曦瑶

「陳情令」金光瑶と藍曦臣についての彼是

聶明玦の死に関する「陳情令」と「魔道祖師」との違い

ドラマ「陳情令」では、聶明玦に金鱗台を蹴り落とされた直後、
血塗れの金光瑤が階段を登っていくその時に聶明玦に異変が現れた

という描写になっていました。
藍曦臣が光瑤に「清心音」を教え、光瑤は明玦に聴かせるそれに

「乱魄抄」を巧妙に混ぜて
明玦を倒す機会を伺っていたのだという設定でした。
駆けつけた聶懐桑を庇う振りをしつつ実は懐桑を盾に明玦を更に追い詰め
遂に明玦は発狂に至るのですが、次の場面、鏡の裏の密室で厳重に拘束された明玦は、
陰虎符を手にした薛洋と光瑤によって傀儡化を図られていた事が判ります。
結局、明玦の傀儡化は成功せず、薛洋によって首を切り落とされる最期でした。

けれど原作「魔道祖師」では、この部分がだいぶ違っています。
まず、明玦に刀霊の害が強く現れるように為ったとき曦臣は、
光瑤に「清心音」を教える事を明玦に提案します。


明玦は、「清心音」は藍氏の直伝の秘術であると難色を示しますが、
光瑤を強く信頼する曦臣に説得され最終的に承諾します。
阿瑤を警戒していた明玦ですが、自分の精神ひいては生死に関わるこの重大局面で、
光瑤が自分に危害を企てるとは、思わなかったのです。
実際しばらくの間、非常に上手く進んでいました。
機械翻訳ですが、
『金光瑤は、蘭陵から清河に急行し、清心音を奏で
心を揺さぶり、最善を尽くした。 清心音は、本当に効果的であり、
明らかに明玦の胸の怒りが抑制されていると感じることができます。
・・・・・・
おそらく、曦臣は、明玦と光瑤に関係を和らげる機会を与えたかったのだろう

(魏嬰の観測)』
ですが、明玦が金家に薛洋が匿われている事を知って光瑤を詰った時に事態は、

急変します。
ドラマでも登場した光瑤が激昂して明玦に反論する場面です。
ここで弁舌の巧みさで光瑤に圧倒された明玦は、

言っては為らぬ言葉を発してしまいます。
「所詮、妓女の子」
そして大階段を蹴り落とす。
この二つは、光瑤にとっての大トラウマです。
繰り返し光瑤を苛み続けてきた「妓女の子」という言葉。
そして青楼で母の客に階段を突き落とされた恐怖と痛み、
奇しくも同じ誕生日の子軒の祝いの日に金鱗台を訪れ、
大階段を蹴り落とされた屈辱と絶望の記憶。
この不幸な重なりが光瑤を「明玦を排除するしかない」と
決意させたのだと私は、思っています。
光瑤が蹴り落とされゆっくり立ち上がり明玦に向きあって

明玦が覇下を光瑤に向けた時、
朔月でそれを阻んだのは曦臣でした。
その場が収まり、また光瑤が清心音を明玦に聴かせるようになって
最終段階が訪れたのは、二ヶ月後の事です。
明玦が暴走するのは、清河で武術大会が予定されていた日でした。
懐桑と明玦ふたりの最後の日々の描写を見ると、
光瑤が二人に与えた仕打ちの残酷さに胸が痛くなります。
懐桑の復讐の念の強さも頷ける気もしますが、

聶時代の孟瑤と懐桑の仲睦まじさを思うと
彼ら三人の気持ちの掛け違いが引き起こした災厄の悲惨さが痛ましいです。

 

 

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「笑窪(えくぼ)の伝説」

中国に「忘川河傳說」〔忘川河(ぼうせんが)の伝説〕というものがある事を知った。

 


