【パチンコ業界酔いどれ漂流記】

パチンコ業界酔いどれて、流れながれて浮き草稼業。だれよりもこのパチンコ業界が大好きだと自負しております。ゆえに辛口の批判もしてしまう。酔いどれ仕事人のよもやま話と、むかし話に耳をかたむけてください。

セガ、CSKなど雑駁に整理

気がついたら、もう5ヶ月近くも書き込んでいなかったのですね。コメントで「年内には書き込む」と約束してしまったので、四苦八苦で、未整理ですが書かせていただくことにします。実をいうと、過去と現在を行ったり来たりというのはかなり疲れるものなのです。この業界にも「業界誌」というのがあって、社員十数人の会社から1人でコツコツやってるところも含め20社くらいあります。最近よく思うことは、規模拡大で会社をいくら大きくしても、こんなに厳しい時代になればなるほど、個人の家内興業のほうが安定してつよいのかなぁ、ということです。最初から失うものがない開き直りで対処できますもん。派遣だったら切りやすいけど、正社員のリストラはなかなか出来ないですよ。

 日電協加盟メーカーについては設立以降の順次で初期の頃のことを書いたが、昭和57年に新たに加入したのが、オスカー物産(古田の関連)、日活興業(現ネットの前身)、北電子(当時は西陣の関係で現ジェイピーエスの綾部が代表)、大東音響、タイヨーなど。で、タイヨーの山崎茂喜(崎は難しいほうの字だが)。彼も、最初は昭和30年代に、長崎の米軍キャンプ地で、そこから金網越しに駐留軍の中古ゲーム機(ジュークボックス等)を仕入れて、それを路上営業して儲けたのがルーツだ。昭和48年にいまの会社を設立しているが、当時はまだゲームマシンの会社である。
 ついでに、コメントをいただいてお会いした某販社の社長からお聞きした話。(は、削除しました)
 東上野の元タカラホテル(旧い業界人なら知っている)の広い跡地はモータープールになっていたが、そこが現在は封鎖されている。
 ここをオリンピアが買っていて、平和東京本社ビルを移転させ建築する予定だそうだ。オリンピアのいくつかの中枢事業部もそこに入ると思われる。

 大阪元町の大東音響倉庫が解体され更地になった。パチスロメーカーも厳しい。コメントで書いたアビリットも例外ではない。これまで資本融資していた上場会社などが手を退いた影響を受けているメーカーも少なくない。
 アルゼも昨日の取締役会で、セタの解散・清算、アルゼマーケティングジャパン㈱など連結子会社4社の合併(3社は解散)を決議している。フィリピンに独自に(ウィンリゾートとは別に)カジノ用の広大な土地を購入しているが、フィリピンという国内事情も併せ鑑みて、カジノはマカオなどでも中国の規制強化、世界同時不況下で厳しくなっているのが現実だ。ある意味、日本のカジノ法制化もどうなるかわからないのではないか(業界にとってはいいことだろうが、カジノと同じ世界不況・金融危機の渦に巻き込まれている意味では同じことだろう)。

 セガの前身ともいえる中山がやっていたエスコ貿易については触れた。このエスコの中山の番頭だった人物が森という人物で、後にアルゼ(当時ユニバーサル販売)の営業本部長になる。
 この森が大川と組んで、当時の企業会計ソフトのパイオニアだった大阪の企業が倒産したときに、その会社を買収。昭和43年、大阪北浜にコンピューターサービス㈱が設立される(買収した会社の名前をそのまま流用したかどうかは調査していない)。実はこれが、CSKの前身だ。社名をCSKに変更したのは昭和62年。この年、東京に(たしか霞ヶ関だったか?取材に行ったことがある)日本カードセンター?というのが設立されている。現「㈱クオカード」だ。プリペイドカード推進が目的で、僕の記憶が正しければ、当初は自販機でのプリペイドカード事業だったはずである。取材に行って驚いたのだが、取材に応じた幹部の中に、グローリーの人間がいたことは憶えている。同時期、大阪の住友商事が同じような自販機でのプリペイドカード事業部門を立ち上げていて、そこから聞いて日本カードセンターに取材に行ったような気がする。パチンコプリペイドカード導入前夜だ。

 ついでに、これはカードに特化してまとめて書こうと思っていたのだが、熊取谷稔がパチンコカードでこの業界の「インのクリア」を旗幟として三菱商事を引き込んで最終的には内部クーデターまで起こさせて旧全遊協組織を崩壊させるに至る。当時の警察庁保安課長の平澤勝栄はあくまで熊取谷と故後藤田正晴の代理人だった印象も強い。「国策」と平澤が言っていたのはその背景がある。

 ついでのついでに、日電協に貢献してパチスロの市民権を確立させたのは初代(濱野を短期暫定理事長として)理事長の吉武辰雄、2代目の柿内正憲なのだが、その吉武が亡くなったときの葬儀委員長が故秦野章で、弔辞を述べたのが故後藤田である。2人とも政治家だが大物キャリア警察OBである。平澤も保安課長のときから政治家への道を選んでいた(僕は2回も取材して当人がそう言っていた)。
 熊取谷がパチンコプリペイドカードに標準をあわせた契機は、東京のアイラブユーという全自動麻雀卓とホールの台間サンドメーカーを買収したことが大きい。これが「コスモイーシー」になる。

 「ついでに」の本論に戻る。当時は警察庁の認可を得て「使用その日限り、その店だけ、使用金額1000円」(後に3000円になる)のハウスカードが広がっていた。販売会社や周辺機器メーカー、パチスロメーカーなどがこの新分野参画でハウスカードとそのカードサンドなどの機器を開発販売し始めた。カード主体の展示会を僕が企画し、それに併せて各地で結成されていた「全国青年部会の集い」を昭和62年4月に開催したが、この企画に快く応じて多大の金をつぎ込んでくれた当時の業界誌社長の意気には感謝している。が、そのあとしばらくしてから、僕とその社長の関係はギクシャクするようになる。お互いがあれだけの大イベントを挙行して、お互いが業界でチヤホヤされるようになったのが原因なのかもしれない。そこに取材で来ていた別の業界誌社長に「すごくいい発想だね、俺もここまでは考えなかったよ」と声をかけられた。ところがこの社長は翌年に、周辺機器メーカーを集めて現在の自動サービス機工業会を作ってしまったのである。1枚も2枚も上手だった。

 「ついでに」の本当の本論。ハウスカードの劈頭は最初に宮崎県郡部のホールに導入されたのがセントラル通商が独自に開発したカードシステム。たしか昭和61年。全遊協がこれについては「時期尚早」という論議を重ねながら、最終的に警察庁の「当日限り、その店だけの使用、1000円まで」の条件で認可された。
 このセントラル通商の開発者であり社長だったのが、アルゼ岡田の実兄。共にユニバーサル時代から事業をやっていたが、どういう理由からか袂別して自分で岡山で部品と機器開発会社をやっていた。その岡田兄については鹿砦社「アルゼ王国の闇」第2弾に詳しくインタビュー取材で書かれているので割愛する。僕が当時、その岡田兄から聴いたのは、ハウスカードの発想は三重の受取票制度(換金システム)だったということだ。つまり、最終的には三重方式を敷衍させて、パチンコカードで指定商店やスーパーなどで買物ができるものにまで進めることが岡田兄の構想だった。
 が、この構想を「インのクリア」という大義名分とその政治腕力で熊取谷が「全国共通プリペイドカード」にすりかえる。同時に大手財閥企業を呼び込んだ「ジャパンネットワークシステム」「エルイーテック」によるアウト、オンの業界改造計画をスタートさせたわけである。

 さてさて、カードについてはいずれまた。オリンピアマシンの日本における濫觴(らんしょう)は昭和39年のセガとタイトーの国内初のもの。翌年に東京銀座のゲームセンターに導入されたがすぐに終わってしまったことは以前に書いた。当時のセガはまだ会社名は「日本娯楽物産㈱」だ。創業は昭和26年、日本娯楽物産設立が昭和35年で、この年に国産初のジュークボックス「セガ1000」を開発販売、のち昭和40年にこの企業名から㈱セガ・エンタープライゼスに社名変更する。セガのもともとの前身は米国資本の「(有)ローゼン・エンタープライズ」という会社で、米軍基地やキャンプ地のゲーム機管理会社。ここを日本娯楽物産が吸収合併して国内におけるアミューズメント施設の運営をスタートさせる。
 このセガに、先のCSKグループが資本参加したのが昭和59年である。翌年に「UFOキャッチャー」発売。

