【パチンコ業界酔いどれ漂流記】

パチンコ業界酔いどれて、流れながれて浮き草稼業。だれよりもこのパチンコ業界が大好きだと自負しております。ゆえに辛口の批判もしてしまう。酔いどれ仕事人のよもやま話と、むかし話に耳をかたむけてください。

大阪ゲーム賭博汚職事件

 で、全遊協崩壊についてはまた別の機会に。昭和52年(1977年)に、パチスロの原型(タテ型スロットマシン)が大阪で認可。これがマックスの角野さん、エボンの山脇さんの努力による。ところが、「日電協20年の歩み」をあらためて見てみると、東京オリンピック開催の翌年(昭和40年)にすでに、東京で風営法認可のオリンピアマシンが銀座や新宿のアンテナショップ導入されていたのだ。52年に初めて今の3メダル5ラインのスロットが大阪に登場したということになる。これで、ようやく「オリンピアマシン」の命名の由来が理解できる。ちなみに、昭和40年は「いざなぎ景気」の真っ只中である。「賭博」が「ギャンブル」に用語変換した年でもある。パチスロ普及時とフィーバーブーム時は重なっている。
 さらに時代は遡る。昭和21年(1946年)にアメリカネバダ州でカジノが合法化、これがラスベガス発展の濫觴になる。前年に米国でサービス・ゲームズ社設立。セガである。昭和23年にパチンコの正村ゲージが登場。昭和29年、警察庁が沖縄スロットの本土設置禁止見解を示す。昭和31年(1956年)、初のスロットメーカー・高砂電器産業設立。当時はチューナー専門メーカーで、本格的なスロット製作着手は昭和52年だ。当時の名称は「アメリカンパチンコ」で、米国バーリー社マシンの流用だった。

 僕が業界に入ってから2、3年後がフィーバーブームと風営法認可スロットの導入初期だった。この頃、昭和57年(1982年)に有名な大阪の賭博ゲーム機汚職、贈収賄事件が起る。府警の幹部がゲーム機メーカー関係に天下りして、現役の府警の後輩から捜査情報を入手していた。この件で、当時の府警本部長が自殺する。布施署の巡査部長も首を吊って自殺。この汚職事件を追及してスクープしたのが読売新聞記者の黒田清氏だったが、ガンで亡くなる。で、この賭博ゲーム機事件のスクープが原因で黒田さんは死んだと思い込んでいる読売の記者が多かった。「黒田さんの敵討ちを」とみんなてぐすねひいてゲーム機業界の取材をしていた。この賭博ゲーム機事件に実は、後のパチスロメーカーもからんでいたのである。これが、読売新聞が後に、パチスロ裏面記事をスクープして、角野さんや山脇さん、古田さんなどを追い落とすベースにもなったのである(角野さんは古田さんの旨い話に乗ったのだが)。大型脱税事件(阪南畜産=ハンナン、大企連すなわち同和)である。これについてはまた、詳しく書き込むことにしたい。

 この大阪ゲーム賭博汚職の記事を検索していたら、関係があるのかどうか、創価学会情報がひっかかった。大手ホールなどは金融機関からの融資が停滞したことで、こういう宗教団体から金を借りるケースが数年前から増えている。Gなどもそうだ。ただし、宗教団体は資金も豊穣であるが金利はべらぼうに高い。大手サラ金業者から融資してもらっているホールもある。
 で、創価学会の息がかかっていると思われる企業一覧。ブックオフ、つたや、ユニクロ、養老の滝(これは有名)、東京ディズニーランド(創価学会が株の10%所有)、三菱グループ、ドトールコーヒー、キリンビール、ソフマップ、白木屋、ダイソー、日本ハムなど。「どちらかといえば学会よりの企業」では、ドン・キホーテ、レイク、マクドナルド、第一興商、ナムコ、セコム、ホールも子会社で展開する焼肉の「安楽亭」などがある。統一教会絡みの企業もある。

