現在位置:asahi.com>ニュース特集>5000万件の不明年金> 記事 消えた年金の遠因? 社保庁労組、手帳統一など次々反対2007年06月27日08時01分 5000万件の年金記録が宙に浮いてしまったのは誰のせいなのか。元検事を含む検証委員会で解明作業が進み、職員のボーナス返上が打ち出されるなか、社会保険庁の労働組合の存在が焦点の一つとなっている。組合の「十年史」をめくると「オンライン化反対闘争」の見出しが躍るが、組合側は「今の物差しで当時を見ないで欲しい」と主張する。 手帳の統一、相談コーナーの設置、記録のオンライン化……。社保庁の労組は、こうした取り組みにことごとく反対してきた。 職員の多くは、社会保険事務所がかつては都道府県の指揮下だったため、地方公務員でつくる自治労の下部組織「国費評議会」(現全国社会保険職員労働組合)に参加した。83年に刊行された「国費評十年史」には「合理化絶対反対」と訴える活動が細かく記録されている。 たとえば、バラバラだった「厚生年金」「国民年金」「船員保険」の3制度の年金手帳を一つにする社保庁の提案に、組合は「合理化攻撃の手始め」(太字は十年史から)と位置づけて抵抗した。74年の手帳統一後も「制度ごとに別々に手帳を交付することとした県もありました」などとアピールし、統一が進まなかったことについて「各県のたたかいにより形骸(けいがい)化」できたと評価した。 75年には、「年金相談コーナー」の設置に反対。「即時に機械(コンピューター)によって答えられる処理体制」を「合理化攻撃」と受け止めた。77年に公表されたオンライン化計画にも「中央集権化の支配機構を強め、独占資本のための合理化」と反発した。 組合は79年にオンライン化を受け入れる一方、社保庁との間で「覚書」を結び、「どんな合理化も見逃さない点検活動」「全組合員を掌握し、団結していける組織体制の確立」を徹底してきた。 ■国民総背番号制度への批判考慮 〈全国社会保険職員労働組合の芳賀直行書記長の話〉 年金手帳の統一後も一人に何冊も手帳が発行された。当時の社保庁幹部も認識していたが、支給の時に統合すればよいと考えて放置してきた。反省すべきだが、労組が統一に反対したから「宙に浮いた記録」が出たという批判はあたらない。当時は国民総背番号制度に対する批判が強かった。79年にオンライン化を受け入れて交わした覚書は、コンピューター操作による健康被害や総背番号制につながらないことなどを確認したものだ。今のものさしで「十年史」を読むべきではない。 PR情報 |