 で、セガにCSKを資本参加させてその発展の礎を築いた人物、さらにサミーが製作所と工業のときに2回の資金難と業績悪化による瀬戸際をCSKの大川を紹介して助けた人物こそ、あのドン氏なのである。前にも書いたが、もともとタイトーの営業マンであり、その後の人間関係等については「花月会の群像」を参照いただきたい。サミーの株式上場においてもドン氏の存在が大きく作用している。コナミの窮状を救ったのもこの人だ。ゲーム業界、パチスロ業界の「ドン」「陰のフィクサー」と呼ばれる一端がここでも垣間見られる。

 

パチスロへの技術革新―その整理

 やってしまいましたね。確認不足です。こんご回胴史研究会メンバーに必ず確認をとりながら書き込むことにしたいと思います。コメントにある山佐の「坂口某」のことを坂本某と書いてしまいました。
 で、その研究会メンバーから山佐グループ記念誌の資料をいただいたので、山佐、日活、尚球社、角野の関係もふくめて整理しておきたい。回胴の歴史に関わる資料をお持ちの方、研究会を通して、あるいは直接コメントでもいいのでお知らせくだされば有難いと思います。(なんか本格的になってきたような)

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 佐野が山佐産業社長に就任したのが大阪万博の年の昭和45年(1970年)。その約5ヵ月後に先代の一郎が逝去する。先代は材木商で財をなしたが、新見市の佐野商店、新見木材センターがその創業だろうと思う。この昭和45年にはボウリング場も開業している。ガソリンスタンドも経営しておりこれが今もまだ事業継続の岡石(岡山石油販売)だ。佐野とともに山佐の基盤を築いた現執行役員・営業製造本部長の吉国純生は、昭和48年に岡石に入社しているが、一時期、山佐グループが経営する喫茶店の店長もしていたと聞いた。
 日電協設立前の昭和54年末に、佐野は大阪の角野(マックスブラザーズ=過去ログ参照)と業務提携して「ジェミニ」の販売を手掛ける。吉国によればこのときはまだ「社長(佐野)自身も開発に関わらず、このオリンピアマシンに興味を抱いたことがそのあと業界に参画していく切っ掛けになった」と述懐している。この時期、佐野は岡山でホール経営にも手を出してはいたが、業界にはまだ本格的には足を踏み入れてはいなかった。しかし、オリンピアマシンの新たな革新のためのソフトを創りあげようという意識に燃えていて「新時代のレジャー産業への参画」意欲は強かったようだと吉国は書いている。

 翌昭和55年、この11月に日電協が正式に設立されたのだが、山佐はこの年の7月に会社の定款も変えてアミューズメント機械製造販売を追加して、スロットマシン事業を開始する。日電協が設立された同じ11月に、大阪の製造メーカー尚球社と業務提携して、最初のパチスロ「パルサー」を世に送り出す。イラン・イラク戦争、ジョンレノン射殺、モスクワオリンピックの年だ。名称も「パチスロパルサー」と、パチンコスロットを略した名称をはじめて使った。いまもなおこの「パチスロ」が回胴スロットの名称として定着したのも、パルサーが濫觴なのである。

 山佐はパルサーでその開発(ソフト制作)と製造を行う。製造部門で別会社の「中国電波㈱特機部」をわざわざ創立させている。翌年に尚球社からパルサーの営業権を譲受。この中国電波特機事業部は昭和57年に特機産業㈱として独立したが、その生産規模は当時で月産1,000台くらい。これもあってか、ホールへの販売を日活興業に委任する体制をとった。
 日活興業はこの昭和57年に日電協に加盟。いまの風俗営業適正化法が施行された昭和60年には日電協はその当時(設立時9社)から21社の組合として新たな飛躍をはかっていくまでになっている。ここではじめて、山佐としても実質的にメーカーとして表舞台に出ていくことを決意したことになり、日電協に加盟した。本格的に山佐ブランドの全国展開へ動くことになる。日電協設立時の昭和55年にはオリンピアマシンとパルサーの「パチスロ」含む設置台数は約3万台しかなかったものが、パチスロ普及により昭和60年時点では10万8000台を超えている。翌年には約33万台に急伸長する。

 このため、ホールも今までは1メーカー機種設置(パチンコも)導入で営業していたものが、ファン層多様化もあり、バラエティーに富んだ機種のバリエーションが求められるようになっていた。急速にホールの設置機種におけるバリエーションの必要性がニーズとして求められていった時代。
 山佐はそれまで日活興業に委託販売させていたパルサーに、このとき初めて自社販売網に自社ブランドの「プラネット」を追加して販売拡大と全国営業所拡張=業績増大をはかる。組合や警察への検定申請等の折衝業務に従事していたのもこの頃だ。
 パルサー、プラネットの2ブランド体制は平成元年まで続く。日活はあくまでそこでは山佐グループの一員という役割だったが、この平成元年に日活は山佐から離れて独立して、傘下から離脱する。記念誌による吉国の「山佐イズムの歴史」によれば、このとき佐野は「日活興業は元々製造メーカーなんだから、独立していくのは当然であり自然な姿なんだ」と、彼らを気持ちよく送り出したという。

 以下、その吉国の言葉を借りれば、平成元年に山佐は大幅なハード改良を行う。これまでのパチスロのイメージを一新した「ビッグパルサー」「スーパープラネット」の発表だ。リール図柄の小役であるスイカ、惑星に「目玉」を付けてより親しみやすいものにデザインを変更。あくまで7などの数字配列だったものが、これがその後のパチスロの常識になっていくことになった。現在も山佐のリール図柄で親しまれている「カエル」の原点だ。

 日活の「パルサーXX」も昭和60年にはまだ山佐が代理店契約でその販売を拡充していた。つまりその主導権はあくまで山佐が有していたことになる。この関係を熟知すれば、その後、山佐のメーカーとして表舞台への本格参入と、尚球社との関係が薄れていったことも理解できると思う。

パチスロへの技術革新に果たした佐野の功績

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 前回の続き。パチスロ以前のオリンピアマシンがアナログの「ギア式」だったことについては触れた。あやふやだったので、知合いの業界人に再度そのことを確認してみた。このギア式がやはり、いわゆる業界で「リレー式」「リレー制御」と言われていたものである(この確認のため電話したのだが)。このリレー式の頃も天井設定があったのだが、うまく使いこなせていなかったことは前回も書いた。ホールの現場では客の技術が上がってくる。ギアを半回転ずらして7の当たり図柄を外したりしていたのだが、これを客が熟練した技術で7で止めるようになった。いわゆる「目押し」の原点である。
 ここで、メーカーでは「メカ式のままでは客の技術との間で限界がある」ということになり、どうしてもその対策を施す必要性に迫られた。でなければ、ホールの売上と利益にも影響して、ひいては機械も売れなくなる危機感があったからである。草創期のメーカーにおけるこのジレンマが、画期的な日本固有の「パチスロ」誕生に向けた革新へと結びついていくことになる。もちろん風営法認可1号機のオリンピアマシン「ジェミニ」もリレー式だった。リレー式だと、ホールにはパチンコも含めて電気を流せば相当数の電磁気(ノイズ)が反応する。このためオリンピアマシンのギア回転速度も計算どおりにはいかなかったのかもしれない。

 ちなみに、パチスロの1号機「パルサー」は、おそらくリレー制御からCPU(マイコン)であるパルスモーター制御にした「パルス」からのネーミングではないかと思われる。

 このパルスモーター制御方式を雑誌「トランジスタ技術」に論文として発表していたのが当時は東海大学教授で旧通産省工業技術院電気試験所(現・独立行政法人技術総合研究所)の研究員だった猪飼國夫である。この人は「ハードウェアの伝道師」とも言われ、自身のプロフィールには「コンピュータ利用技術の何でも屋さん」と書いているくらいのオーソリティーだ。工学博士。著書にも「メモリIC規格表」「マイコン割り込み技術入門」「インターフェイス回路の設計」「パルス回路の設計」など多数。