 参議院選挙。先月からこれまで電話もくれなかった人間から連絡が増えている。すべて学会員である。選挙の前しか電話してこない連中だ。

ハウスカードと全遊協崩壊

前回に少し触れた反徳川DNAについて。別に維新の志士だとは思わないが、しかも系図なんて明治になってからみんな勝手に捏造したものが多いからあまり信用してはいないのだが、僕の母方の実家は旧池田藩の御典医だった(これは実証できる)。幼少時にその実家に何度も行ったが屋根裏にはまさに鑑定団に出してもいいようなものがしこたま私蔵されていたし、槍や刀剣類もあった。で、系図を実際に見たわけでもなく親から聞かされただけだが、その系図には水戸藩家老で水戸天狗党に影響を与えた藤田東湖の名前と、江戸時代の国学者の塙保己一の名前があったという。河内山宗俊のような江戸城の茶坊主、盲目のコンサルタントだったようである。そういえば藤田東湖も尊王派の国学者だった(水戸藩の伝統)。自分のことで恐縮だが、幼少時、いきなり目が見えなくなって泣き叫んで親に訴えたことがある。その後、親に「昔、こんなことがあったよね」と聞いても「あんた、何言ってるの?そんなことなかったよ」と言うのである。因みに母方の姓は「藤田」である。
 業界の某飲み会の席で同じ藤田という役員がいた。先祖の話になってお互いが吃驚した。彼は「おれの先祖は●●だよ(僕の本名の姓)」、「えっ!僕の先祖は藤田ですよ」。それから仲良くなった。しかもお互いに先祖は武士なのである。昔、倉敷の業者の家に泊まって話をしていたら、俺の知ってるすごい霊能者がいつから明日会おう」と言われ、喫茶店で会った。そうすると彼は僕を見ながら「あなたの先祖は江戸時代後半に、全国を放浪していたね」と言う。しかも何らかの使命を持って、というのだ。隠密か幕末の志士か?
 そういえば、DNAなのか、この業界に入ってから確かに全国津々浦々を飛び回った。

 ということで自己主張はここらでやめて、柳さんパート2。

 プリペイドカードの国策としての導入時期。それまでに業界民間メーカーがハウスカードを出していた。最初に導入したのが宮崎のホールで、次が静岡県三島のホール。この三島のホール社長はハウスカード販売代理店をすぐに東京に出す。これも、もともとは三重県の受取票制度がヒントになっている。これをカード方式にしたのが岡山で商売していたアルゼの岡田さんの実兄。その後、西陣など業界メーカーがこのハウスカードに参入。僕の恩人でもある大阪太陽の高橋さんやパチスロメーカー関連のオスカー物産なども次々にこのハウスカード市場に参入してくる。で、これに目をつけたのが、コスモエイティの熊取谷稔(→当時の警察庁保安課長だった平澤勝栄、バックには故後藤田正晴=国策)。当時、青年部会が各地で誕生してきて、部会長だった京都の白川さん、兵庫の岡本さんに話をもちかけて「全国青年部の集い」をやろうと企画した。それを当時の在籍業界誌社長に「折角だから、集いの会場前にハウスカードメーカーのユニットをすべて展示したらどうでしょう。ついでに記念セミナーも開けば全国から青年部会のメンバーも大阪に来てくれると思うのですが」と言ったら、僕が企画した以上の大きなイベントになってしまった。でも、その社長はさすがに男気があって、預金のほとんどをそれに投資したのだ。確かに、その後、その業界誌の株は急上昇した。広告も増えた。そのイベントには他業界誌もみんな取材に来ていた。その某業界誌オーナーが僕に「さすがだなぁ。オレにはこういう発想はなかったよ。勉強になった」と耳元で囁いた。翌年、そのオーナーは周辺機器メーカーを集めて「自動サービス機工業会」を作ってしまったのである。あんた(すでに故人。事故死だがこの死因についても話題にはこと欠かない)の方こそ「さすが!」だよ。

 ところが、西陣などのハウスカードメーカー連署で、警察庁にカードの使用条件緩和を陳情してしまう。当時、ハウスカードは「その店、当日限り、使用上限は千円まで(あとで2千円になる)」だった。これが、警察庁の全国統一カードによる脱税防止などのINのクリア政策の橋頭堡になった。すなわち「業界の要望があったから」にすり替えられたのである。
 で、このあとが、全遊協と柳さんの話に移っていくのだが、また次回に。

柳さんのこと

相関図整理はしばらく中断。きちんと取材し直してから整理していくことにしたい。でも、とんでもない昔話を知れば、今のパチスロ業界の真相もよ~く理解できますよ。ホント。過去のGマシン時代と今のメーカーの人間関係など、ネ。

