斡旋業者が慰安所に連れて行った女性とは

 募集業者の立場では、売春婦であれば誘拐や人身売買に伴う危険がない。売春婦の立場からしたら、慰安婦になるからといって社会的評価がさらに損なわれることもないし、むしろ兵士を慰安するという自負心を持てることも多かった。日本軍の上層部や兵士たちが慰安婦自身について追及する立場にもなかったし、実際に追及することもなかった。以上を考えると、斡旋業者が接近する最初の対象は、朝鮮内外の売春婦であったと考えられる。

 韓国で最も左翼的であり反日的である「ハンギョレ新聞」を設立し、社長を歴任した宋建鎬(ソン・ゴンホ)氏は、慰安婦問題が政治化される前の1984年に出した自著「日帝支配下の韓国現代史」で次のように述べている。氏は1927年生まれであり、植民地時代を経験している。

「日本当局は1937年末の南京攻略後、徐州作戦が開始される頃に、朝鮮内の御用女衒(ぜげん)たちに指示して、貧乏で売春生活をしていた朝鮮女性たちを多数中国大陸へ連れて行き、「慰安所」「簡易慰安所」「陸軍娯楽所」などの名称を持った日本軍の施設に配置し、日本軍兵士の慰みものにした」

 こんな例もある。朴致根氏(仮名)の愛人の弟(義弟)は、ビルマの首都ラングーンで日本軍の慰安所を経営していた。朴氏は客案内や会計などを担当する帳場で働いていて、その生活を「慰安所管理人の日記」(イスプ出版)として残している。

 この朴致根氏の愛人は、韓国の大邱(テグ)で旅館を営んでいた。当時、旅館業は売春業を兼ねることが多かった。よって、朴氏と義弟が慰安婦を募集するにあたり、農村へ行って女性を誘惑したり非情な親を探して娘を買ったりするよりは、夫人とつきあいのある売春婦にまず交渉するのではなかろうか。

 前回の拙稿で述べたように、元慰安婦たちは最初、「付いていった」とか「人身売買された」などと慰安婦になった経緯を語っていた。もともと売春業に従事していたという証言はない。売春に携わっていた人がそれを明かしたら、韓国では「社会的死(social death)」を招くことになる。日本において自分が軍慰安婦だったことを実名で明らかにする人がいないのも、似たような理由だ。

 やはり軍慰安婦は、自分自身あるいは自分の代わりに両親が、業者と経済的契約を結んだと見るべきだ。ラムザイヤー教授の論文は、そのような点で論議の出発点として申し分ない。

 韓国の学界が慰安婦問題をめぐり、反日民族主義を展開したり論者を人身攻撃したりする旧態を脱し、学問的な討論を始められる絶好のチャンスである。韓国の慰安婦研究者たちには、以上の点について答えてほしいものだ。(翻訳:金光英実)