 このトラ技に記事を書いていたのが前回に書いた佐藤正隆。この猪飼と佐藤の記事を見てオリンピアマシンの限界を打破する技術転換を考えていた東京大学理工学部を出て岡山に戻っていた佐野慎一だ(あるいは在学中だったのかもしれないが)。早速、佐野はこの2人に連絡をとって協力を依頼する。ちなみに、佐藤はその後、山佐に入社したが、佐藤がみずから師とあおぐのが、“日本一の裏ロム師”と自称して攻略誌などにコラムも書いている広島出身(元は電機屋)の下田一仁だ。この人も一時期はトラ技の常連だったと記憶している。最近は僕も連絡もとらずにご無沙汰を重ねているが、このブログのためにもまたお会いしようと考えている。ちなみに、パルスモーター(ステッピングモーター)のコントロール部分の技術を有していたのが佐藤である。当時アーケードゲームのフリッパーなどのステッピングモーターを手がけていた人物である(フリッピングモーターと呼ばれた)。

 このとき、パルサー開発はあくまで佐野であり、ここに声をかけて一緒に開発しようと引き込んだのがマックスの角野博光だった。佐野とともに開発を行ったのが当時、岡山で昭和42年から映画館とともにパチンコ店も営業していた日活興業(木村義輝)だ。木村と佐野は地元で懇意の仲だったから。最初は尚球社(現・岡崎産業)の「パルサー」の販売会社としてのスタートだったが、開発は佐野と木村が行い、製造とメーカー名義が尚球社だったということである。この日活は昭和60年に「パルサーXX」を出して名実ともにメーカーの仲間入りをする。爾来しばらくはパルサーといえば日活の代名詞になった。
 余談だが、木村の3弟が日活映画の俳優だったことは先に触れたが、次弟(2男)の木村和生はいまも山佐の販社である㈱東和(本社・岡山県玉野市と名古屋市)として活躍している。

 初期のパルサーも日活のパルサーXXもすべて、その中身は山佐である。なぜ佐野が表に出なかったのか。これは風俗営業であるパチスロ製造業として出て行くことを、地元財閥の御曹司である佐野が控えていたからである。岡山で佐野の実家は材木商を家計としてその財力を築いていた。材木商だからとうぜん山林も多く所有している。つまり「山」の「佐野」で、「山佐産業」という社名だった。当時は国鉄路線の枕木を多くがここで製造していたようだ。ところが、佐野が東大の大学院3年のときに先代が逝去する。後継者として岡山に戻る。山佐産業はこの頃、材木商とは別にモービルのガソリンスタンドも別会社で経営していた。佐野自身は別に(在学中からかどうかは不明)ゲームマシンのバーリーサービス(最初はバーリージャパン)の関係の仕事もやっていたようで、ここで角野との関係が築かれた。が、ゲームマシンの仕事が軌道にのらずに、ここからオリンピアマシンに食指を転換する。とすれば、当時のオリンピアマシンの欠点に目をつけたのは東大理工学部出身の佐野であれば当然だったといえるだろう。

 ここで佐野の革新意欲が、佐藤と猪飼に目を付けたということになる。実は実家(先代)がガソリンスタンドも展開していたことで、その関係から角野のバーリーサービスを紹介されている。バーリーの日本代理店フランチャイズに佐野がその好奇心と技術で食指を伸ばしたわけである。佐野の業界デビューのルーツだ。

 パチスロはあくまで佐藤と猪飼の協力を得て、佐野がみずから考案し開発したものである。それを先の事情で佐野が「山佐産業」ではなく地元で懇意だった日活の木村に名義貸しして、日活はその仕入れリスク回避で名義料+手数料(ロイヤリティ)を払っていたということになる。では、なぜ、最初の1号機パルサーが大阪の尚球社から出されたか。業界でそれだけのネームバリューを有し、工場も保有して製造には欠かせない部品生産インフラも持っていたからだ。昭和50年から遊技機製造販売にも移行していた。

 なぜ、パルサーがそのあと、山佐ブランドになったか。山佐が初めてこの業界にその社名をメーカーとして出したのが「ニューパルサー」(ニュービッグパルサー)。日電協加盟は他社先発メーカーに遅れること約6年後の昭和60年だ。ニューパルサーにより山佐と日活の縁が切れた。その内情はわからないが、日活はこのため「ビッグバン」という機種を出す。パルサーブランドははじめてその「パチスロ」開発者の佐野のもとに戻されたのである。

 当初から、山佐では佐藤を自社に引き込んでその佐藤がハードと制御ソフト、佐野がゲームの設計値を担当。もう一人、いまは液晶等の開発会社代表である(確認不明)坂本某がリール配列を担当していた。山佐というメーカーの基盤を築いてきたのは、ひいてはパチスロという新規の第2の遊技機の成長を築き上げてきたのがこの3人だといっても過言ではないかもしれない。このあと、さらなる技術革新で角野が果たした役割を別とすれば。

 

パチスロへの技術革新

 ドン氏の花月会人脈と自身のリース・金貸し業(富士興業)をバネにして東京に進出してからのことはいずれまた書き込むことにしたい。なにせ、花月会関連で書き込んでいたらだれもコメントしてくれなくなった。唯一最初にコメントをくれたKさん曰く「あんな内容の記事にだれもコメントして関わりたくないよ」らしい。

 ということで、花月会から離れて、パチスロ草創期に話柄を戻したい。これまで大阪の角野、古田、野口、濱野、関東の岡田、里見について、それにまつわる人物も含めて書き込んできた。沖縄の最初のスロットと彼らおよび地元の石原(オリンピア)のことについても書いたが、唯一、そこからすっぽり抜け落ちているグループがある。岡山の「山佐」と「日活」について、である。実はここが、パチスロ創生の大きな(角野とも関係して)原動力になっているのである。パチスロ0号機の最初の風営法認可検定第1号機は、尚球社の「パルサー」だ。もちろんタテ型オリンピアマシンの風営法認可1号機はマックスのジェミニだが、そのあと。なぜ「パルサー」が大阪のパチンコ玉製造メーカーであった尚球社(当時、武田勇吉社長)だったのか。そのあとなぜ、パルサーブランドが山佐になったのか。日活興業、日活製作所との関連は?について書いておかねばならない。

 まず、なぜ「日活興業」(現ネット)であって「日活工業」ではないのか。もともと日活という名前のとおり、日活興業社長の木村義輝は木村3兄弟の長男で、岡山では商工会、JCの会長もやっていて、3男は日活の俳優もやっており、地元で日活の映画館、ボウリング場などを経営していた。だから「興業」。
 米軍基地から排出されたスロットマシンを昭和39年に、最初に東京オリンピックにあわせて「オリンピアマシン」としてゲームセンターに出したのが、大栄商事の機械である(パチスロ時代にもこの大栄商事は販社として存在したが、そのルーツについては沖縄であろうことしかわからない)。そのあとが、ここでも書いた濱野が、沖縄用とゲーム機として出した「コンドル」だ(日電協20年の歩みより)。
 日電協が設立された昭和55年、最初のパチスロ(箱型)スロットマシンが認定された。これが尚球社の「パルサー」だ。東京神田の「みとや」が導入1号店。
 これまでのタテ型(オリンピアマシン)は、リールを止める「歯車のギア」構造といってもいいゼンマイ仕掛けだ。半回転、1回転ごとでギアを外す(あるいは止める)制御で、モーターによるギア停止とリール停止で、そこで7図柄が来ればギアを止めずにずらす半回転式というハード構造だった。もちろん、僕はこの技術的なことはよく分からないから間違っているかもしれないが、おおよその構造だ。ここにオーバーフローの「天井方式」というものが付加される。何枚入ったら出るということで、リセットして天井枚数を設定するというものだが、これはあくまで「抽選方式」とは違う。客の何人目で当たるかもわからないし、ホールも出せるときに出せる、あるいは回収できるというものではなかった。これを、ホールがもっと営業に活かせて商売できるものにする必要が求められた。天井枚数を「出せるときに出せる」ものに変える必要性があった。いわゆるステッピングモーター(パルスモーター)によるコントロール技術だった。いわばそれまでのオリンピアマシンを小型化して、パチンコ島同様の日本に合った遊技機にするにはメカ構造からパルスモーター制御による電子化への技術革新があった。その技術導入で誕生したのがパルサーだ。

