文体が面倒な小説
-オークリアス歴684年4月19日 午後7時27分19秒
その瞬間、フォーティグ卿の娘である淑女ミリア嬢は見ず知らずの男に抱きかかえられて、彼女の住む豪邸の裏門から飛び出したのであった。
ミリア嬢を抱きかかえて走っている男は領主の屋敷に忍び込んだ盗人で有り、その盗人がミリア嬢を抱きかかえて逃走していたわけである。
一見して、盗人が身代金目的で貴族の娘をさらったと考えられるだろう。
しかしながら、それにしては異様な点がいくつかある。
まず、当の盗人は彼女を抱えて走りながら、非常に当惑していた。
実際の所、彼の計画には金品を奪うという目的はあったが、人をさらう計画は無かった。
彼はなぜこんなことになったのかと混乱しながら考え無しに一目散に走っているのである。
そして、盗人にさらわれたミリア嬢は怯えていなければならないはずだが、どういうわけか目を輝かせながら積極的に盗人にしがみついているのである。
「ああ、私はどうなってしまうのかしら」と不安そうなセリフを述べつつも、その表情には不安そうな様子は一切見られずその瞳は異様なほど輝いていた。
さて、読者諸君はなぜ加害者たる盗人が混乱の極みにあり被害者たるミリア嬢が楽しげであるかについて大変に興味を引かれておられるであろう。
また、盗人に侵入されさらわれることになったミリア嬢のこの先の運命についても興味を引かれているに違いなく、ごく一部の読者に至っては作者がなんのヒントも提示していないというのに破廉恥な展開を想像して盛り上がっておられるに違いない。
だが、ここから先の展開を早く見たいと願う読者諸君には申し訳ないが、物語の理解を円滑に進めるために一度時間を巻き戻す必要がある。
まどろっこしいといわれようともこれが作者の流儀であり、この流儀に反感を覚える者はかぐわしいワインか香り立つコーヒーでも口に含み、快活に屈伸運動などを2・3こなした後に社交的な活動に精を出すべく玄関の扉を開け放って街へ繰り出すとともに、掲載誌の巻末のはがきに本作の題名を記入して「5,非常におもしろい」を選択して郵便ポストに投函してから本作のことなど忘れるが良かろう。
決して作者に向かって罵詈雑言を浴びせようだとか、巻末のはがきに本作の題名と共に「1,非常につまらない」を選択するといった悪心を起こしてはならない。ーとりわけ、抗議の投書などをしてはならない。それは編集長の私への心情的な評価に多大なる悪影響を及ぼす。
ここに残っておられる読者諸君は作者の流儀に同意してくれたものとして、早速今から時間を巻き戻そう。
最初の説明のために戻す時間は一月前でも半年前でもはたまた18時間前でも一向にかまわないのだが、ひとまず手近な6時間前に戻してみるとしよう。
この出来事の6時間前、ミリア嬢は父親の書斎に潜り込み、いつものように父親の秘密書庫を開けて本を一冊取り出していた。
その本の名前を単にここに記せば、聡明な読者諸君はその本がどういった内容でどういった類いのものであるか容易に想像できるかと思われる。
しかし、本作品を掲載している月刊誌の格調を鑑みるとその名前を明白にここに書いてしまうことはいささか不適切であり、有り体に言えば名前を明記した場合、編集長の手により本作品は抹殺されることとなるのは明らかである。
つまりは、そういった類いの書籍であり、非常に直接的な表現のタイトルが印刷されている書籍である。
聡明な読者諸君であればこの表現でご理解いただけるであろうことを、作者である私は100%の確信を持って信じることが出来る。
さて、作者はこの6時間前にミリア嬢が手に取った猥本の概要を説明し、ミリア嬢の心境や心理的な偏りについて説明をしたい次第であるが、この猥本の説明から始めてしまうと彼女を生まれながらの非常なる破廉恥な女性であると読者諸君に謝った認識を与えてしまう可能性がある。
そこで、なぜミリア嬢が父親の秘密書庫を日常的に破るような人物になってしまったかを説明するために、さらに時間を遡って冒頭の時点から6年と3ヶ月と21日と6時間と27分ほど前に遡り、春の日差しがうららかな気持ちの良い季節のフォーティグ家の居間に戻ることとしたい。
この時間のフォーティグ家の居間には心地よい日の光が差し込んでおり、ミリア嬢の母親はソファの上で編み物の指南書を開き、毛糸と格闘しつつ人間がなんらかの突然変異を起こさない限り絶対に着ることが出来ないであろう奇妙な形の前衛芸術を作り出していた。
この母親は読書家であり、特に主に恋愛その他心情のもつれに関する妄想を書き連ねた文字の塊、すなわち恋愛小説の類いに対して偏重した愛着を持っており、そう言った本については特に読書家であった。ーなお、編み物の才能はなかったようである。
