獄司も藍曦臣自身だと感じます。
私は、藍曦臣という人は、己の罪も弱さも受け止める

強さを持った人だと信じます。
自分を縛り付ける枷も鎖も自力で外す時がきっと来る。

新作『老九門之青山海棠』のストーリーは、
「老九門」とどれだけリンクしているのでしょう。

 

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この舞台の映像があることは間違いありません。

朱賛錦がどうのような美と苦悩を演じるのか、

本当に待ち遠しいです。