 これを実現させたのが、山佐のハード、制御ソフトをやっていた佐藤正隆と、当時に雑誌「トラ技」(トランジスタ技術)にパチンコのカウントシステム、コンピュータ管理についての記事を書いていた鵜飼國夫(当時、東海大教授)である。佐藤もここに記事を書いていた。
 この2人に目を付けたのが山佐の佐野慎一だった。これを一緒にパチスロに導入したのが角野だが、このとき最初にパルスモーター技術に目を付けたのが佐野だったわけである。技術的なことについては僕も素人なので、あらためて取材して、このあとの記事を書き込むことにしたい。

過去との連結?電遊協とJ‐NETに登場した大物

 アクセスしていただく方も毎日のように多いのに、かなり書き込んでいなかった。まことに申し訳ない限りであるが、たまたまパチスロ業界の旧い業者(角野閥)とも知合い、その方が、僕が昔に自分の会員サイトに書き込んでいた(自分ではもう忘れていた)角野が亡くなったあとの「白い墓標」というタイトル記事を記憶にとどめておいて賛美してくれていて、一気に仲良くなった。角野、山脇など初期のパチスロ草創期の話がまた詳細に聞けると思う。いやはや、人間関係はどこで新たに生れるかわかわからない。それも自分が過去に書いた(忘れていた)記事がその接着剤になってるなどは有難いことである。
 今週もこのブログ愛読者で知り合いのK氏から、この「回胴式業界裏面史」を完成させて本にしようと言われ、パチスロメーカーの旧い人たちと「回胴史研究会」(飲み会です^^)第1回目を東京湯島で開催することになった。
 本業のほうもかなり忙しいのだが、こういう裏面史のほうが僕には業界でモノを書くことでは一種の媚薬だ。裏を知ってるか知らないかで、表の記事の書きようもまた微妙に違ってくるのです。

 さて、今回、久しぶりにようやく書いてみようかと思ったのは、会員サイトに書き込んだものが、意外にこちらのブログ内容に合っているのではないかと思ったから。会員さんには申し訳ないが、こちらにも文節を変えて書き込むことにした次第。

 日電協とは別に、パチスロメーカーの第2団体で「電遊協」(電子遊技機工業協同組合)というのがある。ここはエマ(旧パル工業・海老原)が主体で、その仲間の日電協非加盟メーカーを呼びこんで平成13年に設立された。業界の公式組合としての認知度も上がってきており、証紙や封印シールの発給貼付もきちんとやっている。

 この電遊協は4月の総会で、最高顧問に退いていた前理事長の小林朴(警察庁元刑事局長)が理事長に返り咲いた。ところが6月30日に臨時総会を開いて小林は「一身上の都合」を理由に退任し、再度最高顧問に退いた。新理事長に招へいされて就任したのは、なんと警察大物キャリアOB(小林もそうなのだが)の黒澤正和だ。元警察庁生活安全局長・暴力団対策部長。この大物が電遊協理事長に赴任したことを、警察に詳しい業界関係者たちは「あり得ない、ウソだろ」とか「なんで?」とか驚愕しているのだ。

 しかも、この黒澤は、6月に電遊協理事長に就任したそのすぐあと、7月1日にはJ‐NET(ジャパンネットワークシステム㈱)の最高顧問にも就任している。  元々、プリペイドカード導入時期にカード(三菱、住友)をインのクリア、J‐NET(三井)をアウト(換金)のクリア、エル・イー・テック(当時は東芝)をオンのクリアで業界の大手企業による支配構造をつくりあげようとしたことは周知のこと。いまのJ‐NETはその構想から挫折して貯玉・再プレイシステム会社として機能しているのだが、先の「国策」とも言われた大手企業による3つの業界支配アイテムには、実はコスモの熊取谷稔が深く係わっていたことは有名。J‐NETの前社長で現顧問の峰島はもとはコスモの役員で熊取谷の側近の一人である。この会社に、大物キャリアOBである黒澤が最高顧問で入ったのである。

 で、その黒澤の名前が大きくクローズアップされたのが今年の3月。横浜の㈱スルガコーポレーション(東証2部上場)の不詳事件である。スルガが取得した都心ビルで立ち退き交渉を山口組との関係がある大阪の不動産会社に依頼し、スルガからその会社が不当に約40億円もの報酬を受け取っていた事件。そのうちの10億円ほどが山口組に流れていたといわれている。警視庁組織犯罪4課がこれを非弁活動容疑で逮捕した。スルガはこれ以外でも、都心で買収した複数のビルの立ち退き交渉をこの大阪の社長らに依頼していたとみられており、いまもその真相については捜索中である。

 このスルガの専務取締役執行役員・管理本部長兼CCO(チーフコンプライアンスオフィサー)が黒澤だ。企業の危機管理対策会社で警察OB社員を抱える㈱日本シークレット・サービスにも在籍していたとかいるとかの話も聞こえるが確認できていない。あくまでも黒澤≒日本シークレット・サービスの曖昧な話だから、これは真実であるかどうかはお茶を濁しておく。
 
 ここで前回の「花月会の群像(4)」で照会した寺尾文孝の㈱日本リスクコントロールが、なぜか連動して浮かび上がってくるのである。日本シークレット・サ社と同様の会社の代表取締役で、彼が創立当初から電遊協の影の実力者であったことは否定できない。日本リスク社は平成11年に設立されており、その2年後に電遊協が設立され、前理事長の小林は前回に書いたとおり、電遊協の中軸メーカーであるエマの前身である「パル工業」顧問、日本リスク社の最高顧問だったのだ。

 黒澤のスルガコーポレーション事件と、過去に許永中のイトマン事件で仕手集団(コスモポリタン)と渡り合った寺尾との構図をふと、なぜか似ているなぁと感じてしまうのは僕だけだろうか。しかも、寺尾は当時に不動産会社も経営していたことが、スルガ事件との関連性を想起してしまうのである。


 ついでに、黒澤という大物キャリアOBが、電遊協理事長就任と同時にJ‐NET最高顧問に就いたことを見逃してはいけない。J‐NETは熊取谷稔がその構想のなかで、警察OB政治家(後藤田系)や平澤勝栄などの当時の警察庁官僚等に働きかけてつくりあげた会社であり、いまもその存在は決して薄れてはいない。電遊協加盟メーカーのなかに「遊人」という会社(元パル工業の人間が役員でいる)があるが、ここは理科・算数・国語などの学習パチスロで一時期話題を集めたものの、その経営内容はかなり悪い(パチスロよりパチンコを作りたいのがホンネ)。ここを提携という名のもとに支援の手を差し伸べているらしいと小耳に挟んだのが熊のコスモらしい。マルホン、ジェイビー、景品のコモンウェルズ、さらにはジョイコやS社、エル・イー・テックなどの動きには熊との関連も含めて目が離せないかも。 これ以上書くとまたもや僕の危険があぶなくなりそうですね。

「花月会」の群像(4)

 前回ふれた日本リスクコントロール社について。平成11年に寺尾と元中国管区警察局長(退官後、全防連専務理事も務めた)保良光彦の2人で設立された。寺尾は元警視総監で法務大臣だった秦野章の秘書も務めたがその傍ら、自分で不動産会社を営んでいたことがある(倒産させた)。いわば企業を闇社会から守るためのプロ集団で、警察OB、国税庁OB、則定などの検察OBによる利権会社の性格が強いものだった。すなわち企業の危機管理コンサルティング会社だ。則定がここに顧問で迎えられたのはスキャンダルのあと辞任してすぐである。

 これも「噂の真相」ですっぱ抜かれているが、寺尾を一躍有名にしたのはイトマン事件発覚のきっかけとなった「雅叙園観光」の内紛だ。雅叙園系列会社の副社長に送り込まれた寺尾は「雅叙園株の買占めを進めていた仕手集団と渡り合い、当時のマスコミにヒーローとして持ち上げられた」(噂の真相)。この仕手集団が元暴力団組長・池田のコスモポリタンであることは言を待たない。コスモポリタンと許永中の関係についてはすでに書いた。

