ゲノム編集は「生命の設計図」とも言われる全遺伝情報(ゲノム)を自在に変えられる技術。ゲノム編集技術の一種「クリスパー・キャス9(ナイン)」は、エマニュエル・シャルパンティエ博士とジェニファー・ダウドナ博士によって2012年に発表された。13年には、米ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が共同運営する「ブロード研究所」のフェン・チャン博士が、哺乳類でこの技術を応用。狙った場所を高効率に改変する技術として、ノーベル賞の有力候補として注目されていた。(山谷逸平、安川結野)
「酵素のはさみ」で切断 クリスパー・キャス9 石野教授「源の配列発見」
クリスパー・キャス9の最大の特徴は、狙ったゲノムの場所を簡単に改変できる点にある。クリスパー・キャス9では、細胞の中の核に含まれるデオキシリボ核酸(DNA)を切断する機能を持つ人工酵素「キャス9」でDNAを切断し、切断した部分の遺伝子の働きを失わせたり切断部に別の遺伝情報を挿入することで遺伝子を改変する。
効率的な改変は、キャス9を改変したいDNAの配列まで案内するリボ核酸(RNA)である「ガイドRNA」と組み合わせたことで可能となった。
ガイドRNAは改変したいDNAと相補的な配列を持っており、ターゲットとなるDNAとだけ結合する。キャス9がガイドRNAと複合体を形成し、ターゲットDNAの配列を高精度で改変できるという仕組みだ。クリスパー・キャス9は生命科学の研究に欠かせないツールとなっている。
クリスパー・キャス9技術の確立には、日本人研究者も無関係ではない。もとになった配列「クリスパー」を発見したのは、九州大学の石野良純教授だ。
くすぶる特許問題
シャルパンティエ博士とダウドナ博士によるクリスパー・キャス9の論文は12年、米科学誌サイエンスに掲載された。
同年、ダウドナ博士らの研究グループは、この技術の基本的手法について特許を出願している。
一方、チャン博士も同年、ダウドナ博士の研究チームからやや遅れて、哺乳類の動物細胞でクリスパー・キャス9を応用する技術について特許を出願。米特許商標庁は14年、チャン博士の特許を認めたが、これをダウドナ博士らの研究チームが不服として訴え、両者間で特許権をめぐる争いが起きた。18年9月、控訴裁判所は米国特許裁判と上訴委員会の判決を維持すると決定を下し、チャン博士の特許権が認められたが、争いにはまだ決着が付いていない。
ゲノム編集技術の関連特許をめぐっては日本でも訴訟が起こるなどくすぶっている。
安全性確保に課題 標的とは異なる突然変異 標的近くで欠損・再編成
生命の設計図が改変可能なゲノム編集は、導入した遺伝情報の変化が子孫に受け継がれることや、親が生まれてくる子の容姿や運動能力などを事前に遺伝子操作して決めてしまう、いわゆる「デザイナー・ベビー」の誕生の懸念といった倫理的な問題も呼び起こしている。18年には中国の研究グループがゲノム編集を施した受精卵から双子の女児を誕生させ、世界中で物議を醸した。研究チームはエイズウイルス(HIV)の感染に重要な遺伝子「CCR5遺伝子」をクリスパー・キャス9で破壊したとみられているが、これに対し日本ゲノム編集学会は「中国を含めた国際的な指針に違反した行為に、強い懸念を表明する」と抗議している。
技術そのものの安全性も検証中だ。クリスパー・キャス9は、高い精度で目標のDNAを改変する技術ではあるが、標的とは異なる配列に突然変異が導入される「オフターゲット」が起きる可能性がある。17年には英科学誌のネイチャーに、改変する遺伝子の標的領域の近くで、DNAの大規模な欠損や再編成が起きるという安全性に関する新たな知見が発表された。
だが、こうした課題があるとはいえ、技術自体が危険で利用できなくなるわけではない。ネイチャーに発表された研究について、国立医薬品食品衛生研究所の内田恵理子室長は、「クリスパー・キャス9は技術自体の歴史がまだ浅い。技術の改良や、ゲノム編集した細胞の安全性を高める研究などが進んでいる」と説明する。
クリスパー・キャス9は基礎的な研究で安全性や有効性が確認されている最中であり、幅広い研究領域で活用が期待される技術であることは間違いない。16年4月に発足した日本ゲノム編集学会の山本卓会長(広島大学大学院統合生命科学研究科教授)も、「クリスパー・キャス9の登場でゲノム編集は日常的に使える技術になりつつある。言い換えれば、ゲノム編集を使わないと生命科学の研究では戦えない」と指摘している。
実際、現在までに国内外から次々と研究成果が報告されており、クリスパー・キャス9を使ったゲノム編集は研究者にとって必要不可欠な技術として定着した。
さらに遺伝子治療への応用にも期待が大きく、16年頃からは米国と中国を中心に、ゲノム編集で遺伝子を書き換えた免疫細胞を体内に戻してがんを治療する臨床研究などが始まっている。基礎研究から医療応用に至るまで短期間で爆発的に広まったクリスパー・キャス9は、今後も生命科学研究を支える技術として、発展を続ける。
コロナ応用−少量検体から数十分でウイルス検出
クリスパー・キャス9の技術は、世界的に広がった新型コロナウイルス感染症に対しても活用が期待されている。例えば、より効率的な検査の実現だ。
ガイド役の配列であるクリスパーを新型コロナウイルスの遺伝情報であるRNAの特定の領域をターゲットとするよう組み換え、新型コロナの検査に応用することが検討されている。クリスパーを活用する手法ではごく少量の検体からも数十分でウイルスを検出でき、検査効率が向上するといい、実用化に向け開発が進む。現在広く使用されるPCR検査は、判定までに数時間程度かかるという課題があり、クリスパー・キャス9の技術を応用することで大幅な時間短縮が期待される。
また、治療薬の開発にも応用が期待される。ウイルスなどの病原体に感染すると、免疫細胞の「B細胞」から抗体が産生される。クリスパー・キャス9で新型コロナウイルスの抗体を作るよう改変したB細胞を投与することで、患者は抗体を獲得することができる。
新型コロナの感染拡大が始まって約半年だが、クリスパー・キャス9はすでにさまざまな活用法が検討されており、生命科学領域の研究手法として欠かせないものになりつつある。