 旧全遊協の後半期を実質フィクサーみたいに牛耳っていたのが栃木の柳さん(かつての北の工作員云々についてはここでは触れない)。先月、自宅に郵便局から電話があり、「送り主から引き上げてほしいとの連絡があったのでお届けの品は返送しました」との連絡。送り主を聞いたら柳さんだった。嫁は「送った品物が賞味期限切れとか分かって回収したんじゃない」というけど、柳さんをよく知ってる僕は逆に不安になった。もしかして入院とかしていて、余命が・・・なんて考えてしまったのだ。そうであれば中元なんて贈れないから、回収したのではないか。現に未だに代わりの物が届いていないのである。毎年、きちんと早めに中元と歳暮を贈ってくれていたサイクルから考えると、今回はどうも変だ。心配である。当時は健啖堅牢そのものの人だった。よく「タバコを喫いすぎですよ。タバコはやめなさい」と言われた。

 この人と最初に会ったのはいつだったか、記憶に乏しい。おそらく栃木県遊協総会のときか。それまでにも全遊協理事会では必ず議長の席に就いていたが、理事会で会話した記憶はそれまでにはない。最初に栃木の総会に行って、会場に早めに着いたら昼食でカレーライスがふるまわれた。旨かった。当時の関東連総会が千葉の勝浦だったかで開かれたとき、駅前の海の家みたいな食堂で、業界誌仲間と一緒に食ったカレーの次に美味かった。そのときは僕も業界の総会デビュー時期。栃木の総会のあと、柳さんが業界誌用の宿泊旅館を用意してくれていた。そこに帰ってくつろいでいたら、同業の業界誌の先輩が「柳さんから電話で、もうすぐ来るから飲みにいくぞ」と言われる。ところがその時間よりも早く柳さんが部屋まで来た。近くの飲み屋で遅くまでご馳走になった。一に来賓、でも最後は業界誌という接待のセオリーが当時はまだ濃厚だった。今でこそ理事長が最後に登場もせず、事務局に業界誌接待を任せるパターンが残っている府県もあるが、当時から思えば隔世の感がある。
 その頃、よく思ったものだ。「この業界は桃源郷だ」と。実際、日本の社会から無視されていた(蔑視されていた)異端社会を独自にこの業界は閉鎖的にかたちづくっていたといえる。タブーの業界だった。戦後社会の遺物のひとつである。
 これを許さずに切り崩していった(警察と国の政策の網が被せられた)契機になるのがフィーバーブームと業界の急成長だった。10兆円、15兆円産業と喧伝され始めた頃だ。悪いことに、ここに異分子であるGマシン業界からの風営法認可パチスロが入ってきたことが、さらのその桃源郷鎖国の壁を切り崩していくことになる。

 話はより新しくなるが、まだ全遊協時代、松波さんが理事長になった頃か、大阪府遊協前理事長が亡くなった。その告別式に僕も当時の業界誌社長と一緒に参列したのだが、ここには当然、柳さんも来ていた。翌年くらいか、社長に酒の席で言われたことがある。「あのとき、柳さんと松波さんが俺のとこにきて、お前のことをほめて、彼はこの業界に必要な人材ですから頼みますよと言われたんだ。でもそれをお前に言うと増長するから今まで言わなかった」。
 後年、柳さんは僕の業界の師でもあると思い(今でもその気持は残っている)、ことあるごとに取材、インタビューを重ねた。業界の重要問題が起きたら柳さんに聞けばいい、という感じだった。その意味では、間違いなく、僕の業界における恩師だ。ある年、取材で再び栃木の総会に行き、翌日にインタビューを申し込む。その日も柳さんはこの業界とは別の環境同業組合の総会。その総会の後の取材を終えたら「これから日光に行こう。案内するから」と自分が運転して宇都宮から日光までの往復を時間を割いてくれた。大阪に戻って翌日くらいか、右頬が大きく腫れて病院に行く。骨肉炎の手前だった。あとで柳さんが写真を撮ってくれた1枚を見て吃驚。日光に累代徳川将軍の菩提の前で映ってた写真に、その墓石から僕の背後にもやのような白いものが発光されていたのだ。少なくとも、僕は徳川直系ではなく、あるいはその徳川家を滅ぼした側のDNAが流れているのだと思ってしまった。