この居間の片隅で今まさに一冊の本を開こうとしているのが、本作の主人公のミリア嬢である。
母親の影響を受けたミリア嬢もまた文字の読み方を覚えてからは母親と同じく恋愛小説に浸るようになっていたと言って、ミリア嬢が否定することはないだろう。
ただ、それは世間一般から見て異常ととられるような激烈な程度ではなく、暇なときや気が乗ったときにたしなむ程度といったものであって、この時点では取り立てて問題があったわけではない。
それが変わることになる決定的瞬間が今まさにこの瞬間であり、彼女は今まさに彼女自身の生活と人生の目的すらも変えてしまう一冊の本を開こうとしているのであった。
それは母親から借りた小説ではなく、彼女の友人から熱烈な推薦とともに渡された本であった。
補足として説明をすると、ミリア嬢の母親は娘が読むものについては日頃から注意をしており、一定のパターンから外れたような恋愛小説を娘に読ませるようなことはしていなかったのである。
その一定のパターンとは、年頃の男女が健全に淡い恋愛感情を育てていくような内容、または騎士道物語のようなものであり、その内容は徹底してプラトニック、肉体的表現も頬へのキスにとどまるようなものである。
母親は決して、変態的な紳士が白昼堂々農家に押し入りカブをかじってシルクハットを振り回しながら何の罪もない農夫の娘の臀部をステッキでたたいて興奮して達している様を描いた某作品のような破廉恥な小説を娘に渡すことはなかったのである。ー恐らく読者の8割はこの説明でタイトルまでおわかりであろう。
ちなみに、ミリア嬢の母親自身はこの紳士が活躍する一連の27冊をすべてを所有しており、その作品を読んだ際に覚える性的な彼女自身の興奮についても熟知しており、しかもシリーズ全巻を四十回以上通読しているという始末である。ーこの事実については当然ながら夫も娘も知らず、知っているのは作者と読者諸君だけである。
そのような母親の注意深い本の選定によりプラトニックな恋愛小説しか読んだことのないミリア嬢であったが、この時に友人から渡された小説は不幸にもプラトニックからはかけ離れた作品であった。
彼女の名誉のために説明をすると、彼女は最初の2ページを読んだ時点からその直接的な内容に辟易し、自分の好みではないと断じて一度本を閉じたのであった。
また、今には母親も居たことから、彼女は赤面してその本を急いで隠したのであった。
母親や家庭教師から貞淑であれと言われ育っており、また彼女自身も貞淑であろうと努力をし、この時点では実際に貞淑であったと言える。
ところが、ここから三日後のこと、すなわち冒頭の瞬間から6年と3ヶ月と18日と5時間と54分前の時点で、彼女はまたその本を開いたのである。
楽しみにしていた街への小旅行が両親の突然のごたごたで中止になり、落胆した彼女は何気なしに暇つぶしにその本を開いてしまったのだ。
彼女が読むのを止めていた2ページ目から読み進めた結果、それは街への小旅行とは比較にならないほどの衝撃的な「知らない世界との出会い」となったのである。
こう書くと想像力豊かな読者諸君は、友人が渡したその本は先ほどの変態的な紳士が闊歩するような小説だと思われるかもしれない。
一般的な観点からはかなり極端な作品ではあるが、経験豊富・知識豊富な読者諸君-この雑誌の読者の全員が極端な変態であることはまごうことなく事実であるーが満足されるほど極度に逸脱した筆舌しがたい小説では無い。
この本の詳細を語りたいところではあるが、語ってしまうと物語の主題がぶれてしまうためやむを得ず省略させて頂きたい。
本作品において、ミリア嬢の友人は悪役でも主要人物でもなくただの脇役である。
ところが、この本はその友人の手によって入念に各所に付箋や書き込みを加えられており、その様が読者らの興味を引くことは明白である。
この件について詳細を述べた場合、本月刊誌を購読されている7万5千人の善男善女ーさきほど変態と記述したのは筆の誤りであるーにかの友人の良識を疑わさせることになり、結果として読者諸君の注意は物語の本編からかの友人に向かって行ってしまうことになろう。
実際の所、その友人はミリア嬢に渡した小説よりも10と10倍の上を行く刺激的で正気を疑うような作品も数多く所有しており、小説の重要人物として全く問題ないどころかむしろおあつらえの問題人物であり、かの友人が作品内に登場してしまうとミリア嬢と盗人はたちまち脇役へと押し込められ、作者が意図せずともかの友人が主人公となってしまうことに疑いの余地はない。
そういった諸問題を防止するためにも、かの友人が渡した作品の異常性には詳細に語らない物として、読者諸君にはかの友人と小説に過剰な注意を向けず、ミリア嬢の方に注意を向けていただきたいのである。
