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サッカー、音楽…「世界の共通言語」に違和感 流されないための術を身につけよ

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サッカー、音楽…「世界の共通言語」に違和感 流されないための術を身につけよ

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 ミラノの中学に通う息子が、「クラス対抗のサッカートーナメント戦でぼくたちのクラスが勝ち残った」と言う。

「良かったね。優勝か」と何気なく言葉を返すと、まだ1ゲーム残っているという。場所は、学校よりは「マシ」な小規模ながらスタンドもあるサッカー場だ。

 戦う相手を聞いて驚いた。先生のチームなのだ。体育だけでなく、色々な教科の先生が集まった合同チームとの対戦である。生徒の戦う最後が大人というのは意外だった。

 学校の先生たちが生徒たちに身体ごとぶつかり、子供たちは何かを学んでいくのだろう。

 そういえば、と一つ思い出した。サッカーのチャリティ試合には、かつての有名選手が一斉に集まるオールスターだけでなく、政治家やミュージシャンなどがプレーする試合が恒例行事としてある。

 やっとのことでボールに追いつく不格好な姿をテレビで見ながら、彼らが子供の頃に得意になってボールに馴染んでいた姿が思い浮かぶ。サッカーが世代やその他のカテゴリーを超えて共通言語になっていると思わせる一瞬である。

 しかしながら、ぼくはずっと「サッカーは世界の共通言語」とのキャッチフレーズには疑いをもってきた。というのは、W杯で世界中の人たちが興奮するという表現には嘘があり、サッカーというスポーツのルールを知っている人に限って興奮できる、というのが正しい。

 これはスポーツに限らない。

 ある英国人の音楽の先生がぼくに語った。

 「私が音楽教育に情熱を捧げるのは、ひとりひとりが自分の考えで自信をもって音楽を判断する力をもって欲しいからなの。音楽は人をエンドレスに向上させるツールと捉えているわ」

 彼女は、オンラインを使った音楽教育のプログラムを構築中で、その目的が上述のセリフにある。

 彼女は「音楽は世界の共通語という人がいるけど、音楽を分かっていないわね」と指摘する。しかるべき教育を受けないと、その音楽が良いかどうかは分からないのである。その証拠に邦楽の良さを理解する欧州人は少ない。

 音楽が大量生産され大量消費されている。しかも曲の最初の2-3分が勝負で、聴いた人々の気分が変わっていく。そういう状況に対して、かの音楽の先生は「流されない」ために訓練をしておくのは大切な教養であると考えているわけである。

 人が同じスポーツの試合で心がつながり、同じ曲で感情を通わせるというのは、すべからく学びや習得というプロセスを経た結果である。

 冒頭で紹介した息子の大人とのサッカーの試合からぼくが考えたのは、共通語とは共通語としてあるのではなく、共通語たらん、あるいは共通語にみえるように、と努めたために共通語になっているという事実だ。

 スポーツを共通語というポジションにおくと、先生と生徒、大人と子供、こういう敷居を超えてコミュニケーションを図るに有効だと先生たちは教えたいに違いない。「これを共通語というんだよ」と。

 言葉の話ならわりと簡単に分かる。どこの国でもある地方で話される言葉を「共通(標準)語化」しようとする。しかし、スポーツや音楽ははじめから共通語であったと思いこみがちである。しかも、言葉の壁を超える共通語として上から降りてくる。そんなイメージをもつことが多い。

 が、繰り返すが、これら音楽やスポーツも、共通語として認められる工夫をとってきたから、現在の認識が世の中にいきわたっている。

 言うまでもないが、全てが共通語になる必要はないし、共通語にならないほうが良いケースも多い。それでも共通語とはどういう条件をクリアするのか、共通語らしくみえるとはどういうことか、共通語にするために何をすべきか、ということは多くの事例で考えておくと良い。

 それによって、「これを共通語にすると危ない」との嗅覚も磨かれる。つまり共通語化を拒否するトレーニングである。

 流されないためには、流されないための術を身につけないといけない。

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