 レジャーカード設立時の全遊協VS警察庁(平澤勝栄・熊取谷稔)激突期。土井社会党はそれが原因でアゲンストになった。このときの週間文春で記事を書いたのが後にカジノ学会を立ち上げるジャーナリスト。彼はこのとき、柳さんと平澤さん両方の取材をしている。「どちらも逸物だ」と言っていたが、この業界に重心を置いて仕事をするようになってから、この人は愚物になってしまった。
 全遊協解散前、カード導入問題で、警察庁がリークして全遊協を大混乱にさせるのだが、これについては数行では書ききれない。

ブログはブログ風に書くべきなの?

しばらく書いていないとパスワードを忘れてしまう。同業記者のikemotoちゃんみたいに2つのブログを四六時中更新なんて芸当は僕には無理でんな。

A電研とソフィAの経営統合(というより買収)の話が、A社の負債が●●●億円だったことでソフィAがトーンダウン。上野のA社直営ホールも近く閉店するらしい。で、終わっていないのだが(まだ水面下で協議中か)どうも、これまでの両社の関係から統合はありえるかもしれない。ソフィAがその負債を丸かかえする覚悟さえあれば、だが。なにしろ負債額と売上げがほぼ同額なのである。これをすなわち債務超過という。北海道のホールS社と愛知県が本社の夢社との統合の話も。これも実質はS社が夢社を買収ということなのだが、持株会社をつくっての統合を準備しているらしい。

6月末、日電協の前理事長送別会が業界誌有志で行なわれた。僕も出席。けっきょく三次会まで飲んでしまう。今週月曜日、パチスロ業界の古参の知り合いが会社まで訪ねてきてくれた。販社の顧問をしている。昔話をしていて、この人に聞けばパチスロ相関図も整理できるなと思った。ほかにも取材して整理し直すために話を聞きたい人は多い。びっくりしたのは、日電協前理事長送別会のときに、同じく日電協を退職する女性事務員のNさんも併せて招待したのだが、この人は「わたし、26年も日電協に勤めていたのよ」と言うのだ。すなわち日電協創設当時からだ。この人に「日電協20年の歩み」を送っていただいた。でも大阪事務所に帰ったら同じものがあった。申し訳ないが、このNさんには設立当初からの日電協の話を聞くことにしている。

 フィーバーブームのきっかけを作ったA電研の故T会長、パチスロの風営法認可機種のいきさつについては、溝口憲文氏の「パチンコの歴史」に詳しい。それを紹介したいが、また別の機械に譲る。

パチスロ業界相関図整理(2)―最初のオリンピアマシン

 東京オリンピック開催が昭和39年(1964年)。ということはこの時期に、セガ、タイトーなどがカジノ式スロットマシンを米軍占領下の沖縄で出したのか。その発生から後年に、「スラグマシン」が出て、これを「オリンピアマシン」とその発生の原点にちなんで後に名称したのかもしれない。ここは、当時の関係者の証言が必要だ。一応、このブログでは以前に書いた「相関図」の時系列等の不明な点(誤謬)、確認必要な点を整理して洗い出す作業が中心になると思う。これをさらに、ふるい関係者に再取材してきちんと整理しなおす作業が残るが、早くしないと、当時のことを知っている人たちがいなくなる。パチスロの歴史はきちんと残しておくべきだ。この僕のワーキングに協力していただける方がいれば、コメントください。
 沖縄本土返還はもっとあとで、昭和47年(1972年)5月15日。で、この半年ほど前に、丸朝商事の喜友名さんが、大阪のゲームマシンメーカーにその開発を依頼した。返還前に導入して、既成事実を作っておきたかったのかもしれない。で、開発を依頼したのが丸朝の専属工場にもなっていた大阪の高砂電器産業(現アビリット)だ。「開発を急いでくれ」という要請でぎりぎり本土復帰前に間に合った。

