大山 倍達 大正12年7月27日東京市に生まれる
満州へ渡り、姉の家へあずけられる。
ソウルの小学校ね入学。この頃より十八手の中国拳法を学び中学2年の時に初段を取得。
山梨少年航空学校入学。
日本に始めて空手を紹介した船越義珍先生の門をたたく。
拓殖大学に入学し、在学中に空手2段を取得。太平洋戦争。
終戦により復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創立し空手の研究に従事。
早稲田大学体育科入学
吉川英治著の「宮本武蔵」に感銘を受け、吉川英治と知遇を得る。
身延山に入山し空手の修行に精進する。
京都円山公会堂で開催された、戦後初めての全日本空手道選手権大会に出場し優勝。
生涯を空手道に捧げる事を決意し、千葉県清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。
千葉の館山で牛と対決。その後、47頭の牛を倒し、内4頭は即死。
米軍の要請に応え、進駐軍の兵士たちに空手を指導。座間・府中・立川・所沢・横田・横浜基地などで指導。
実戦空手の為に、阿佐ヶ谷の曽根道場にて柔道の修行を開始。
日本の武道を紹介するため、柔道家の遠藤幸吉と共に渡米
全米32カ所で空手のデモンストレーションと空手指導に従事。この間、真剣勝負7回に及び、不敗。
アメリカ再訪。シカゴで牛と格闘。手刀で牛の角を折り猛牛を一撃で倒し、空手の威力を示す。
ニューヨークで多くの弟子を集め空手を教える。
東京・目白の焼け跡の野天道場で大山道場の看板正式に掲げる。
アメリカを振り出しに南米ヨーロッパを回り、プロレスの他、各界の格闘技と対決。
ウイスキーの瓶切りのデモンストレーションが人気を呼び、ゴットハンドと唱われる。
9月、シカゴにて再度猛牛と対決。
沖縄を振り出しに東南アジア各国に遠征し、拳法を研究し大山空手に磨きをかける。
大山道場、立教大学裏のバレエスタジオ跡を借りて、稽古を始める。総数300人を越える。
後にこの道場が極真会として発足することになる。
名前の由来は、「千日を以て初心とし、万日を以て極めとす」の古言からきたものである。
"What is Karate?"を出版。日本で最初の英文による空手書が海外での大ベストセラーになる。
ニューヨークへ渡る。
ワシントンF.B.I に招かれ2ヶ月間、空手指導とデモンストレーションを行う。
ウェストポイント陸軍士官学校へ招かれ空手指導及びデモンストレーションを行う。
第一回ハワイ空手道選手権大会を開催。大山倍達が審判を務め、デモンストレーションを行う。
アメリカからヨーロッパへ遠征。
大山道場が手狭になったため、豊島区西池袋に国際空手道連盟極真会館総本部の工事に着手。
アメリカ、コネチカット州のハートフォード市でオープントーナメント北米空手道選手権大会を開催。
タイ式ボクシングが日本空手界に挑戦状を出したが、この挑戦が邪道として受けなかった為、大山道場が受け
て立つ。大沢昇・黒崎・中村忠の3名がバンコックへ渡り、3戦中2勝し日本空手の威信を高めた。
国際空手道連盟極真会館の会長に当時の首相佐藤栄作氏、副会長に毛利松平氏が就任。
当時、国の首相が空手団体の会長になることは異例であった。
極真会館総本部竣工。国際空手道連盟極真会館正式発足。
アメリカ・アトランタのジョージア州立大学へ招かれ1ヶ月近く空手の指導とデモンストレーションを行う。
空手の普及と支部設立を図るため再渡米。
高弟の大山茂他、指導員をアメリカに派遣。第一回全米支部長会議、ロサンゼルスにて開催、北米地区連盟
を設立。中村忠が責任者となる。
007シリーズのジェームス・ボンド役の俳優ション・コネリーが来館。
大山茂、100人組手達成。
ハワイ・アメリカ・イギリス・オランダ・ヨルダンなど歴訪の旅に出る。
中近東地区連盟設立。ヨルダン王室に招かれ、フセイン国王はじめ、モハメッド皇太子など皇室に空手の指導
を行う。
第一回オープントーナメント全日本空手道選手権大会を東京体育館で開催。7000人を越す観客を集める。
タイのキックボクサー、柔道家ほか他流派を含め48名が参加して行われたが、上位は極真勢が独占。
少年雑誌「少年マガジン」に梶原一騎原作、大山倍達の生涯を描いた「空手バカ一代」の連載を開始。後に
映画化、アニメ化される。
第一回全世界空手道選手権大会を東京体育館で開催。世界36各国から128名の選手が出場し、超満員の
観客を魅了する熱戦を繰り広げる。
ドキュメンタリー映画「世界最強のカラテ」封切り。
東京・麻布のソビエト大使館で大演武会を開く。
ヨルダン国王より勲章を授与される。
第二回全世界オープントーナメント空手道選手権大会が62カ国チームの選手が参加して開かれる。
オーストラリア選手権大会を開催。
第一回南米地区空手道選手権大会を開催。
全オーストラリア空手道選手権大会開催。
ブラジル政府より文化交流章を授与される。
第三回全世界オープントーナメント空手道選手権大会開催。世界76カ国から、207名の選手が出場し、32000
人が集まる日本武道館にて3カ間の熱戦が行われた。
第五回全世界オープントーナメント空手道選手権大会開催。105カ国、250名の選手が参加。自ら「最後の演武」
と言い、円転掌の型を披露する。
聖路加病院で逝去。享年71歳 |