 さて、日本リスク社の最高顧問として則定が名を連ねていることは前回に触れた。当時の名誉顧問にはミスター危機管理で有名な初代内閣安全保障局長の佐々淳行がいた(噂の真相報道前後に辞めている)。このとき、スキャンダルで辞任後、日本リスク社顧問職とべつに則定衛は、千代田区平河町に則定法律事務所を開設して活動を始めている。平河町1丁目9番9号のビル。ここに「㈱ジェイ・エス・エス」という会社もあった。警備、海外における企業活動に関する安全対策調査・コンサルティング、リスク管理が主の会社で、JALの出資で設立された会社だが、業界にもおなじみである。すなわち過去におけるアルゼとの関係が深い企業だ。とうぜん亀井静香がこの会社設立と運営で深く関わっていた。

 この同じビルに㈱ジャパン・セキュリティ・サポートという会社もあった。当時、僕の知り合いのマスコミライターがこれを調べていて、そのビルの不動産謄本なども送ってもらったのだが、業務目的と内容はジェイ社と全く同じ。取締役の鶴谷敏明、前田寛、永田岱右なども同じで、ジャパン・セキュリティ社の監査役には、亀井静香夫人が登記され株も所有していたのである。ジャパン・セキュリティ・サービスすなわちイニシャルをとって、これが後のジェイ・エス・エスに登記変更される。

 で、このビル不動産所有者は㈱サンパワー。アルゼの当時の子会社だ。取締役にここでも以前に書いた(中日スタヂアム事件)江口の兄弟であるアルゼの江口敏男と、岡田の愛人の一人とも言われた速水靖子の名前がある。同じ役員の一人である宮島猛も長野時代からの岡田の関係者だ。つまり、この頃まではまだ、岡田は亀井静香の権威と警察への圧力をフル活用していたといえるだろう。とうぜん、先の日本リスク社との関係も亀井ルートで結びついていたと思われる。
 このジャパン・セキュリティ・サポート(設立は平成6年)は平成11年5月20日に登記記録が移記されている。ジェイ・エス・エスへの移記登録だ。登記履歴における「目的」の業務内容がまったく日本リスク社とも類似しているのは、たんなる偶然とは思えない。平成12年に日本道路公団の交通管理業務、関西空港警備受注で、このジェイ社とジャパン・セキュリティ社、亀井の関与が大きく新聞報道されたことがある。しかしながら、ジェイ社-亀井-ジャパン・セ社-岡田、さらに→則定-日本リスク・コントロール社の関係はうやむやのままである。

 花月会、さらに則定の関連でもつれた糸を振りほどいていっていたら、こういう過去の利権の巣窟と当時の事件がいくらでも出てきて、整理できずに混乱する方が多い。だが、そのときは「そういうものか」と気にもとめなかった事柄がすべて連関して結びついてくるのが面白い。僕らの仕事の、ある意味ではゲーム感覚に近い“醍醐味”ともいえる。業界の中だけでこんな書き込みをしていても、この面白さは体感できないだろう。こういう感覚は、業界という規矩に縛られて仕事していると「これから先は俺たちの分野ではない」と切り捨てていたのだろう。裏の裏までは取材していなかったのである。でも実はその裏側のほうが業界のリアリズム、脈絡のアリバイの部分だったのかもしれないと、あらためて痛感せざるをえない。

 さて、ここで泉井石油商会関連の「日本肥料」と熊取谷、花月会の関係についての宿題が残ったままになっているので、書いておかなければならない。これをもって、一応は「花月会の群像」については終了とさせていただくことになるか。(ナミレイ事件は別にまた書き込むが、一部関連してくる)

 泉井事件は旧通産省官僚グループへの贈収賄だが、その中で関西空港の服部経治元社長への贈賄・脱税容疑で逮捕されたもので、これが通産官僚とその政治家への献金としてクローズアップされた。則定以前の花月会関連事件といっていい。関空の清掃業務受注にからむ金品贈賄もその事件の中核で、日本肥料取引先の岸和田リバー産業グループがこれにからむ。

 則定事件で登場したのがコスモイーシーの佐藤章と、もうひとりこの泉井石油商会(大阪府和泉市)の経営者一族のMという人物だ。花月会の主要メンバー。ちなみに日本肥料は住友系肥料・農材特約店老舗。つまり花月会がその住友銀行などの住友グループ企業がバックアップして出来たロビインググループだった。日本肥料がその花月会に参加してきた時期も早い。このMが、花月会に参加していた則定のために新たに東京に「若富士会」という、花月会東京支部ともいうべき集まりを作る。ちなみに、パチンコプリペイドカード導入のさいに、熊取谷はコスモイーシーから5000万円を亀井に政治献金している。この金を亀井に手渡したのが佐藤章だ。

 関空清掃事業では、泉井の下請け業者(6社)のまとめ役として大幸工業(産廃業者)を送り込んだが、清掃費15億円のうちの1億円をこの大幸工業が丸投げで不正取得していた。この大幸工業に勤務していたかのように装い、保険料を不正取得していたとして大幸の社長が逮捕される。勤務していたことを装っていたのが山口組直系暴力団の小車誠会・会長だ。
 下請け6社のなかにマイカル(旧ニチイ)が親会社の「ジャパンメンテナンス」という会社があった。ここの社長が元関空会社専務で元大阪府警本部長の四方修だ。これは当時かなり有名になったので、記憶に残っている。おそらく四方と大幸工業社長との出来レースだった。

 この四方が社長のジャパンメンテナンス社には、右翼の大元といわれた頭山満の大番頭であるNが顧問で在籍していた。Nはその前がナミレイの顧問。これが右翼ともエセ右翼とも言われる所以だが、ナミレイの松浦良右(りょうすけ・現在は改名して朝堂院大覚)とNとは、福岡のフクニチ新聞時代からの関係。Nは「元警察庁長官」という記述もあるが、これはどうかわからない。なにせ佐藤章をダイナムも経営していたという(取引関係はあったが)強引な誤謬を犯している資料にそう記述してあるのだから眉唾かもしれないのだ。ただ、Nと松浦が親しく、ナミレイ顧問→ジャパンメンテナンス顧問を経たということは僕も当該関係者から過去に聞いている。頭山満の番頭だったことも間違いはない。

 

 

 

「花月会」の群像(3)

 群像(1)で書いた花月会関係者で、伊藤作之進のあと「花月会で幅を利かせていたのが中野会幹部で山口組3代目田岡組長のときの若頭であるYだ」と書いた。しかも憶測でこのYを「山脇」に付会して断定したような記述になってしまったが、山脇の履歴についてはここで以前に書いているとおりだ。田岡一雄のときの若頭は山健組の山本健一であり、山本とドン氏は親しかったが、賭博ゲーム機やパチスロメーカーに直接関わったという立証はない。ましてや中野会は当時、その山健組の2次団体で、中野会には確かに山下重夫という若頭がいた。Yであるが、これも確証はない。なお、ハンナンの浅田満の実弟(三男)が山健組の組員だったという話を聞いたことがある。少なくとも昭和40年代から50年代初期にかけて、関西を舞台に賭博ゲーム機やジュークボックスなどのゲームマシンが風俗営業店や飲食店との関係から、山口組関連の収益構造に組み込まれていたかもしれないことは容易に想像がつく。そこでゲーム機リース販売業に入った人間も彼らとのあるていどの結びつきを深めることになったというのが、歴史の真実なのではないか。

 なお、このYという人物は、ある有名な事件の実行犯と言われているのだが、それが山口組のからんだ刑事事件なのか、経済事件なのかは闇の中だ。過去の取材のときにもっと詳しく聞いておくべきだった。あのときはとにかくもパチスロ関係者の相関図に固執していてスルーしたことが悔やまれる。ただし、この事件のときも、Yに対する捜査で花月会(検察・警察)の圧力がかかっている。

 花月会は、大相撲大阪場所(春場所)千秋楽の翌日の月曜日、料亭の花月で検察主流派、キャリア組と国税庁キャリア、住友銀行幹部の会合として開かれた。翌火曜日には大阪府警などの警察幹部とキャリアOBの定例会が開かれていた。住友グループ系のゴルフ場での親睦コンペも開かれていたようだ。先の則定衛(のりさだ・まもる)も検察主流派としてこの花月会メンバーの一人だったことは「噂の真相」でも報道されている。伊藤作之進の娘が先代九重親方、すなわち千代の山のタニマチ。この娘が伊藤の長女だとすれば、ドン氏の伴侶になるわけだ。ちなみにドン氏のイニシャルはA。