 ここで、最初のパチスロメーカー誕生秘話が生まれる。丸朝商事は高砂にその開発と製造を依頼したものの、それだけの金を支払う経済力はそれほど無かったらしい。当時、それだけのスロットの型を作れる工場を持つゲームメーカーは、関西で2軒しかなかった。高砂電器産業と東京パブコ(後のアークテクニコ、バルテック)。ほかにもあっただろうが、スラグマシンに注目したのがこの2社。しかし(ここからは、氏名の敬称は略します)、喜友名の依頼してきたのは、300台とか400台だった。こんな少台数では型までおこして製造できない。型を起こすのに当時で3億円くらいかかった(東京パブコの古田収二談)。台当たりの販売価格を80万円としても、製造メーカーとしては割が合わない。喜友名は「契約が入るごとに支払う」と条件を出したが、けっきょく破談になる。しかし、古田も、高砂の濱野準一(故人)も、スラグマシンには興味をもった。開発に着手して、濱野は1500台も製造してしまったのである。
 2社ともゲームマシン、とくに当時のギャンブルマシンメーカー。「うまくやれば、新しいGマシンとして、沖縄を足がかりにして儲けられる」と思ったのかもしれない。その意味では、喜友名が、今のパチスロを産んだと言えるかもしれない。
 当時、沖縄でいちばん大きいボウリング場の「国際ホール」があった(パチンコも導入されていたと思う=これも確認必要だが、僕が業界に入った昭和50年以前に沖縄でパチンコ営業があるという話は聞いた。しかし本当の娯楽であり、それが沖縄レジャーの主力というわけではなかったように記憶する。ただ、パチンコ営業店が増え始めた時期だったのではないか)。ここがボウリングのフロアをすべて「スラグマシン」100台に切り替えて、その施設の入り口にも別に1軒60台をオープンさせる。これが東京パブコの機械。パブコとしては初のスロット導入だった。
 濱野と古田は、すでに沖縄でGマシンのオペレーターもやっていた。このとき、すでに独自でスラグマシンの店を営業していたのが、オリンピアの石原昌幸だ。石原との関係は取材していないので不明だが、当時、濱野や古田と並行して沖縄でリレー式のスロットマシン「ジェミニ」(アメリカのバーリー社製)を輸入販売していたのが、マックス(後のマックス・アライド)の角野博光(故人)だ。
 しかし当時の沖縄は特殊事情があった。Gマシン市場として本土よりもおいしい地区だったのである。市場規模は大きかった。これがパチンコが当初、あまり普及しなかった理由。すなわち本土とのレジャー嗜好、遊びの感覚が沖縄では違った。中国や台湾、東南アジアでカジノが伸長したのも、そういう賭博好きの民族性がある。当時、沖縄の人は仕事は昼からが多かったそうである。夜9時くらいに仕事を終わって食事をし、そのあと明け方までが遊びの時間。
 スラグマシンはそういう沖縄の特殊事情から、Gマシンの発展系・異種遊技機として生まれた。それを行政(復帰後)から復帰前既定の「猶予期間」のかたちで引っぱっていただけにすぎなかった。「ジェミニ」などのスロットマシンもそうである。高砂から「スラグマシン」を導入していた元は映画館の「沖映」遊技場も、この頃、本土からの強力資本ホールが沖縄に乗り込んできたら、地元遊技場はひとたまりもないという危機感を抱いていた。そこで、濱野、古田、角野などが考えたのが、スラグマシン(数年で終わるが)、スロットを、なんとか本土並みのパチンコと同じ風営法認可遊技機にできないかということだった。

パチスロ業界相関図再整理

 3週間?くらい書き込んでいませんでした。業界は総会シーズン+相変わらず飲んでばかりで、書き込む僅かな精神的(二日酔いなので体力的)余裕がありませんでした。なにかと、こういうときに限って、別の仕事の飲み会とか要件も増えるものなので・・・・。(すいません、飲み屋+αの女性からの誘いもでした、ウキッ!)