伝説によると、人は死後、悪魔の門の後に黄泉の道に行くと言われている。
⋯⋯道には葉っぱを見ずに咲く彼岸花がある。
花も葉も一緒に見ることはなく、いつまでも寂しい思いをしている。
忘川と呼ばれていて、川には奈何橋が架かっている。 孟婆という女性がいる。
そこで待っていると、通行人全員に孟婆湯を配っている。
孟婆湯を飲む人は、現世と来世の執着をすべて忘れる。

六道輪廻の道に進み、今世での行いの良し悪しにより或いは神仙に、
或いは人に、また或いは畜生に転生することになる。

忘却の水とも呼ばれる「孟婆湯」は別名を「忘情水」は、
一度飲むと過去も現在もすべて忘れてしまうほどの美味しさだ。
この孟婆湯で、愛も憎しみも、浮き沈みも、利益も損失も、すべて忘れてしまう。

ドライで清潔感がある。

一生の間に経験した愛も恨みも情も仇も、
前世での利益も得失もこのお碗の孟婆湯を飲んで全て忘れ去る。

今世で思いを寄せていた人も、逆に恨みに思っていた人も全て
来世で出会ったとしても過去の関係を知る由もない。

しかし、中には様々な理由で
彼らは孟婆湯を飲みたがらない人もいる。
彼らには印がつけられ、その印は顔の笑窪、首の後ろのほくろか、胸の痣のようなものだ。
そのような人は、忘却の川に飛び込み、水と火で拷問を受けなければならない。
転生するには何千年もかかる。
過去世の恋人を見つけるために「印」を取る。


台灣の楚茜茜(そ せんせん)小姐のブログより

相傳人死後,過了鬼門關便上了黃泉路,
⋯⋯路上盛開着只見花,不見葉的彼岸花
花葉生生兩不見,相念相惜永相失,路盡頭有一條河
叫忘川河,河上有一座奈何橋。有個叫孟婆的女人
守候在那裡,給每個經過的路人遞上一碗孟婆湯,
凡是喝過孟婆湯的人就會忘卻今生今世所有的牽絆,
了無牽掛地進入六道,或為仙,或為人,或為畜。

孟婆湯又稱忘情水,一喝便忘前世今生。
一生愛恨情仇,一世浮沉得失,都隨這碗孟婆湯遺忘得
乾乾淨淨。今生牽掛之人,今生痛恨之人,
來生都相見不識。
可是有那麼一部分人因為種種原因,

不願意喝下孟婆湯,孟婆沒辦法只好答應他們。
但在這些人身上做了記號,這個記號就是要麼在臉上留下了酒窩,
要麼在脖子後面點顆痣.要麼在胸前點顆痣。
這樣的人,必須跳入忘川河,受水淹火炙的磨折
等上千年才能輪迴,轉世之後會帶著前世的記憶、
帶著那個"記號"尋找前世的戀人。

 

金光瑤(孟瑤)を演じた朱賛錦さんの頬には、鮮やかな笑窪がある。
そして首の後ろにも小さなほくろがある。
もしかして???


顔の「笑窪」或いは首の後ろや胸先に「黒子」「痣」のある人は、

もしかしたら前世の大切な誰かを、

千年の試練に耐えて前世の絆を守り通して探しに来た人かもしれません。

彼(彼女)の前世で叶わなかった心からの願いを叶えられるよう、

決して傷つけないであげて欲しい。

千年の苦難に耐えて愛する人を待っている人なのだから。

 

青い林檎

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青リンゴ

刘海宽さんが昨日UPした動画は、実に印象深かった。
青リンゴを頬に滑らせ、一口囓り、おもむろに取り出したナイフと

フォークで切り割る。
でも食べたのは、赤いリンゴ。何を意味しているのか?
青いリンゴで思い浮かぶのは、「青い」から「未成熟」「青春」。
建築家安藤忠雄さんが「青春のシンボル」としてデザインしたオブジェ「青いりんご」

安藤さんは『目指すは甘く実った赤リンゴではない。
未熟で酸っぱくとも明日への希望へ満ち溢れた青りんごの精神』

との言葉を寄せている。

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刘海宽さんは、青リンゴの精神を目指しながらも

甘く熟した赤いリンゴを味わおうというのだろうか。
良いと思います。
全てを手に入れて下さい♪


 青春の詩      サミュエル・ウルマン (岡田義夫訳)

