売春婦の前借金は女工の日給の何倍だったか?

 ラムザイヤー教授によると、1920年代半ば、日本の遊廓にいた売春婦の前借金は1000~1200円という高額だった。女工の日給が1円50銭以下の時代である。そのうえ女工と違い、売春婦は住み込みだ。

 経済発展の水準が低く、エンゲル係数が高い状況における食事と住居の提供は、売春婦と他の職種間の賃金格差をさらに拡大させる。このような点を考慮すると、売春婦の前借金は女工の日給の千倍を上回ったことになる。

 戦時下でも前借金の額に大きな変化はなかったという。その代わり契約期間(年季)が短くなった。遊廓で働く売春婦の場合、日本では6年、朝鮮では3年が普通だったが、慰安所は2年だった。またビルマの日本軍慰安所のように6カ月から1年間の契約を結ぶケースもあった。

 軍慰安婦は売春婦と同様、契約期間が終了すれば前借金を全額返済したかどうかに関係なく、慰安所から出ることができる。したがって、契約期間が短縮されたことで慰安婦の帰郷は容易になったのだ。

 一般の人々は慰安婦というと、終戦になってようやく帰還できたと考えるが、これは「強制連行説」と「性奴隷説」の影響である。慰安所の開設は少なくとも1937年には本格化し、1945年までの8年間存続したため、終戦前に帰ってきた軍慰安婦は多かったはずだ。慰安所で終戦を迎えた人の方がむしろ少ないだろう。

 売上高を事業主と分割する割合も軍慰安婦側に有利になり、7:3から6:4になった。4:6という割合を採用したケースもある。その結果、数カ月で前借金を返済して帰ってきた軍慰安婦も多かった。これは元東京大学教授の秦郁彦も述べている(「慰安婦と戦場の性」)。日本軍慰安婦が相手をする軍人の数は売春婦が取った一般客よりもはるかに多く、所得が大幅に増加したことをここに追加したい。

 1925年当時、東京の遊廓で売春婦が相手をした客の数は1日平均2.5人にすぎなかった。一方、戦場では常に慰安婦が不足していた。日本軍は性病予防のための徹底した衛生管理などを慰安所に義務付け、一般人の出入りを禁止し、兵士たちには慰安所以外の店の利用を禁止した。

 ちなみに、終戦後に帰国した慰安婦が取り分を軍から回収できなかったという主張があるが、終戦前に帰還した慰安婦がはるかに多かったことを考えると、むしろ例外的なケースだろう。

 ラムザイヤー教授は「軍慰安婦は売春婦に比べて高リスク、高収入だった」という結論を出した。私もこれに同意する。これに対し韓国のメディアは、メッセンジャー(発話者)であるラムザイヤー教授への人身攻撃に専念してきた。

 米国にいる一部の韓日歴史研究者の見解を伝え、論文に対する批判を表明した。その第一は、ラムザイヤー教授が「朝鮮人募集業者の責任の方が日本の国家の責任よりも大きいと主張した」というのだ。論文の該当部分は次の通りである。