 友人のヒロポンさんが、僕が3年ほど前に会社の会員HPに書いた「回胴式業界相関図」の1回目~3回目のプリントアウトしたものを保管してくれていて、逆送していただいた。読み返すと時系列での間違いが多い。これは「アルゼ王国の闇」の鹿砦社記者にも言われた。なにせ年代を精査する資料が極めて少ない。自分でも業界経験の中で、その時間の感覚の記憶が整合できなくなっている。みなさん、過去の資料の整理と保存は大事ですよ。いついかなるとき、また同じことを探求したり、今の参考にしたりしなければならなくなるかも。それをいやほど経験してきたのに、いまだに整理・保存下手。今の問題と取材に集中してしまう性癖なのです。その点、以前に書いた元の在籍業界誌のときの後輩の故渡邊くんはすごいね。マニアではあったけど。

 さて、相関図の第1回目。こりゃ、もう一度、時系列を調べ直して書き直すと、意外に業界の貴重な資料になるかも。と、いうことで、再整理で書き直していくことに。しばらく連載です。実は、会社のHPの管理ページにもすべて残っていたのだ。ただし、管理ページから本ページに書き込んで、さらにそれを印刷して、さらに書き込んだものをもういちど本ページから削除する作業が必要になる。僕の性格ではいちどにそれはやれない。ということで、先ずはヒロポンさんからいただいた3回目までを、こまぎれに整理し直す。実は時系列検証で、日電協10年史なるものがあり、参考になるのだが、これは発行時に僕の会社にも送ってもらったのだが、当時の出入りしていた釘師にもっていかれて、未だに手元に戻っていない。パチンコの釘師にすれば、スロットの歴史はすごく新鮮で認識していなかったのだろう。「これは面白い、貸してくれ」と言われて貸したのだが、その釘師はいまは行方不明。で、本日、日電協に用事があって行ったので、一冊わけてくれと頼んだが、「調べたら、うちにも2冊しか残っていないので勘弁して」と断られたのである。さらに、昨夜、ご無沙汰の週刊誌記者から電話があり「いま、沖縄なんですよ。実は平和を買収したかたちのオリンピアについて取材してるんですが」と、いろいろ聞かれる。明日(ここでは本日)が締め切りなので、スロット業界って面白いので続けて取材したいので、いちど改めて話を聞きたいと言う。やはり、もういちど、回胴式業界は検証しておくべき。「相関図」を書いたとき、「これって、一冊の単行本にすれば面白いな」と思った。ヒロポンさんも「是非、本にして下さいよ」と言ってくれていた。だから彼は、プリントアウトした3年前のものを保有してくれていたのか? でも、僕は少なくとも「相関図」は10回くらいは連載したつもりだけどなぁ。

 さて、相関図の整理の第1回。とりあえず年代は後日検証して。沖縄の本土復帰前。嚆矢はセガ、タイトーが米軍占領下の米軍キャンプ内で、兵士のレジャー遊技機として納入したもの。それ以前は、米軍兵士たちがアメリカのスロットマシンを持ち込んで遊んでいたらしい。それなら、日本からスロットを供給しようというのが始まり。セガ、タイトーといえば、当時の日本のギャンブルゲーム機の代表格だった。しかし、このスロットマシンは2、3年で姿を消す。おそらく昭和40年代後半(もしくは中期)か。その後、米軍キャンプから出て、沖縄市街地で販売、営業されたのが、世にいう「オリンピアマシン」のスロット。いきなり書き始めたので、年代確
認を忘れたが、東京オリンピックにちなんで「オリンピアマシン」と名づけたと聞いている。レ
バー式のタテ型スロットマシンだ。これは、沖縄の丸朝(まるとも)商事の喜友名さんが、マイコンを搭載したスロットの開発を某メーカー(おそらくGマシンメーカー)に依頼した。手動式のレバーでハード的には簡易なものだが、当時の企画としては、後年のユニバーサル(現アルゼ)の「コンチネンタル」に似たものが依頼されたと思えばいい。
 この機械は当時、沖縄では「スラグマシン」と言われた。丸朝から開発依頼でそのスラグマシンの引き合いが来たのは沖縄本土復帰前だが(数軒の店で稼働していたかもしれない)、本土復帰後、汚いバラック小屋みたいな店に20台、30台平均で、各所にスラグマシン店が営業を始めた。戦後のパチンコと同じ状態である。
 ところが、沖縄県警がこれを「ギャンブルマシン」に指定。違法換金での手入れも行った。一人の客が3台ずつ独占プレイ、荒っぽい賭博ゲーム機だった。丸朝商事(創成期の日電協会員)が開発を依頼したのはどこだったでしょうか?次回に。

