数論界に衝撃を与えた谷山理論。 フェルマーの最終定理に貢献。
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フェルマーの最終定理に貢献。
先日、ふるい友人からメールをいただきました。何年ぶりでしょうか。彼は大学で数学を学んでいます。だからでしょう、ぼくがかつて書いた数学者・谷山豊の記事は、「おもしろかった」といってきたのです。
あらためて考えますと、谷山豊という、31歳でこの世を去った天才数学者、彼の遺した業績はとても驚きの数学なのです。、
1955年といえば、まだ戦後10年しかたっていません。翌年の1956年12月に日本は国連に復帰しているので、日本で国際的なシンポジウムが開けるような土壌がまだできあがっていませんでした。
そんななか谷山豊と志村五郎は、彼らの専門分野である数論における国際的な意見交換と交流を深めるために、「代数的整数論」のシンポジウムをぜひ日本において実現させたいとして、熱心に努力し、これを実現させました。
しかし、国際シンポジウムとはいっても、それはひじょうに小さな会議でした。敗戦後10年、数学の世界でひと足先に、国際社会に認められたという意味では、この1955年という年は、日本の数論界にとって大きな意味を持ちます。というよりも、明治から戦前の時代を含めて国際シンポジウムなるものが日本で一度も開かれたことがなかったからです。
国際会議とはいってもささやかな会議で、招待された外国人数学者はたったの9人。しかしそのメンバーは凄いのです。全部あげるとヴェイユ、アルチン、ヴラウアー、シュバレー、ゼリンスキー、ドイリング、セール、ラマナタン、ネロン、そして岩澤健吉。
これに谷山豊、志村五郎といった面々が加わりました。
これにジーゲルとハーセが加われば、とうじ、世界の偉大な数学者が一堂に会することになりますが、ふたりは都合がわるく、あいにく出席することができませんでした。
「君たちもガウスのように始めたまえ。すぐに自分がガウスでないことが分かろうが、それでもよい。ガウスのように始めたまえ!」といったのが、ゴッドファーザー的な存在だったアンドレ・ヴェイユでした。
これは、敗戦国である日本の若い数学者たちを励ますことばとして、会議の雰囲気をよく表しているエピソードです。アンドレ・ヴェイユの名が以前の記事中に、一箇所だけ出てきたのを記憶しておられれば幸いです。とうじ、世界の数論界では、軍人あがりの親分みたいな人でした。
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ところで、ぼくは先の文章で「谷山=志村予想」としましたが、当初の「谷山=志村=ヴェイユ予想」とすべきかどうか迷いました。1995年以前の文献の多くは、「谷山=志村=ヴェイユ予想」となっているからです。なぜそうしなかったか、その理由はのちにのべることにします。
谷山は1953年に東京大学を卒業し、同大学数学教室の「大学院研究奨学生」となっていました。志村五郎は1年早く卒業して、教養学部の研究奨学生でした。
この日本初の国際シンポジウムで行なわれた提言――じつに長いあいだ、あいまいなまま捨て置かれた研究――この国際会議で、日本の若手研究者が中心になって未解決の興味ある問題をあつめ、それを英訳した資料が会議の席上で配布されました。
予算の都合か何かで、それは印刷されずに終わったけれど、「数学」第7巻・第4号には日本語で収録されていて、今日われわれは見ることができます。その個所を簡単に紹介すると次のようになっています。
問題⒓ 楕円曲線EのL関数L(s、E)は適当な階数2の保型形式から得られることを示すことによって、ハーセの予想(解析的延長や関数等式のこと)が証明できないか。
問題⒔ モジュラー曲線でパラメトライズされる楕円曲線を特徴づけよ。
というものでした。
このふたつの問題は、谷山が提出したものでした。
問題⒓は後の「谷山=志村予想」の第3形の原型であり、問題⒔は第1形の原型です。もちろん谷山はこれらが関連していることにすでに気づいていました。また「数学」には、非公開式討論会で話された興味ある内容が掲載されており、そのヴェイユと谷山との会話は、つぎのようになっています。
ヴェイユ 「楕円関数は全部モジュラー関数で一意化(パラメトライズ)されると思うか?」
谷山 「モジュラー関数だけではダメだろう。別の特別な型の保型関数が必要だと思う」
ヴェイユ 「もちろんそうやってうまくいく楕円関数もあり得るかも知れないがね。しかし、楕円関数一般となると、まったく不可解に見える……」
――この会話だけを見て判断すれば、当時谷山は「谷山=志村予想」に関して肯定的な見方はまだしていなかったことが分かります。専門的にいえば、一般の代数体上で定義される曲線を考えていたのだという見方も成り立つでしょう。その場合、谷山は必ずしも、有理数体上のことだけを特別視して考えてはいなかったことになります。しかし、この会話から2つのことが明らかになった。
第一は、谷山は楕円関数と関連づけて「モジュラー形式」だけでなく、「保型関数」に言及していることです。そして第二に、一般にそのような関係が存在することをヴェイユは信じていなかったらしいことです。
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後にサージ・ラングエールという大学教授は、ヴェイユはこの予想に何の貢献もしていないという見解を発表しています。それでもこの会話を見るかぎり、ヴェイユは確かにじゅうぶんな関心を持っていたことが分かります。そこをはっきりと「任意の有理楕円曲線は、モジュラー形式である」と予想したのは、後年の志村五郎でした。
とうじ席上に配布された問題集にうち、この2問は、谷山が後に「予想」といわれる大ざっぱな形でのべた部分にあたります。
この問題は日本語で出版された谷山全集には収録されましたが、残念ながら英語版では出版されませんでした。しかし、多くの数学者がコピーを持っていて、そのひとり、フランスの若手数学者セールは、およそ15年前からこれらの問題に注目していました。コピーを大量につくって送ったのはラングでした。
60年代のはじめまでは、この予想はじゅうぶん記憶に留まるものであったとしても、正しく記憶されていたとはおもえません。たとえば、志村がアイヒラーの結果を拡張した後の1962~63年に、セールは志村と会話を交わした折りに、セールは注目すべきことをいっています。
志村の結果はたいそう限られた範囲の曲線にしか適用できないので、よい結果だとは思わないと述べているのです。
これに対して志村は、すべての有理楕円曲線は、モジュラー形式だと自分はおもうので、セールの考えは間違っていると答えています。
セールはこれをヴェイユに話します。するとヴェイユはほんとうにそう信じているのかどうかと志村に尋ねます。志村は「そうです。あなたはそうだとは思わないのですか?」とたずねます。このとき、ヴェイユは「愚かなコメント」をしているのです。この「愚かなコメント」といったのはラングですが。
「両方とも可算集合なのだから、そうなっても差し支えないが、この仮説に有利な事実も、まったく見当たらない」といっているのです。
このようにして、志村は谷山の問題に正確性を加え、楕円曲線をモジュラー形式のヤコビアンに含まれていると考えたようです。
ヴェイユは谷山の定式化に「代数的」な解釈を与えたという点で貢献したといえなくもありません。谷山、志村の双方は有理楕円曲線について当時流布していた心理状態を一変させたという点で、たしかに貢献したといえるかも知れません。
そうしたことから、他のだれでもなくヴェイユが、谷山の定式化にそのまま貢献したかのように考えられるようになったのです。
1955年から10年もたっているのに、これによってアンドレ・ヴェイユはいまだどちらの予想も信じてはいなかったことが分かります。――このカラクリを解明するカギは、じつは、日本国内の非国際化にも原因があったとぼくはおもいます。
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日本の学界はそれまで日本国内だけを対象にした研究を行なうにとどめ、海外に情報を提供する習慣がまったくなかったからです。英語版資料も用意しませんでした。そんなことから、海外の一流研究者たちは、日本の研究をまったく知る術を持ちませんでした。
日本でどのような研究が行なわれ、どのような成果をあげているか詳しい情報が何ひとつなく、ひじょうに先験的な研究に着手しているらしい情報もなかったので、都合よく解釈されることになった、というのが正しいとおもいます。
なかでもアンドレ・ヴェイユは、のちに述べるように「谷山=志村=ヴェイユ予想」に向けたヴェイユ自身による、ねじ曲げられた意図のもとに、自然に導かれていったとおもわれます。
参考までにラングの発言を少しご紹介すれば、次のようになります。
ラングは、これらのコメントをまとめて「谷山=志村ファイル」と名づけた20通の手紙とコピーを、世界中の50人ほどの数学者に送りつけます。この段階になって、ヴェイユは自分の全集の注のなかで、次のように書いているそうです。
「何年かのち、プリンストンで志村が私にこう尋ねた。有理数体上の任意の楕円曲線は、モジュラー群のある合同部分群によって定義される曲線のヤコビアンに含まれるということは、本当らしく思うかと。私は彼にこう答えた。どちらの集合も加算なのだから、それに反対するものは何もないが、その仮説に有利な事実も何もないように私には思える」と。
だが、このときでさえ、志村の「予想」を踏まえた主張に対して、ヴェイユは、「志村が私に語った」とはいわず、「志村が私に尋ねた」と書いています。
ヴェイユは、この種の問題に関連して、いくつかの論文を書いているといわれ、いずれにおいても、ヴェイユは志村の理論を信じていなかったにもかかわらず、ヴェイユ自身の名前が志村の「予想」と関連づけられていったのです。
この誤りは数学者が論文に他の人の仕事を参考文献としてあげたときに固定化していったものとおもわれる、とラングは述べています。
そういうことから、自然に「谷山=志村=ヴェイユ予想」という形で固定化していったのだと、ぼくにはおもえます。それがごく最近の、1995年ごろまでずっとつづいていたといえます。このような理由から、ぼくはヴェイユの名前をつけない「谷山=志村予想」を採用したのです。
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「可算は無限である」
このラングのいうところを、ラングのことばで、かんたんにご紹介すれば、次のようになります。
「ひとつの部屋に7人の男性と7人の女性がいるのを見て、ヴェイユが彼らは7組の夫婦であると予想したとしよう。私はそれに反対する理由は何もない。男性の数と女性の数は同じなのだから。しかし、私があなたの仮説を支持する理由もまた何もないというわけだ」
ラングがヴェイユの説明を「愚か」と評したのは、数えあげの議論がこの例のように、単純なやり方では適用できないからです。なぜなら、「可算」は数えられるかぎりの無限のことを意味しますが、そのような無限集合どうしの対をつくることは、少しもかんたんではないのです。――ラングが「愚かで、バカげている」といったのは、こうした点にあったと、ぼくはおもいます。
その後10年間ほどのあいだに、志村の主張に有利な事実が徐々にではありますが確実に増えていきます。もしその予想が証明されれば、それはきっと、重要な数学理論になるだろうと。
ヴェイユはその予想をめぐって研究をすすめたけれど、しだいに複素平面のモジュラー形式と楕円曲線とのあいだの可能な関係からかけ離れていきました。そして、ヴェイユがそのことを納得し、志村と果たした決定的な役割について言及するまでには、まる20年の歳月が流れていったのです。
いっぽうフランスでは、セールが偽りの帰属問題に積極的にくわわり、セールはこの「予想」を、志村五郎ではなく、アンドレ・ヴェイユの名前を冠するために全力を尽くしていたというのです。セールがなぜそのような行動をとったのか、だれにもわかりません。
1955年、セールが会議出席のために日本へやってきたときから、ずっとこの問題を密かにすすめていたらしいのです。シンポジウムの会場である日光へと向かう列車のなかにおいても、ヴェイユ、谷山らと同席していて、谷山とヴェイユが並んで座り、谷山の向かいの席にセールが座る形になっている写真が見られます。1967年、アンドレ・ヴェイユはドイツ語で書いた論文のなかで、おもしろいことをいっています。
「これらのもの、つまりQ(有理数体)上に定義されたすべての曲線Cが、そのように振舞うか否かは、現時点ではいまだに定かでないように見え、興味ある読者のための練習問題としてお勧めする」というものです。
「そのように振舞うか……」というのは、モジュラーであることを意味しています。つまり、このようにして志村の「予想」について語っているわけです。しかしヴェイユは、ここにおいても理論の創始者に帰属させていません。この「予想」にしても「定かでない」と述べているに過ぎないのです。
さらにおもしろいことに、ヴェイユは、これを興味ある読者のための練習問題としてあげているのです。「楕円方程式」と「モジュラー形式」の完全なDNA照合が確立され、その上で無限に証明される必要があるこの大問題を、ヴェイユは練習問題としてかんたんに紹介しているのです。
これは、ヴェイユ自身にも解けない問題であって、今日このようなヴェイユの「振舞い」を眺めていくと、ぼくにも、ひじょうに奇妙におもえます。しかも、答は「定かでない」というのですから、始末が悪い。
数学に興味のある多くの方が、もしもこれを読んで、どうおもわれるでしょうか。ぼくにはとても興味があります。この谷山理論は、のちにアンドリュー・ワイルズによって証明されました。結果、「フェルマーの最終定理」を証明することになったのです。サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」には大変くわしく書かれています。