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【試練】お隣さんへ回覧板を届けることになった

作者:唯乃なない


 茶の間で寝転がって雑誌を読んでいると、妻が神妙な顔で話しかけてきた。


「あなた、明日お隣の森田さんのところに回覧板を持って行ってくれるかしら」


 私は激しいショックで雑誌を取り落とした。


「なん……だと……!?」


 目眩がして、一瞬気が遠くなった。


 体中の筋肉の自由が効かなくなり、自分のすべてが暗黒に飲み込まれていくような、そんな気さえした。


「ごめんなさい。やっぱり私が」


「い、いや、君を危険な目に合わせる訳にはいかない。私が行こう」


 私はすっくと立ち上がった。

 私の目には迷いはなく、まっすぐと妻を見ているはずだ。


「申し訳ないけど……お願いするわ」


 妻はつらそうに言った。


「先に挨拶に行ってくる」




◇森田さん宅


 玄関を開けると森田さんの奥さんが料理中と思われる鍋を持って立っていた。


「あら小林さん、何のようでしょう」


「明日、回覧板を持って伺います」


 すると奥さんは持っていた鍋を取り落とし、けたたましい音が鳴り響いた。

 奥さんの足元で鍋からこぼれたカレーと思われるものが広がっていくが、奥さんはそれを気にする余裕も無くお玉を持ったまま泣き崩れてしまった。


「なんと、あぁ、なんと恐ろしいことを……」


「心配なさらないで下さい。なにも悲しいことが起きると決まったわけじゃありません」


「そんな! 回覧板を持ってはるばる我が家まで旅するなんて……どんな恐ろしいことが起こるかわかりませんもの! 明日が来るのが恐ろしくてたまりません」


「いえ、どうぞあまりご心配なさらずに。ただ行き違いになってはいけませんから、家にいていただきたいのです」


「もちろんです。主人ともどもお待ちしております」


 奥さんに別れを告げ、私は装備を整えるために町に繰り出した。




◇スポーツ用品店


 スポーツ用品店に入ると、さっそく店員が話しかけてきた。


「今日は何をお探しですか」


「明日隣の家に回覧板を持っていくので、そのための準備です」


「なんですって!?」


 店員は大声を上げた。


「なんと、そのような試練を乗り越えようと言うのですか!? まさかわが町にこのような勇者がいようとは思いもしませんでした」


 店員は感動のあまり神に祈りを捧げた。


「おお、神よ、この勇者に祝福あれ。さぁ、勇者様、是非ともここで装備を整えていって下さい」


「もちろんです」


 私は頷いた。


「まずは防具です。この最新型のウェアをどうぞ。薄くて軽いですが、驚くほど保温してくれます。風雨による継続ダメージを大幅に軽減しますよ」


「素晴らしい。でもちょっと高くないですか?」


 店員はゆっくりと首を振った。


「命には代えられません」


「なるほど、そうですね」


「そうですとも」


 私は最新型のウェアを買うことにした。


「次は機動性です。この最新型の登山靴をどうぞ。滑りやすい足場でも非常に滑りにくいですよ。また、釘くらいの物を踏んづけても大丈夫です」


「素晴らしい。でもこれも高いですね」


 店員はゆっくりと首を振った。


「命には変えられません」


「なるほど、そうですね」


「そうですとも」


 私は最新型の登山靴を買うことにした。


「次は機動性と攻撃をサポートするピッケルです。こちらが軽くておすすめです」


「機動性だけでなく攻撃もサポートしてくれるのですか」


「はい」


「すばらしい。でもまたまた高いですね」


 店員はゆっくりと首を振った。


「命には変えられません」


「なるほど、そうですね」


「そうですとも」


 私はそのピッケルを買うことにした。


「ではこれで」


「お待ち下さい、勇者様」


「はい、なんでしょう」


「消耗品のたぐいをお忘れではありませんか」


