物語のあらすじ
序幕 黒船前夜
江戸時代の日本は「兵農分離」のもと、厳しい身分制社会でした。また「鎖国」と呼ばれるように、外国との貿易は制限されていました。米作農業が中心で、「石高制」のもと農民が納める年貢米が幕府や藩の財政の基本でした。
しかし一方で、日本は200年以上の長い間戦乱のない安定した社会を実現して、中国に距離を置いた独自な国際関係を構築し、長崎を窓口に、西洋の知識や技術を学びました。武士は幕府や藩の政治・行政を担い、産業が発展、全国の交通・流通が発達して、農民や商工業者も実力を蓄積しました。日本社会は江戸時代に大いに成長したといえるでしょう。
18世紀以降、西洋諸国はエネルギー源に石炭を利用し、機械の発明・改良を重ねて産業革命を達成して、勢力の拡大を図りました。その勢いは極東の日本にも及び、日本も西洋諸国を中心とする国際社会の荒波に巻き込まれていきます。
第1幕 黒船の衝撃
嘉永6(1853)年6月3日、ペリー(1794-1858)率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の艦船4隻が浦賀沖に出現し、日本に開国を迫りました。ペリーの来航は事前に予知されていましたが、幕府は事前に為す所なく、艦船はあまりに巨大で(「黒船」と呼ばれます)、軍事力を見せつけられた日本社会は大きな衝撃を受けました。
あわてた幕府は大名に対応策を求めましたが、それに対して福岡藩主黒田長溥(1811-1887)は積極的に「開国」を主張しました。翌嘉永7年にペリーは再び来航して、日米和親条約が結ばれましたが、その際に小倉藩は信濃國松代藩(真田家)とともに、日米交渉の地である横浜の警衛を担当しました。
同じ嘉永6年7月18日にプチャーチン(1803-1883)率いるロシア艦船4隻が長崎に来航しました。その年の長崎警備当番の福岡藩が警衛を担当しました。
嘉永7年にペリーが再び来航した際、長州藩士の吉田松陰(1830-1859)は密航を図ってアメリカ軍艦に接近しましたが、拒絶され失敗に終わりました。
第2幕 攘夷の時代
日本は西洋諸国の圧力に屈する形で開国しましたが、朝廷の許可を得ず不平等条約を結んだことから、幕府への不満が尊王攘夷運動として表面化しました。条約を結んだ大老の井伊直弼(1815-1860)が暗殺されると(桜田門外の変)、尊皇攘夷運動は条約の即時撤廃を主張して激化しました。それに対し、将来の条約撤廃のため挙国一致を目指す公武合体運動も本格化します。
勢い押された幕府は文久3(1863)年5月10日までに攘夷を行うと宣言、同日長州藩は関門海峡で外国船を砲撃しました。対岸の小倉藩が幕府の命令を待って静観したため、長州藩と小倉藩の対立が強まり、長州藩と京都の一部の公家によって小倉藩処分案が浮上しました。しかし8月18日の政変で長州藩と7人の公家が京都を追放され政局は一転します。
翌元治元(1864)年7月、長州藩は勢力回復を目指し京都に入りましたが、京都を守る薩摩・会津などの諸藩軍と交戦して敗れ(禁門の変)、長州征討令が出されました。さらにはイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊が関門海峡の封鎖を続ける長州藩を攻撃し、降伏させました(下関戦争)。
第3幕 長州戦争へ
第1次長州戦争では広島に総督府(前尾張藩主徳川慶勝)、小倉に副総督府(越前藩主松平茂昭)が置かれました。福岡藩主黒田長溥・長知父子は内戦を回避するため、藩を挙げて長州周旋活動を推進しました。長州藩が禁門の変の際に上京した3家老の切腹、藩内に保護されていた「五卿」の領外移転を受け入れると長州征討は中止されました。福岡藩は「五卿」の移転を中心に周旋活動に尽力し、征討の中止に貢献しました。
しかし長州藩では高杉晋作率いる奇兵隊が藩論を掌握し、幕府に対抗姿勢を強めたため、幕府は再び長州征討令を出します。長州周旋の成果が否定された福岡藩では藩内の対立が激化し、「勤王派」の人びとが弾圧されて(乙丑の獄)、明治維新の舞台から後退しました。
第2次長州戦争で征討軍は四方から長州藩領を攻撃しました。そのため長州藩では「四境戦争」と呼ばれます。小倉口総督には唐津藩世子で老中の小笠原長行が任ぜられ、小倉藩が先鋒を務めました。しかし攻め入る前に逆に長州藩が関門海峡を渡って小倉領内を奇襲します。この戦いには坂本龍馬(1835-1867)も参戦しました。
第4幕 小倉城自焼―小倉藩の一番長い日
降伏した長州藩を再び征討することは大義名分がないとして、薩摩藩などは参戦を拒否しました。そのため征討軍は足並みが揃わず、苦戦を強いられました。
小倉口では慶応2(1866)年6月17日田野浦の戦い、7月3日大里の戦いで、奇兵隊・報国隊など長州藩軍が攻め入りましたが、小倉藩のほかは参戦しませんでした。そのため小倉藩は孤軍奮闘を強いられ敗退しました。その後、7月27日赤坂の戦いでは熊本藩軍が加わることになったため、長州藩軍は退却しました。
しかし7月20日に将軍徳川家茂(1846-1866)が死去。訃報を聞いた小笠原長行総督は7月末に小倉戦線を離脱。熊本藩など諸藩軍も引き揚げました。追い詰められた小倉藩は8月1日小倉城を自焼し田川郡香春へ撤退します。その後も現在の小倉南区を戦場に小倉藩と長州藩の戦闘は続き、慶応3年正月ようやく停戦が成立しました。
小倉城自焼によって小倉城下町は西曲輪の大半を焼失し、混乱の中で藩士だけでなく町人も避難しました。城下町および企救郡一帯は長州藩が占領しました。小倉藩の人びとにとって、明治維新はこのように過酷な体験を伴う出来事だったのです。
第5幕 明治の開幕
薩摩藩・長州藩は盟約を結び倒幕へと進みます。「最後の将軍」徳川慶喜(1837-1913)は慶応3(1867)年10月14日大政奉還を行い権力の維持を図りますが、倒幕派は12月9日「王政復古の大号令」を発令、明治新政府が成立します。
徳川慶喜は新政府に従い、慶応4(1868)年4月11日に江戸城は無血開城され、新政府に引き渡されました。反発した旧幕臣や東北諸藩が抵抗、戊辰戦争に発展します。
小倉藩・福岡藩は明治新政府軍に参加し、関東から東北へ出征しました。小倉藩は香春から仲津郡(現在は京都郡)豊津に藩庁を移し、明治4(1871)年7月の廃藩置県を迎えます。福岡藩は「乙丑の獄」で処分された人びとが復権しますが時すでに遅く、明治3(1870)年には贋札贋金事件の摘発を受け、翌4年他藩に先行して廃藩となりました。
明治になって日本が近代化を進め、その達成が意識されると、明治維新は「栄光の明治」の出発点として絶えず振り返られ、語られていきます。明治維新の「主役」の長州藩だけではなく、小倉藩や福岡藩でも明治維新の活躍の物語が創出され、共通の記憶となっていきます。