 

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、

安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年

月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる

事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く

求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。

  人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。

  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして

偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。

これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、

皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ

人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。

 

唄を忘れたカナリヤ〈金糸雀〉

青蘅君にとって藍曦臣と藍忘機の母親となった女性は、

運命の人だったろうが、一方的な恋だった。
挙げ句彼女は彼の師を殺して罪人となり青蘅君は、

命を救う為に結婚して閉じ込め、彼本人も閉関した。
藍夫人が子供達に会えるのは月一度だけ。
彼女の死について病気だったという描写もなく

唐突に子供達との面会が無くなった風だった。
自殺だったのではとすら疑ってしまう。
金光瑤の悪行が明らかになって藍曦臣が魏嬰と雲深不知処で語り合ったあの夜、

曦臣は、両親の事情を「知りたくない」と答えた。
曦臣の幼心に両親の姿は、どのように映っていたのだろう。
わずか二歳差ながら、母親の部屋の前でひたすら待ち続ける弟を

ただじっと見守る兄は、どのような心境だったのだろう。
自分の悲しみを表に出すことも出来ずに。

この藍夫人のことを考えると私は、どうしても阿瑤を思わずにいられない。
もし、観音廟事件で阿瑤が生き延びることが出来ていたら、
そして曦臣が阿瑤を雲深不知処へ連れ帰ることが出来ていたら、
曦臣は、阿瑤を一生隠すのだろうか。
処刑を免れる為に阿瑤と結婚し、藍夫人とするのだろうか。
命を長らえ、愛する人と共に暮らす。穏やかだけれど隔絶された世界で。
それを幸せと呼べるのだろうか。

私は、もしそれが可能だとして、曦臣にとっては、

金光瑤の命を奪わなかったという点においては、願いが叶うだろうが、

己の信義に背いた、藍の掟に背いた大きな罪に苦しめられ続けるだろう。
そして阿瑤も、生涯を賭けて社会的に認められることを追い求めた人間にとって、
仙督となって思う存分、政治的手腕を駆使した人間にとって、
社会から隔絶された、ただ曦臣一人のために生きる、

それは、決して出ることの出来ぬ鳥籠のような虚しい牢獄と映るのでは、なかろうか。
きっと阿瑤は、曦臣の前で微笑みを浮かべるだろう。
けれどそれは、曦臣に悪を知られる前の心からの笑みではない。
曦臣も判っているだろう。

阿瑤と曦臣には、幸せになって欲しいのだけれど、雲深不知処へ匿うにしても、
東瀛への逃亡にしても難しいだろう。
やはり、金光瑤は、観音廟で死ぬしかないのだろう。

阿瑤と曦臣の幸せは、現世では、無理のようだ。
来世に期待するしか無い。

 

唄を忘れたカナリヤ〈金糸雀

凄い歌詞です。
唄わなくなったカナリヤは、もう価値がないものとしてうち捨てられる。
ぶたれて山に捨てられ埋められ小舟に流され。
悪事を一杯したけれど貧困な弱者も救った阿瑤の功績は、

全て無かったものになるのだろう。
藍曦臣に認められて聂明玦と同じ棺に入れられる阿瑤は、

まだ救われるのではないかとさえ思えます。

 

金糸雀(かなりや)」
西條八十作詞・成田為三作曲

 

 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
 いえいえ それはかわいそう
 歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
 いえいえ それはなりませぬ
 歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
 いえいえ それはかわいそう
 歌を忘れたカナリア象牙の舟に銀のかい
 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す   

 

 