「おぉ、なんとしたこと。つい、うっかりしていました」


「こちらが疲労回復のドリンク剤。各種ございますので、是非ともセットでどうぞ」


「買いましょう」


「こちらが眠気を打破するためのドリンク剤です。こちらもセットでどうぞ」


「買いましょう」


「こちらが空腹時に活躍するカロリーメイトです。各味がそろっています。これも是非ともセットでどうぞ」


「買いましょう」


「こちらが飲料水」


「買いましょう」


「こちらが懐中電灯用の乾電池」


「買いましょう」


「こちらが虫刺されの塗り薬」


「買いましょう」


「そしてこちらが登山や行楽で活躍するバラエティセットです」


「買いましょう」


「ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました。でも、持ちきれませんね」


「ではこのキャリーバッグもどうぞ」


「それも買いましょう」




◇自宅 ~夜~


 昼間必要な物は全て買い揃えたので、物資の準備は万端だ。

 あとは綿密に計画を立てるだけだ。

 今日測ったところによると、我が家の玄関から森田さんの玄関までの距離は約30メートル。

 普通に考えれば丸一日あれば十分到達できるだろう。


 そう思った所で私は我に返った。


「……は!? くっ、これが悪魔のささやき! こういう甘い考えが命取りなのだ!」


 いろいろ考えた結果、中間地点でキャンプを張ることにした。

 荷物にテントも追加する。

 入念なシミュレーションを繰り返しているうちに夜は更けていった。




◇自宅 ~出立の日~


「行ってきます」


 そう言って振り返ると、妻は泣きはらしていた。


「神様仏様にお祈りして待っておりますわ」


「ああ、頼むとも」


 小さな娘も一心に自分のことを見つめている。


「パパ、無事に帰ってきてね」


「もちろんだ。いい子にして待っているんだよ」


「うん」


 いよいよ運命の瞬間。

 玄関を開け、一歩踏み出す。

 妻と娘に手を振りながら、玄関の扉をゆっくりと閉める。


「いよいよだ」


 さらに一歩踏み出す。

 大丈夫、何の問題もない。

 吹雪もなければ、里へ降りてきたクマが襲いかかってくることもない。

 一歩一歩と着実に歩を進めていく。

 振り返ると、すでに玄関から3メートルの距離を歩いていた。


「ペースが早過ぎるな。バテてしまったら大変だ。旅は長い」


 自分に言い聞かせると、一歩一歩ゆっくりと踏みしめながら歩いて行く。


「ん?」


 ふと、道の上をアリが這って行くのが目に入った。

 思わず目で追いかけると、そのまま我家の庭の花壇の方へ進んでいくようだった。


「ほぉ、こんなとこにアリが……ぐ!?」


 我に返って、頭を振った。


「これは……これは私を道に迷わせようと言う悪魔の仕業に違いない!」


 幻惑を予防するために昨日買った眠気防止ドリンクを摂取する。


「これで悪魔も私に手を出せまい」


 アリのことを忘れ、また一歩一歩と歩を進めていく。

 よし、5メートル。


「ん?」


 ふと、目の前を黒いものが遮った。

 近所の黒猫だ。

 人懐っこい猫で我が家にも時々顔を出す。


「なんだクロかぁ……ぐ!?」


 我に返って自分の頬を叩いた。

 いくら顔見知りの猫とはいえ、今日ばかりは油断ならない。


「魔女の使いめ! これでもくらえ!!」


 大声を上げ、かばんから出したミネラルウォーターを振りまく。

 猫は鳴き声もあげずにあっという間に建物の間に消えてしまった。


「あ、危なかった」


 一息ついた時に、大事なことを思い出した。


「おぉ、大変だ。何時ごろ着くか森田さんに伝えてなかった」


 一度回覧板や飲料水が入った荷物を道路脇に置き、足早に歩いて森田さんの庭を覗き込む。

 すると、旦那さんが草刈りをしているところだった。


「こ、これは……」


 旦那さんが私の姿を見てうろたえたので、慌てて首を振った。