 花月会による事件への圧力は許永中のイトマン事件でも働いた。イトマン事件ではその伊藤萬のメインバンクが住友銀行で、その再生に住友グループが大きく関わっていたことは前回に書いた。ところがイトマン事件の捜査の手が住友や竹下登にまで伸びたとたんに、花月会の検察官僚による捜査中止の圧力がかかっているのである。裏で動いたのが熊取谷稔だという説もある。つまり当時の熊取谷は政官財界のフィクサーとも言われて財閥企業とも関係が深かった。住友に捜査の手が伸びる前に、花月会検察キャリアを使ってもみ潰すのはわけのないことだっただろう。おそらくここで、花月会との関係も深くなったのではないか。全国共通パチンコプリペイドカードを仕掛けたとき、熊取谷がその第三者決済カード会社に三菱、住友を巧妙に巻き込んだことを例にあげるまでもない。なお、それ以前、熊取谷はコスモワールドという母体経営企業のグループ会社として、自動雀卓とパチンコの台間サンドメーカーで不振に陥った「アイラブユー」という会社を買収して、「コスモイーシー」を立ち上げている。

 (酒を飲みながら書き込まないとやってられない)

 ここで資料を再度調べなおしていたら、忘却していたとんでもないものに邂逅した。則定は平成11年にスキャンダルがもとで検察庁を辞めているが、このあと東京の京橋にあった日本リスクコントロール㈱の顧問になっているのである(前々回書いた則定法律事務所も運営)。この会社の代表取締役社長が寺尾文孝。パチスロの電遊協(電子遊技機工業協同組合・同じ京橋のビル)専務理事で警視庁OB。理事長の小林朴も日本リスク社の元顧問でエマの前身であるパル工業にも顧問でいたという話もある。元警察庁刑事局長。もちろん、電遊協はエマが主体で立ち上げたパチスロの第二団体である。

 則定事件の根は深い。日本の腐敗の温床なのかもしれない。このあと書くつもりのミニ・ロッキード事件と呼ばれ、ライブドア事件との相似がいわれている過去のナミレイ事件なども同様だ。ここにオウム、統一教会などの話までからむと、僕の限界をはるかに超えてしまうし、本来の自分の領域を見失って蟻地獄だ。迷路にはまりこまないようにしたい。

 当時の都知事選に関して平成11年に、則定スキャンダルにからめた「週間ポスト」の記事がある。自民党の白川勝彦(当時)、栗本慎一郎、舛添要一、熊取谷とその部下らが関わった1000万円ヤミ献金事件記事だ。ポスト誌はここで、法務省中枢筋の話として、このとき則定をはじめとする本省派が統一地方選挙後の捜査開始を睨んで、極秘の内偵を始めようとしており、そうなれば「熊取谷氏の政官界人脈が明らかになる。熊取谷氏と親しい与党大物政治家の関与も視野に入れていた。が、則定氏が失脚すれば、捜査は先送りされるか、中止になる。仕組まれた」というのだ。
 これが真実なら、則定スキャンダルは熊取谷らによる則定失脚のための落し穴だったことになるではないか。ちなみにポストの「与党大物政治家」というのは亀井静香か。

 その後、業界で余暇進(余暇環境整備推進協会)という団体が設立されるが、これを仕掛けたのが熊取谷とその関係業界人たちだ。この団体に白川勝彦が設立当初に顧問で入っている。現在の余暇進の会長は業界代表ではなく、警察キャリアの大物OBである宮脇磊介である。

 則定女性スキャンダルについて、平成11年4月の参議院法務委員会で当時の中村敦夫議員が国会質問している。以下、長くなったので、その質問内容の一部を紹介して今回は終わりたい。

 「今回の問題は女性スキャンダルというプライベートな問題を発端に出てきてこれだけ大きくなった原因というのは、その背景にある政官財癒着という構造が見えてきたからであると私は考えております」、「検察幹部と民間業者の親睦団体である花月会というものがあります。これは実質的には住友銀行グループと取引業者、こういう人たちがスポンサーになっているわけです。このグループは構造的にいうともう大蔵省官僚の接待グループとダブっているというところに今回の問題の本質があるんではないか」、「則定さんを中心にバックアップをしたいというファンといいますか取り巻きといいますかそういう人々の中で、花月会にも出入りしていた通産省官僚のスポンサーと言われていた石油卸商の泉井純一さん、この人とも交流があったと言われています」。
 この泉井の関係で登場しているのが「日本肥料」。関西空港にからむ増収賄事件にもからんでくる。
 
 

 

 

 

 

「花月会」の群像(2)

 現在もまだ業界で営業されている会社の過去の古傷に塩を塗りこむようなことはしたくないので、前回書いた中の一部社名と代表者名は伏字に訂正しました。なるべく裏面史をリアルに検証するのが本旨だが、それによって当該企業のイメージや営業を妨害、阻害したり、個人の名誉毀損だけは避けなければならない。しかも戦後から高度成長期にかけての時代背景、社会性という特殊事情を、現代と同次元で比肩されてもらっても困る。ここが過去の歴史を書くときに自分でもその過去にはまり込んで、今現在の事情を無視して泥酔してしまう恐さだろう。よって、これまでなるべく実名表記で書いてきたが、いくらか伏字にすることもあると承知いただきたい。

 暴力団、部落、検察、警察、政治家、右翼・・・・これらのリンクは戦後から高度成長期にかけてその地盤があるていど確立されていたといってよい。前回は則定スキャンダル事件について「花月会」と関連してその相関図を検証してみたが、ここで平成3年のイトマン事件、平成8年に表に出た泉井事件という2つの経済事件について、花月会との関連性も含めて書いてみることにしたい。複雑なので、未整理であることはご寛恕いただかねばならないと思う。

 ここで整理しておきたいことが新たに出てきたので、続きは次回。簡単に触れておくだけにする(とはいえ長くなる)。
 
 先ず泉井事件。泉井石油商会の泉井純一が三井鉱山と三菱石油などの石油取引で平成4、5年におよそ64億円の仲介手数料を受け取り、この大金がベトナム油田開発利権もからんで政治家と官僚接待に使われた。山崎拓が泉井から2億円以上の政治献金を受け取っていたが、山崎だけでなく数え切れない政治家と官僚に汚染が広がっていた。これは当時の通産省関係が主だが、大山鳴動して鼠一匹出ず。当時の通産大臣だった森喜朗が泉井と会っていた疑惑もうやむやになっている。
 ある論評によれば「日本の検察の能力は、政治家や高級官僚を調査する段階にはいると、著しくレベルが低くなる」という。当時の大蔵相・三塚博が泉井事件で大蔵省主計局の涌井洋治官房長に口頭で厳重注意したのだが、この三塚は地元宮城で山口組系暴力団との関係が噂され、県警が捜査に踏み込んだあと、なぜか県警の刑事部長ら担当官が異動になり捜査から外されている。
 とまれ、この泉井もまた、花月会とは深い関係にあってそのメンバーだったのだ。つまり花月会の検察人脈等の圧力が加えられたと思われる。さらにこの事件で40億円を闇にばらまいた三菱石油の当時の山田菊男社長や石油公団の和田総裁など通産大臣の一族の対応が、この事件のもみ消しに動いたことが取り沙汰されている。