忘れ得ずして

自信が無くてどうしても手を挙げることが出来ずに、
「自分だけの妄想にすべき」とチマチマ書いておりました。
「忘れ得ずして」というタイトルです。
思い留まって良かった。やっぱり私、激しくズレています。
そのうちにpixivに載せる積りでおりますが、
このタイトルの由来について書いておきます。
これは、古の大人気ラジオドラマ「君の名は」の
冒頭ナレーションで流された、
『忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ。』
から来ています。
叶わぬ恋の相手への慕情を断ち切れずに、
苦しみ抜いた主人公が、こんなにも苦しいのなら、
いっそ全てを忘れ去りたい、忘れられたらどれ程楽になれるだろうかと、
忘れようと思い定める程に一層募る恋心、
といった情念を表しているのだろうと思います。

 

観音廟事件の後、阿瑶を喪った藍曦臣は、
想像を絶する程の喪失の痛みに囚われた日々の中で、
「いっそ阿瑶の全てを忘れてしまいたい」と
「忘却」を望んだ事は、あったのだろうかと考えました。

私は、曦臣と言う人が自分の苦痛から逃れる為に、
自分の生涯から阿瑶を抹消するなどとは、
考えもつかなかったと思うのです。
手の届かぬ、遥か遠くへ逝ってしまった人を、
掛け替えのない鮮やかに浮かび上がる過去の瞬間を、
繰り返し繰り返し反芻しているのでは、と考えるのです。

 

 

金光瑶の願い(曦臣の崩壊から再生へ)

藍曦臣がそれまで信じて来た、守ろうとして来た世界は、観音廟で、
崩壊したのだろう。
藍家の厳しい戒律を当然の事として固く守り、己を律し、
それと気づかぬうちに感情を封じ込め、
清く正しく生きて来た筈の曦臣は、金光瑶の悪事が暴かれ、
己の剣で光瑶を死に至らしめた時、
一度は共に死ぬ事を求めた阿瑶が、そして一旦は自分もその死に殉じようと、
藍家宗主の立場も己の生も何もかも捨てようと決意したにも関わらず、
土壇場で、自分を突き放したそのことで、
曦臣の世界は、壊れたのだと思う。

最後の最期に為ってようやく、藍家直系の男の呪のような
「一度心に決めれば生涯ただ一人を愛し抜く」その相手が、
金光瑶だと知った曦臣が、その運命の片割れを、
自分の手で成敗する形となって、永遠に喪うという絶望は、
彼の心を砕くに充分過ぎただろう。
曦臣の喪失の深さ、苦痛の大きさは、計り知れない。

私は、最期の時に、曦臣の愛を感じ取って納得して、
赤鋒尊と封じられることを受け入れ逝った阿瑶を、
自分だけが安堵を得て残された曦臣に対しては、残酷だ、
とも思ったこともあった。

けれど今は、阿瑶の曦臣への想いは、もっと純粋だったのではないかと思う。
死を覚悟した時、阿瑶の脳裏には、初めてまみえた日の
曦臣の姿が過ったのではないだろうか。
出自を貶され居たたまれない思いに苦しんでいた自分を救ってくれた尊い姿、
あの頃の、揺るぎない、穢れない人で在り続けて欲しい。
罪に堕ちた私に毒されないでいて欲しい。
あなたはあなたの為に生きて欲しい。

For yourself For yourself
そらさないでおくれ その瞳を
人は自分を 生きてゆくのだから
……
For myself For myself
幸せの形に こだわらずに
人は自分を 生きてゆくのだから

For myself For myself…


曦臣は、寒室での蟄居生活に入って仕舞ったけれど、
それは、自分を見つめ直す為に必要な時間だった筈だ。
彼の世界は、崩壊したけれど、彼は、生を放棄するほど、
脆い人間ではない。
そして彼は、生き永らえる事が自分への罰だとは、考えなかったのでは
ないだろうかと思う。
死者(阿瑶)の声を願いを考え続け、残された者、
生きて行かねば為らぬ者の、務めを悟るのではなかろうか。
曦臣は、彼の世界の崩壊から立ち上がり、
ゆっくりとけれど着実に再生へと向かって行くのだろうと思う。
その時きっと彼の脳裏には、
在りし日の阿瑶の柔らかに微笑む姿が映っているに違いない。