「いえ、回覧板はまだです。そうではなく、何時頃着くかお伝えしていなかったなと思いまして」


「お、おぉ、そうでしたな。いつごろでしょうか」


「もしかしたら今日中に届けられるかもしれませんが、おそらく明日の昼頃になるかと思います」


「おお、なるほど。しかし無理はなさらぬように。明後日まで休みを取っていますから、体に気をつけて安全第一でおこしください」


「わかっていますとも。ではこれで」


 また足早に荷物のある地点に戻る。


「よし、旅を再開するぞ」


 荷物を背負い一歩踏み出す。

 すると先程まで無風だったというのに、突然風がそよぐのを感じた。


「風……ただのそよ風か」


 思わず思い過ごしそうになったが、慌てて考えなおした。


「いや!? ここから荒れ狂う嵐になるかもしれない! 空だ、空を見ていこう!」


 空は晴天だ。

 しかし、いつ天気が急変するかわからない。

 空の様子を確認しつつ、足元に不審なものがないかも確認して歩いて行く。


「よし、まだ晴れている……足元も問題ない」


 順調に歩を進めていく。


「順調だ……順調すぎるくらいに順調だ。……なにぃ!?」


 気が付くと前日に決めた15メートルを超えていた。


「くそ! 想定以上に進みすぎだ! だ、大丈夫か!?」


 あたりを見回すが、さしあたり猛獣や盗賊のたぐいはいなそうだ。


「よし、ここは安全なようだな。先に進む前にここでキャンプをはろう」


 しかし空を見上げるとまだ日が高い。

 だが無理をしてはいけない。

 もしかしたら悪魔の幻惑でまだ明るく見えているだけかもしれないのだ。

 さきほどのドリンク剤で本当に強力な悪魔の幻惑を防ぐことなどできるかは未知数なのだ。

 念のため時計を見る。


「9時13分……出発してから13分か。13分?」


 めまいがした。

 まさかそれだけしか時間が経っていないなんて。

 これこそ悪魔の幻惑かもしれないと思ったが、何度見ても13分しか経っていない。


「よ、よし、行けるところまで行こう。暗くなったらすぐキャンプを張ればいい」


 荷物からピッケルを取り出し、固く握りしめながら一歩一歩と慎重に歩いて行く。


「おぉ、ついに……」


 ついに森田さんの庭が見えてきた。

 森田さんの旦那さんが草むしりをしている。


「回覧板、持ってきました」


「お、おぉぉ……勇者が、勇者が参られた……」


 旦那さんは感動のあまり崩れ落ちた。


「もう少しで着きますから」


「勇者様、油断は大敵です。あそこに大きな石が転がっています。転んだら大変なことに」


「ご心配なさらず。分かっております」


「それでは私は先に移動しております」


 旦那さんは足早に玄関の中に駆け込んでいった。


「よし、あと約4メートル」


 足元や周囲を注意深く見ながら、一歩一歩とゆっくり歩いて行く。


「あと、3メートル……」


 旦那さんの言っていた大きな石を避けながら進み続ける。


「あと、2メートル……」


 空から岩が降ってこないことを確認しながら進み続ける。


「あと、1メートル……」


 周囲に刺客が潜んでいないことを確認しながら進み続ける。


「ついに……」


 伸ばした右手が玄関のドアノブを掴んだ。

 そのまま力を込めて扉をゆっくりと開く。


 すると、奥さんと旦那さんが玄関で立って待っていた。


「ええ、よく艱難辛苦を乗り越えてこられましたね」


 奥さんは目に涙を浮かべてる。


「我が街にこのような勇者が居るなんて。あなたは私達の誇りです」


 旦那さんも目に涙を浮かべている。


「えぇ、長い道のりでしたよ」


 いつの間にか私も泣いていた。


「今夜はお祝いですな」


「えぇ、うれしいものです」


 こうして私たちは夜遅くまで旅の無事を祝って踊り続けたのであった。





とってもナンセンス。

作中の誰も突っ込まないので、突っ込むのは読者のお仕事!


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