 次にイトマン事件。許永中事件といった方がわかりやすいか。泉井事件では三菱グループが絡んでいるが、こちらは住友グループが関係してくる。住友は花月会の主要メンバーであることを記憶にとどめておいてほしい。この三菱、、住友、イトマン(伊藤萬)はなぜか、パチンコプリペイドカードの国策による導入1次、2次、3次の出資母体だ。イトマン事件で3000億円の資金流出(6000億円ともいわれる。闇社会に流れたといわれ、それらがどこに消えたのか解明されていない)で大阪地検にイトマンの河村社長、伊藤寿光常務と不動産管理会社代表の許永中ら6人が、特別背任容疑で逮捕されたのは平成3年だ。プリペイドカード導入後すぐである。
 伊藤萬は大阪の繊維商社だった。昭和48年のオイルショックで経営が悪化したことで、メインバンクの住友銀行役員だった河村を社長に迎えた。伊藤寿光は元は協和総合開発研究所の役員で、大手仕手集団のリーダーだったコスモポリタン社の池田保次代表に対し、雅叙園観光の仕手戦に融資していた200億円が焦げ付き、その資金繰りで住友銀行の当時の会長やその腹心だった河村に急接近する。これが伊藤萬に筆頭常務として参加する契機で、伊藤萬を通じて住友銀行から融資を受けるようになる。
 この雅叙園観光の債権者の一人だったのが許永中。伊藤を通じて伊藤萬との関係も深めていった。

 先のコスモポリタンの池田代表は、元山口組系暴力団の組長。地上げ屋に転身した
あと仕手筋として成功を収めたが、その後、仕手戦に失敗して100億円もの借金を抱え、スポンサーの暴力団に追われて失踪している。この池田と親密だったといわれていたのが亀井静香だ。平成元年に読売新聞がその疑惑を報道したが、うやむやになったまま。
 さて、許永中(ホ・ヨンジュン)についてはすでにご存知のことだろう。若いときは朝鮮総連の活動家で在日朝鮮人である。亀井静香とも「盟友関係」にあったと言われる。若い頃から山口組系暴力団と深く関わり企業舎弟。一方で豊富な資金力で政治家との交際も広げていき、一時は関西政財界の闇のフィクサーとも言われた。以下、ウィキペディアからそのプロフィールを紹介しておこう。

 「大阪市中津の朝鮮人居住区に生まれる(以前に書いた新大阪-西中島と同地区である)。大阪工業大学に入学して柔道部で活躍(180センチ、体重100キロの巨漢)するが、麻雀とパチンコに熱中し3年で中退。その後、部落解放同盟幹部と親密になり大阪府の同和対策事業に挺身する。ベンジャミン・フルフォードの「ヤクザ・リセッション」によれば、彼は在日朝鮮人であったが生まれ育った中津が被差別部落で強大な解同権力を握っていたので、解同幹部らと懇意になることで裏社会での出世を実現したという。戦後最大のフィクサーの一人といわれた大谷貴義のボディガード・運転手として仕えて、ここでフィクサー業の修行をした。昭和59年に休眠会社の大淀建設を買収して社長に就任した。多くの政治家や暴力団、大企業と関係をもっていたとされており、野中広務とは兄弟と呼び合うほど親密な関係だった。大山倍達や松井章圭と深い関係にあり、極真会館の大会のスポンサーになったこともある。」

 大阪北区で表には出ていないが、資金を出してパチンコ店を実質経営していたこともある(店名はF)。九州の某大手ホール代表との関係も有名な話だが、本題からそれるので割愛する。
 花月会の話からは遠ざかってしまったが、それについては次回。日本肥料という会社があり、ここが前回の則定事件と泉井事件との関連、さらに花月会との関係が深かったことについて。さらに遡ることになるが、大阪で有名なナミレイ事件との関係についても触れたい。これもその後、新しいところでは朝鮮総連本部の満井事件とも関連してくることになる。


 

 

 

タブーに挑戦!「花月会」の群像(1)

 前回触れたドン氏は、賭博ゲーム機の販売リース業を大阪でやっていた。東京パブコと肩を並べて当時のリース販売ではトップだ。その前はインベーダーゲームの頃にタイトーの営業マンをやっている。東京パブコの古田は最初の大阪パブコでゲーム機に手を出す前は、神戸の生田神社で賭場が開かれていてそこの常連か、あるいは胴元に近い存在だったと思われる。昭和30年代初めの頃か。この賭場に○○遊機の○井、古田の子分になる旧ジャパックス社長でメダル自動補給工組の元理事長も務めた高田和彦が出入りしていて、そこで古田との関係ができた。2人とも当時は山口組系暴力団の若頭クラスだ。蛇足だが、昭和30年代というのはまだ、戦後の混乱の残滓が色濃く残っていて、警察の取締りも緩く賭場を開いてもまだあるていど黙認されていた面があったようだ。ヤクザがまだ地域の治安維持のアドバンテージを心情的、現実的にも保持できていた時代で、警察がそれに対して違法取締り権限を強く行使するにはひけ目があったのだと思う。(もちろん、地域性もあっただろうが)

 ところで微妙にこれら賭博ゲーム機時代のパチスロ関係者と、プリペイドカード導入の仕掛け人であるフィクサー熊取谷稔との関係が、いまもなお強いのである。そしてここに、あのドン氏が架け橋的存在として揺るぎなく居座っている。

 ドン氏は大阪で賭博ゲーム機のリース販売会社「昭和娯楽」を運営していた。しかし、その賭博機が香川県警に摘発され逃げ回っていた時期がある。それもあったのか、その昭和娯楽を閉めて新たに「富士興業」という同じリース販売会社を、当時大阪の国道26号線(旧線)沿いにあった阪南畜産ビルのなかに設立して商売を継続させた。つまり、ハンナンの浅田満と関係が深かったということだ。

 ここで話は転換してしまう。かなり旧い話になるが、次期検事総長候補の最右翼といわれていた則定衛のスキャンダル(事件)である。事実上の検事総長と言われた法務省No.2の女性スキャンダルだ。検察のドン。最後の検察主流派と呼ばれていたが、この則定が「花月会」を通じて住友グループと癒着関係にあり、銀座の高級クラブのホステスを妊娠させ堕胎させた挙句、公務にもその愛人を同伴するなどしていたが、堕胎させて最初は彼女に30万円、その後50万円の慰謝料を支払った。実は、この慰謝料を彼女に支払ったのが、熊取谷稔の懐刃と言われた側近のコスモイーシー・佐藤章だ。最初の30万円、あとの50万円は佐藤が自腹(なのか、熊取谷ルートか)で払っている。週刊誌でこのスキャンダルが暴かれる前に、「噂の真相」ですでに露見されていた。佐藤自身から、そのあと僕はその真相を聞いているので、すべて報道されたものが真実ではなく、女性側にも問題があったことは理解しているつもりだが、佐藤も則定もこのスキャンダル事件のあと、表から消えている。のだが、なぜか、しばらくして、アルゼの子会社がある平河町のビルに、アルゼ子会社の上階フロアに則定法律事務所が開設されて活動していたのだ。この関係については後述するが、ヒントは亀井静香である。

 で、則定が住友グループと癒着関係にあったというその「花月会」である。実は、この花月会の群像について集中して書けば、かなり面白い読み物になるはずだが、僕にはいまのところその余裕がない。

 この花月会というのは、角界出身の伊藤作之進という人物が大阪に出てきて、最初は道頓堀に相撲茶屋を開店したのが最初。そのあと宗右衛門町に料亭「花月」(現花月ビル)を出す。ここに、角界関係者だけでなく検察や住友関係者がいつからか集まりだす。ここに関係していたのがフィールズの山本の母親で、そのあと山本もまた花月会人脈を基盤に成長していった時期がある。サミーの里見やCSKの大川などだが、その端緒があのドン氏だったと言えるだろう。山本が今も現九重親方(千代の富士)と親しくその後援会長であることがそれを物語っている。この花月の創業者である伊藤の2女か3女が先代九重親方すなわち千代の山の伴侶だ。伊藤の長女がドン氏の伴侶だが、この長女(伊藤の妾腹の娘という話もある)と結婚するために、それまでの正妻と離婚したということも聞いた。また、ドン氏の父親が検察関係に顔が効いた人物だったという話もあるが、これは確認していない。
 この創業者の伊藤が亡くなったあと、花月会に出入りするようになり幅をきかしていたのが、山口組・田岡一雄の若頭で後の中野会幹部のYだ。イニシャルにしたのは過去に聞いた実名が想い出せないからで寛恕いただきたい。