また読者の中の幾人かは、なぜその友人を主人公にしなかったのかと作者に苦言を呈そうとするかもしれないが、それにもちろん友人を主人公にしてしまうと作風が全くもって違う物になってしまい、おそらくこの雑誌の編集長は私の原稿を掲載することに同意しないと思われるためだ。ーその場合、その作品は格調の高い本誌ではなく、格が低い、有り体に言えば原稿料が低い掲載誌の選択せざるを得なくなり、作者にとっては受け入れがたいのである。
私は趣味ではなくパンを食べるために作品を書いているのであり、それについて十分な理解をお願いしたい。
なお、かの友人は自身が所有する蔵書の中で最も刺激的な作品を渡したわけではないので、かの友人にもかろうじて良識があったと考えられる。
この友人の手により結果としてミリア嬢は劇的な変化を遂げてしまうわけであるが、良識的で道徳的な一部の紳士と婦人らははかの友人の行動に憤怒しミリア嬢の両親が裁判所に訴え出て友人が禁固刑等重い処罰を受けるのが社会的正義として適切でありそのような展開にならないことについて憤懣やるかたない気持ちになられるかもしれないが、葉巻の一本か気付け薬の一杯を持ってその思いは抑えていただきたく思う。
道徳的な方々のご希望に添った場合、本作品の物語の主軸は作者の当初の思惑を外れてミリア嬢と盗人の珍道中劇から個人の特殊な趣向の伝道行為の正邪をテーマとした長大な裁判劇へと転じてしまい、非常に退屈なる作品へと堕してしまうであろう。ーもっとも、作者としてもかの友人の自己弁護は聞いてみたいところではあるが、ここでは興味にとどめ裁判劇になった場合のあれこれの想定を書き記すことは慎むこととする。
さて、ミリア嬢の方に焦点を戻したい。
作者の満身の努力によりかろうじて覆い隠されているが実際の所は非常識の塊のである友人の手により”その世界”を知ってしまった彼女はそこからその世界に心酔してしまったのである。
最初に渡された一冊があまりに一般的通念からかけ離れていてそういったことの知識をつけるための入り口としては全くふさわしくなかったために、彼女の精神に取り返しのつかない影響を与えてしまったのである。 ーやはり、彼女の友人の罪は重く、本作品は友人を糾弾するための裁判劇とするのが適当なのかもしれない。
結果として、彼女はかの友人・その他の友人・友人の友人・あるいは未成年が入ることが社会通念的にギリギリ見逃される程度のいかがわしい店、そういったすべてのツテを使ってその手の猥本を集めるコレクターと化してしまったのである。
彼女の名誉のために弁護をするのであれば、彼女の年齢においてそういったことに興味を持つことは極めて一般的であり、彼女の生来の精神的気質に他者から批難されるべき点があったわけではないと作者は主張する。
ただ一点、この物事の始まりのきっかけとなった最初に渡された本が不適切だったために起きた惨状であり、彼女自身にはいかなる責任も無いと主張したい。
しかしながら、その世界に入ったことを確信したかの友人がさらに刺激が強い作品を持ち込んだため、結果として取り返しのない領域に突入してしまった。
物語の冒頭の時点では、彼女が猥本ーというくくりで説明してよいのか分からない異様な作品群ーをかき集めることに関する執念については一般的通念から大幅に乖離しており、いかに彼女を精一杯弁護したいと思い願う作者としても弁護しきれる自信は無い。
そこまでに行く過程の中で彼女の父親の秘密書庫が破られたのは必然であり、むしろ彼女が父親の秘密書庫の鍵をわずか40秒で探し当てた卓越した推理力に関しては賞賛されるべき物だと言えよう。ーなお、母親の秘密書庫は巧妙に偽装されており、ミリア嬢は母親が秘密書庫を持つことに気がつくことすらなかった。母親はミリア嬢の数段上を行く存在であった。
かくして、冒頭の瞬間から6時間前、彼女はいつものように入念な証拠隠滅を図りながらも父親の秘密書庫を開き、その中の図解が豊富な一冊を異常な集中力で凝視していたのである。
この6年間の過程には興味深く読者諸君を驚喜・驚嘆せしめる出来事が山とあり、作者としてはこの6年前から冒頭に至るまでの経緯の詳細について、すべての語彙力とすべての表現力とすべての時間と精神力をささげて思う存分語りたい物であるが、冒頭の場面に達するまでに小説型書籍として一般的なグリーテル第三規格サイズの二等級活版印刷にして10冊は費やすことになることは明白であり、その場合に我らが編集長は原稿を本月刊誌に掲載することを拒否することも同様に明白であり、結果として作者の書籍は出版されないこともまたまた同様に明白であり、最終的な帰結として作者は1ペンスの印税も得ることができずに筆を折って一般労働者として動労に勤しまなければならないこととなる。