 

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「あの頃のまま」

アーティスト ブレッド&バター
作詞 呉田軽穂
作曲 呉田軽穂

6時のターミナルでふりむいたきみは
板に付いた紺色のスーツ
今でも気まぐれに街をゆくぼくは
変わらないよ ああ あのころのままさ

去りゆく若い時間をひとり止めしているようで
うらやましいやつだよとはじめて笑ってくれた

For yourself For yourself
そらさないでおくれ その瞳を
人は自分を 生きてゆくのだから

ネクタイ少しゆるめ 寂しげなきみが
馴染みの店に腰すえる夜は
陽焼けした両足を投げだしてぼくも
"Simon and Garfunkle"
ああ ひさしぶりにきく

人生のひとふしまだ 卒業したくないぼくと
たあいない夢なんかとっくに切り捨てたきみ

For myself For myself
幸せの形に こだわらずに
人は自分を 生きてゆくのだから

For myself For myself…

 

 

金光瑶の父性と母性

各国の方々が創作されたXIYAOの大海を探索し続けているのだけれど、
想像以上に金光瑶が子を産んでいる事に驚く。
金光瑶が転生して女性に為ることもあるし、女性が献舎して
金光瑶の魂が呼び出されることもある。
女性となった金光瑶は、藍曦臣と出逢い、幾多の困難を経て、
最終的に二人の間に子を設けるという物語が多いように感じる。
金光瑶が男性のままである場合、謎の秘薬という存在が多々ある。
そしてオメガバース。藍曦臣と藍忘機がアルファ、金光瑶(孟瑶)と
魏嬰(莫玄羽の身体)がオメガという設定が多い。
何故、人は、阿瑶に子を産ませたがるのだろう。

 

「陳情令」の主要登場人物で阿瑶と同世代で、結婚して子を設けたのは、
金子軒と江厭離のペアだ。それ以外では、金光瑶だけが妻帯し、
子を成している。男性として。それが何故。

初めて私が阿瑶に子が生まれる創作を読んだ時、衝撃を受けた。
それまで自分には、阿瑶が子を産むという発想が全く無かったからだ。
けれど、今なら判る気がする。

 

私は、「陳情令」の世界で阿瑶が起こした一番の悪は、
父金光善を殺した事でも聶明玦を殺した事でもなく、
我が子、阿松を殺したことだと思っている。
秦愫を守る為とはいえ、結局は自分自身を守るために、
我が子の命を奪った、その事が、最終的に、
阿瑶の心を完全に壊したのだろうと考えている。
阿瑶がどれ程望もうと決して得られなかった父光善からの愛、
聶明玦に取り立てられて覚えた深い尊敬と信頼と慕情が、ある意味
父性を求めるものであったろう事。しかしそれも叶わぬ夢だった事。
苦労して手に入れた筈の妻と子、ようやく持ちえた家族は決して
自分が手にしてはいけないものだった。
自分の父性を発揮すべき存在が罪の子と知った衝撃。
己の父性を自らの手で切り捨てなければ為らぬ地獄の苦しみ。
これらを考えれば、阿瑶には、我が子を慈しむ未来があって欲しいと
願うことは、阿瑶を愛する者にとっては不思議ではないと思う。


そして、これまでも考えて来ていることだけれど、
藍曦臣も母性を求めている人だと思う。
幼き頃より、絶えず藍家後継者として忘機の兄として、
母への慕情を執着を素直に表せなかった曦臣が心の奥に
秘め続けた孤独、淋しさを阿瑶だけが癒すのだろうと思う。
曦臣と阿瑶が結ばれ、その愛の結晶が世に誕生する時、
阿瑶は、我が子と共に曦臣をもその豊かな母性で包み込み、
慈しみ育むのだろうと思う。

そして勿論、阿瑶は、母性だけでなく、
一度目の生では叶えられなかった父性としての愛を
我が子へ注ぐことが出来るのだろう。