 正確な調査も取材もしていないので聞いた話で書き込むことになるが、このYは当時ゲームマシン販売もしていて、そのあとパチスロメーカーもやっていた。これも聞いた話だが、このYとドン氏が中心になって表には出ていないが、裏でパチスロの風営法認可機種獲得に動いたそうである。表は角野と山脇だが、裏で検察や警察OBを使って動いたというのである。このYがエボンの山脇であるかどうかは、今は再取材しない限りは知る由もない。
 ただ立証できる素材はある。過去に賭博ゲーム機の販売会社を角野博光と浅田満(なのかその実弟なのか不明)と、中野会会長+山脇がやっていて、ここからパチスロメーカーにスライドしている。
 ここで推測になる。ドン氏は中野会会長と親しい。つまりドン氏―山脇―中野会―角野という相関図が成り立つのではないかと思えるのである。ここで、パチスロ草創期、古田や濱野、野口などが絡み、「花月会」という検察、住友財閥、警察のロビーをフル活用してパチスロの風営法認可機種が確立されたのではないか。花月の主幹事は当時、住友銀行だった。やがて警察、国税、大蔵官僚やOBなども花月に出入りするようになる。この住友商事が、プリペイドカード導入で、三菱のレジャーカードのあとにゲームカードとして設立されたことは記憶に新しい。

 このカードとの業界人脈の流れは則定事件を例にあげるまでもなく、政界・財界のフィクサーといわれた熊取谷とも急接近していくことになるわけだ。僕が最初に花月会の話をくわしく聞いたのは、先の佐藤章だったのである。
 

 

戦後混乱期のルーツ

 この業界にはタブーが多かった。過去は「換金」について書くこともタブーだったし、在日朝鮮、韓国や中国の方たちの履歴に触れることもタブーだった。そのタブーの部分をいまだに濃く抱えているのがパチスロとゲーム業界でもある。ルーツをたどっていくと、とんでもないタブーの領域に足を踏み込んでしまう。ところがそのタブーの裏面を照射しないかぎり、パチスロ業界とゲーム業界との関係も、その相関図も実に曖昧模糊としたあやふやな歴史として雲散霧消してしまうだけなのだ。
 誰しも過去の創業時点の傷や人間関係、その時代ゆえの暴走には触れてほしくはないはずだ。ある意味では、昭和30年代後半から40年代前半にかけては、日本の国自体が高度成長の波の中で必ずしも健全なビジネスの成長を遂げていたわけではない。まだまだ戦後の混乱の残滓を色濃く引きずりながら、不法な展開も同時に実践されていたし、それがなければ日本経済の高度成長もあり得なかった面は少なくない。警察も取締りに関しては暗黙の了解という面が強く、それがこの業界においても行政のダブルスタンダードというかたちで長く続いたことは言うまでもない。警察担当官がホールに立ち寄れば、ホール側がタバコ1、2カートンを「おみやげ」で渡すことなどまだ可愛いほうで、高級クラブやキャバレーなどへの接待、現金や物品による手心加えるための贈収賄などは普通に行われていたとも言える。同時に地元ヤクザへの「みかじめ料」や花代、開店のときの用心棒代は僕の記憶では地域によっては昭和50年代後半にもいくつか残っていた。

 某地区のホール。あるとき山口組系の暴力団員が店に来てパチンコを打っていて、従業員が誤って缶コーヒーに触れて彼の衣服にこぼしてしまった。あとの成行きは書かずともお分かりだろう。そのホールの幹部は地元の別の暴力団に相談。「きちんと汚した服をクリーニングして返して、そこに祝儀袋をカラで渡せばいいよ」。そうしたら、相手は袋の中身を確かめて1銭も入っていないと分かっても、それで落着したそうだ。仁義を通してくれたら(きちんとスジを通せば)それで納得したというわけである。この時代のスジを通すということが、逆に今の時代には欠けてしまっている。今、そんなことをしようものなら、チンピラだと店で暴れ回るかもしれない。いわばまだ、一部の暴力団には「任侠」気質が残っていた時代である。カタギの衆と俺達の住む世界は別であり、カタギの衆には迷惑をかけてはいけないという仁義が通っていた。これが壊れだしたのは山口組の一和会抗争あたりからか。任侠道を最後まで貫き通したのが京都の会津小鉄会だが、山口組に侵食されて勢力も先細りしていった。4代目高山登久太郎会長までが任侠道の最後になるのか。ちなみに、京都のこれも某ホール経営者はその4代目と親しく、このため韓国人だが日本名でその「高山」姓をもらったという話を聞いたことがある。つまり地元ヤクザが地元の風俗営業を守っていた時代のことであり、登久太郎氏(故人)も自分のブログで、戦後に俺達が日本の治安を守っていたのに、暴対法でそれを切り捨てて裏切ったと書いていた。

 今回は流れで業界の話からはそれてしまう(実は全然それていなくてルーツの話なのだが)。

 ネット検索で「賭博」「宮武外骨」をリレーしていたら、とんでもないところに行き着いた。「三国人の不法行為」というサイトだ。過去に石原東京都知事の三国人発言でマスコミから「差別語だ」と叩かれたことがあるが、実はこれは差別語ではなくそのルーツを知れば、まったく逆であることがわかる。このネットの全文をコピーして示したら知り合いの業界人が驚愕していた。べつにここで在日朝鮮人について非難する気は毛頭無いが、戦後の闇市をつくったのも多くが彼らであり、敗戦により朝鮮人との間に戦時中に共有していた運命共同体思想が消滅したのである。つまり敗戦国の日本に彼らは加担せず、「戦勝国民の仲間入りをしようとした」。このため彼らは「日本の法律(敗戦国の法律)は自分たちには適用されないとして、アメリカ占領軍(GHQ)の指令や日本の警察にも反撥した」(中公新書「韓国のイメージ」)。法的根拠のない「治外法権」意識である。三国人とは朝鮮人、中国人、台湾省民のことを指す。戦後、空襲や疎開で空地になっている土地を不法占拠したり、闇市をそこに拡大して権利を奪取したという記述もある。同書には「朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あのとき奪った罹災者の土地だ」とまで書いている。むしろ僕が聞いた話ではいまの都心部や地方の主要都市部を最初に中国、台湾人が押さえ、そこから外れた朝鮮人が都市近郊や郊外に土地を確保していかざるを得なかったという例も少なくない。

 面白い記述がある。強制連行された人も含めて朝鮮人、中国人は戦後日本に200万人以上いた。とくに兵庫に多く、彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、「袖に腕章(戦勝国民)をつけ、肩で風切って街をのし歩いた。おれたちは戦勝国民だと警察は小突き回され、街は暴漢の無政府状態だった」(徳間文庫「田岡一雄自伝・電撃編)。
 これ以上紹介しても仕方がない。このとき、警察は無力でそれをカバーして治安維持に尽力したのがヤクザである。田岡はその中で勢力を拡張したのだろう。もちろん、三国人のなかでも無法を行使した挙句にルーツの暴力団組織を作ったり、その組員になったりする傾向も強かった。東京なら池袋、新宿、浅草、新橋、渋谷などが治外法権で彼らの縄張りだったようだ。

 つまり三国人とは差別用語でもなんでもないのである。戦後に彼らが治外法権で「戦勝国民」の腕章をつけて闊歩したことで、GHQが彼らは日本人でも戦勝国民でもない第三国の人間だと言ったにすぎず、彼らが当時その三国人を自分たちの特権意識のようにしていた時期があったということである。
 もちろん、この検索したサイトはあくまで一方的に三国人の無法を文献に基づいて糾弾しているため、差別された側の現実と視点はすべて切り捨てている。ただ、戦後混乱期のタブーの一面に切り込んでいると思えたので紹介した。
 ゲームとパチスロの原点を抉り出そうと思えば、この歴史の現実には触れておかなければいけない。ここに、特に朝鮮人と日本特有の部落との関係も出てくることになる。ハンナンの浅田については書いたが、ここからルーツをたどればゲームとパチスロ業界のドンが登場してくることになるのである。
 このドンのことについては、業界人が口を揃えて「書いちゃだめだよ」と言う。でも書かなければ今のパチスロ、ゲーム業界の本質のディープ構造はわからない。僕の知り合いのジャーナリストが、過去、大東音響不正パチスロ事件もみ潰し工作でこのドンと平澤勝栄議員を執拗に追いかけて取材したことがある。彼曰く。最後には、「オマエいい加減にせんと東京湾に沈めるぞ」とそのドンに脅されたそうである。

 
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