これまで数多くの作家と交流してきたい経験から読者諸君がいかに冷淡であるかということについては心の底から理解しているつもりであり、作者がどのような塗炭の苦しみを味わうことになろうとも読者諸君はそれを朝食の話題にもせずに「ふん」と鼻を鳴らしてならしておしまいにしてしまうこともよくよく承知している。
しかし、考えて頂きたい。
作者が自作が一切世に出ない苦しみと貧困の苦しみと自らのふがいなさに絶望しようとも、きつい炭鉱労働の終わりに僅かながらの幸福を求めて埃と砂だらけの汚いバーに出かけて品のないモーモスタト人に目の前で屁をこかれて悶絶しようとも、その後に神のいたずらか悪魔の企みか天井に空いた小さな穴からクリグリモの実ほどある大きな甲虫類が落ちてきて作者が一日の労働の糧として得た僅かな幸福のかけらである黄金色の液体が入ったジョッキに大きな音を立てて沈んでいき作者がこの世のすべてを呪おうとも、さらに作者がバーの店員に交換を訴え出ても頑として受け付けず甲虫類の色が抽出されわずかに紫色になった黄金色の飲料を飲むか捨てるか悩み続けようとも、読者諸君にとっては気にかけるに値しない事実であることは作者自身としても認めよう。ーなお、蛇足なようだが敢えて言うとすれば、これは実際にこの作品を書き出す前に作者が経験したことである。
しかし、モーモスタト人の屁に顔をしかめるような毎日では、長編小説を書き進めることは非常に困難な作業であり、作品を完成させることはさらに困難であり、ましてや出版される可能性は絶望的に無いと言ってよい。
この小説を読んでおられる読者諸君は、程度の差はあれ小説という作品を読んで時間を潰すという他に類を見ない贅沢な時間を味わうことが出来ているのであり、それに快感を覚えこの時間がもっと続くことを願っておられるに違いない。
つまりは作者の作品が完結を迎えるまで本誌に掲載されることを望んでおられるはずであり、いずれは独立した書籍として出版されたあの直方体の物体を書店にて買い求められることを望んでおられるはずである。ー私の前で『そうではない』などと不埒な言葉を発した場合、作者はたとえ一生を獄中で過ごすことになろうとも、諸君らを救命胴衣無しでメガネ橋の上からモーリス川に放り込むつもりである。
となれば、作者が筆を折って一般的な労働に勤しむことは読者諸君にとっても不利益になることであり、作者と読者諸君は同じ利害関係を共有する仲間である。
よって、読者諸君としては作者の幸福を願うことが論理的にも妥当であり、読者諸君は作者が置かれている状況を十分に理解した上で至らない点については理解と寛大な対応をするべきである。ーそして出版された書籍を購入するのが義務である。
本月刊誌の編集長の目の下をくぐり抜けるには、ミリア嬢が盗賊にさらわれた冒頭の瞬間までの出来事を煮詰めに煮詰めて10ページ以下に納める必要がありー結果として多少超過しているがその点については誰も気がつかないものとするーその条件下でこれまでの文章が綴られているのであり、詳細を語れないことは作者の怠惰のためでは無く主に出版上の理由および編集長の趣味であることを心に置いて頂き、作者に対して批難の手紙を送ることは控えて寛大な対応をするべきである。
なお、前作についての批難の手紙は出版社の片隅のカビの生えた木箱の中に収まっており、出版社からは早く読めと言われているが作者は未だに一切目を通しておらずまた今後目を通す予定もなく、来年のファンティスバル祭に広場に設けられる聖なる炎に木箱ごと放り込んで片を付けてしまうつもりである。
余談ではあるが、我らが編集長もファンティスバル祭の聖なる炎を見に行くそうなので、木箱と一緒に編集長も炎に放り込もうと思う。
ミリア嬢は大まかに言って性癖という物がこじれにこじれてしまった気の毒な女性であり、同じ年頃の普通の少女が白馬の騎士にあこがれるように押し入り強盗や荒くれ者にあこがれてしまうという不治の病にかかっていたのである。
ちなみに、そういった輩になぜ憧れてしまうかという点についてはこれまでの説明の通りに残念ながら詳細を明記することは出来ない。
もっとも、聡明な読者諸君は作者が詳細を語らずとも無駄に豊かな想像力で補完して理解して頂けることと思う。
さて、本作品の時系列はようやく冒頭の地点に戻ってきた。
ここから、ミリア嬢と盗人の珍道中が始まるのである。
(始まらない)
昔の海外小説でたまに作者が前に出てくる作品がありますが、それをさらに酷くしてみました。
トリストラムシャンディレベルまでやってみたかったけど、そこまでやると本当にわけわかんなくなるから止めました。
この文章は書き直し回数がすごくてものすごく大変でした(汗: