「地主」が生まれるまで
「地主」といえばお金持ちというイメージを持つ人が多いかもしれないが、地主のあり方は時代とともに移り変わってきており、時には没落することもあった。そこで、現代の「地主」はどのように生まれたのか、歴史を紐解いてみよう。
そもそも狩猟を生業としていた縄文時代には、土地を私有するという発想がなかったと考えられる。縄文時代末期に稲作がはじまると、土地を所有して管理する支配層が生まれた。
それ以降、土地をめぐっては時代ごとにさまざまな決まりが作られた。奈良時代には「班田収授法」によって土地は国有のものとなり、農民たちは土地を借りる形で耕作することになったからだ。しかし人口増加により、土地が足りなくなったため、聖武天皇は743年に「墾田永年私財法」を発布。新しく開墾した土地は、自分のものとできるようになった。そこで、貴族が農民を雇って土地を開墾し、私有財産としたのが「荘園」だ。
安土桃山時代には、豊臣秀吉が太閤検地を実施。土地の石高(土地の生産力)を調査し、耕作者の所有物とする。耕作者は検地帳に登録され、年貢を負担せねばならなくなった。その後、江戸幕府は1643年に田畑永代売買禁止令を発布。豪農による土地の占有を防ぐとともに、農民から移動の自由を奪った。また、1673年には分地制限令を発布し、農民が相続人に田畑を分割して与えるのを禁止した。愚か者を「たわけ者」と呼ぶのは、田畑の分割により耕地が小さくなって、生活が苦しくなることから、「田分け者」を語源とするともされる。
地主誕生のきっかけは地租改正
土地の私的所有権が確立されたのは、明治時代の地租改正で、田畑永代売買が解禁されたことによる。明治政府は1872年に、土地の所在や面積、持ち主を明記した地券を交付し、所有地のデータを明確にした。これにより、土地の所有者がはっきりと決まり、現在の「地主」が生まれることとなった。そして1873年には地租改正を実施。土地の地価を定め、毎年地主に地価の3%を、米ではなく現金で納付させた。しかし、地価の3%は高額であり、豊作・凶作に関わらず払わねばならなかったため、貧しい農民は富裕者に土地を売り、小作人となるほかなかった。これがいわゆる「寄生地主」の誕生の背景だ。「寄生地主制」とは、農地の所有者である地主が小作人に土地を貸し、農作物の一部を小作料として徴収するもの。自らは農作に関わらず、小作料に依存する様子を、批判的な意味も込めて「寄生」と呼んだようだ。
小作料は小作人たちにとっては高額で、大きな負担になる一方、地主たちは小作料を受け取りながら、小作米を販売し、ますます裕福になっていく。さらに蓄財で金融業を営み、金銭の貸し出しを行う地主もいた。貸し出しの対象は小作人たちであることが多く、地主と小作人の貧富の差は大きくなる一方だった。さらに時代が下ると、地主達は国立・私立の銀行や銀行類似会社に株式投資を行うようにもなり、産業資本の下支えともなっていく。
こうして力を持った地主たちは商工業に投資するなどして資本家になり、政府に対する力を発揮するようになった。
GHQの農地改革で、地主制度は事実上の廃止に
太平洋戦争の後、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーは、地主たちから所有地を買い上げ、小作人に安価に売り渡す「農地改革」を1946年から行った。特に、農地のある村に住んでいない地主からは、すべての農地を没収。地主が住んでいる村の農地も、定められた面積以上は没収された。土地代は10年換金できない国債で支払われたが、インフレでその価値がほとんどなくなり、それまで栄華を誇った地主の多くが没落した。そして土地は小作人に安価で払い下げられたため、自作農が増え、事実上地主制は廃止となったのだ。
これは、力を持った地主が軍部の経済的基盤の一部を担い、軍国化の一因となったと考えられたため、また、地主制が共産主義の思想に通じるものがあったから、共産主義の拡散を防ぐ目的があったとも言われている。
しかし、農地改革によって農地を払い下げられた小作人の一部は、農作をやめて所有地を売ったので、農地が減る原因にもなっている。富裕者はその土地を広く買い占め、農作だけでなく、宅地などの目的で使用するようになった。さらに、終戦直後から始まった戦後のインフレにより地価が高騰すると、「土地持ちはお金持ち」の意識が定着する。購入の際はそれほど高価ではなかった土地でも、開発が進めば地価が上昇したから、広い土地の所有者は、かつての農村における地主のような富裕者となったのだ。
地主と小作人の関係
地主と小作人の関係は、規模や地域によって特徴があったようだ。
大地主は東北と近畿で少々様相が違ったとされる。「東北型」の地主は、農民や没落地主に対する貸し付けで土地を抵当にとり、広い所有地を有していた。小作料が完納できなければ「貸し付け」として処理し、地主は小作人を直接的かつ、強力に支配していた。それに対して「近畿型」の地主は、比較的所有地が少なく、小作料が高いのが特徴。地主に雇われた「世話人」が小作料の取り立てや、土地の管理を担っていたほか、小作人への世話もしていたようだが、地主が小作人を支配していたのは同じだ。
一方、小作料だけでは生活が成り立たない「零細地主」は自らも農作を行っており、農村におけるリーダー的役割を果たしていた事例も多い。
「地主」と一言で言っても、時代や地域により様相はさまざまだが、土地が大きな権力を生み出すのはいつの時代も同じであるようだ。
■参考資料
財団法人東京大学出版会『近代日本地主制史研究ー資本主義と地主制ー』中村政則著 1979年5月20日発行
2019年 02月14日 11時05分