フィーバー機と松波さんのこと

 関西だけでなくホール取材も含めて全遊協理事会(全遊協時代は業界誌が理事会に出席取材できた)や総会など関東方面、中部方面にも出ていくのは昭和54年くらいからだったか。東京の業界誌記者とも顔見知りになり、よく湯島や新宿などに誘われた。でも、当時在籍していた会社は「他社の記者とは飲むな」。そのタブーを破って飲み歩いた。とくに旧い先輩記者には勉強の意味もあり付き合った。

 熱心で業界発展に全力を傾注した全国理事長だった宮本政春氏(神奈川)が、昭和55年4月に脳出血で急逝。それまで2頭政治だった全遊協(連)は、連合会会長の松岡豊氏(東京)が協の理事長に就任して一本化される。が、理事会によく出たが、東京と全遊協(とくに柳さんたち)の仲は完全ではなかったように思う。市谷遊技会館の近くの喫茶店に入ったら、東京の役員が数名、執行部批判と理事会戦略を話し合っていた(もちろん、東京都も数名が執行部に入っていた)。ちなみに、パチンコの日を11月14日に定めて感謝デーを始めたのが宮本政権時代の昭和54年。翌年にはその宮本さんが亡くなるという不運に見舞われたわけである。

 2要件緩和も大きなテーマだった。発射速度を1分間130発以内、1回の賞球を25個以内に(当時は15個)。この緩和への努力は継続されていくが、昭和60年の風営法改正でも無理だった。
 この昭和55年、僕はある人から声をかけられる。大阪の理事長の松波哲正氏だ。以前にインタビューをして、テープレコーダを忘れて筆記取材で記事を書いた。それ以来、なにかと目をかけてくれた。ある人を通じてその松波さんから「うちの会社に来ないか、来年、全遊協理事長になるので、秘書みたいな役職で手伝ってほしい」ということだった。もちろん、丁重に断った。(会合などで柳さんと会話を交わすようになったのもこの頃)。しかし新天地に乗り込んでいく勇気もなかったが、なによりも特定された1人のための仕事でなく、複数のもっといろんな人との出会いがある業界誌記者としての仕事に、すでに陶酔してきていたからである。アミューズメント業界誌から「編集長で来ないか」と声をかけられたのも同時期である。
 昭和56年の総会で松波さんが全遊協理事長に就任する。柳・松波体制(コンビ)の誕生である。このとき、フィーバー自主規制問題で揺れていた。当時は「超特電機」と呼ばれた。ここでもアタッカー部分の改造費用や具体的方法などでメーカーと全遊協で統一がとれずに、違法な釘調整をするホールもまだ少なくなかった。ホール自主規制の設置台数の30%も守らないところが散見された。

 自主規制の徹底、さらに、ようやく日工組が警察庁と話し合いの上、警察が「新要件」を提示する。アタッカー開放30秒、Vポケット入賞は1回の開放につき10個(10カウント)である。これによって、禁止されるかもしれなかったフィーバー機は残されたのである。当時の全遊協の努力は並大抵のものではなかった。

京都、台北、マカオ?

 資料と書籍の整理はつねにきちんとしておくべきだ。ひとつ終われば次の新しい記事(テーマ)に熱中する癖は治らない。情報屋としては失格だ。パチスロの風営法遊技機認可と僕がこの業界に入った時期は重なるのに、数年前に書き溜めた「回胴式業界相関図」連載ウェーブ記事が消えていることは前にも書いた。サーバー管理会社に頼んでデータベースから引き出してもらえばいいのだが、仕事にかまけて、まだその依頼もしていない。かなり以前に溝上憲文氏から頂戴した氏の著書「パチンコの歴史」を読み返していたら、その取材力に脱帽した。パチンコだけでなく、パチスロ草創期のことを詳しく当事者などの取材もして検証していた。業界に関わってきた人間として、ほんらい僕らがきちんと遺しておかなければならない歴史なのである。
 僕が前に在籍していた会社の後輩だった渡邊靖之くんがまとめた資料(コピーの冊子)も出てきた。平澤勝栄と柳さんとのカード導入、全遊協崩壊への貴重な資料集である。彼の資料収集力にも脱帽するが、同じ会社で一緒に仕事をしていたときに、なぜ、僕と共に同じ記事をバックアップしてくれなかったのだろう。おそらく、僕がそこを辞めてから、彼は業界の何たるかが分かって、あとを追うようにその会社を辞めてフリーになったのだと思うけれども。惜しい人材だ。1年ほど今の僕の仕事も雑誌連載記事というかたちで手伝ってもらったが、その連載中に若い人生を中途でリタイアすることになってしまった。彼の部屋は資料が山積みだったと聞いた。柳さんからも、大阪に行くので渡邊さんの住所を教えてくれ、線香をあげに訪ねたいと電話をいただいた。
 実は僕が以前の業界誌を辞める最期の動機が、特集記事で書き上げたカード導入に関しての警察批判だった。今でも鮮明に憶えているが、そこの社長が記事の校正を見て、「これは確かに正論だけど、警察庁がこれを読んでクレームが来たら、あんたはどう弁明できるんだ?」とボツにされたのである。(正論だと言うのなら、弁明して警察に反論するのは経営者の努めじゃないのか?とも思ったが)
 業界でメシを食ってきた業界誌が、その業界が権力の都合で炎上するかしないかの瀬戸際なのに、だからこそ書くべきことではないのかと僕は信じていた。社長のそのひと言で、これまでくすぶっていたものが一気に「確信」になって、そこを辞めて独立したことになる。書きたいことが書けない業界誌なんて、業界ジャーナリズムではない。これは今でも信念である。

 2年ぶりに、20代後半からお世話になって業界の基礎勉強や人間関係を蓄積してきた京都の組合総会に出る。時代の流れは速いが、人の付き合いというのはそう簡単には風化はしないものだ。当時の4代目の京都青年部会長が組合理事長、部会員の多くが理事や役員だ。総会の途中に2代目部会長から声をかけられて、会場の外で4年か5年ぶりに話をする。ほんらいならこの人が理事長になっているべきなのに、ま、いろいろ組合の中も事情が変化してしまうものなんだろう。でも、近畿産業信組のホール団体(有限責任中間法人)の代表になっている。

 この人が京都青年部会長のとき、群馬の研修旅行に同行。初の京都青年部会の研修旅行同行だった。伊香保温泉に一泊。すごく僕に気を使ってくれて、「一緒に風呂に行こう」と誘ってくれ、背中まで流してもらった記憶がある。
 昭和58年に、彼が部会長のときの京都青年部会主催講演会に、講師として柳さんと愛知の小野さん(全遊協副理事長)を僕が招へいした。「な~んだ」と思ったのは、講演会が終わってから部会のみんなが柳さん、小野さんを招待して祇園に繰り出したのに、僕には声がかからなかったことだ。結局は裏方でしかなかった。案内パンフまで作ったのに。まぁ、その代わりに、京都における人間関係という財産は頂戴したのかもしれない。

 その2代目部会長とは後年、台湾パチンコが加熱してホールやメーカーが台湾に地元企業との合弁会社で進出した時期、誘われて台北まで一緒に取材をかねて行った。彼の台北での商売のパートナーである白さんが、車で近郊のソープ+サウナみたいな店に招待してくれた。「どれでも気にいった女を選べ」と言われたが、不衛生な店でいかにも地元マフィアが経営しているようだった。ということは、白さんもそちら系の人だったのかもしれない。台北の街は油臭かった。2日目には慣れた。

 そういえば、先週、元ダイナム役員氏と湯島で飲んだとき、「ぜひ、マカオのカジノを見に行ってほしい」と誘われた。パスポート切れてるし5時間も飛行機でタバコ吸えないのは・・・・と言ったら、「でも見ておく価値がある、業界誌の中で唯一、ジャーナリズム精神を持つあなたには是非見てきてほしい」と、このままだと禁煙覚悟でマカオかマレーシア方面へのカジノ視察に行かざるを得なくなりそうである。

最初に出会った「詐欺師」の眼

 年代はまた戻ります。昭和50年くらいか。

 ホール回りの時代。そこで大阪の曽根崎遊技業組合の取材に出入りするようになった。大阪市のキタ(梅田)周辺をエリアとする支部組合。天神橋商店街のホール取材で飛び込みで入った店で、そこのオーナーが対応してくれ社長室で約1時間ほど喋った記憶もある。帰りにその社長が「これ、持って帰って」と、当時では高級ウィスキーの「ジョニ黒」(ジョニ赤だったか?)をお土産にもらったことがある。当時の僕はニッカかサントリーレッドしか飲んでいない時代。アパートに持って帰って居候の友人とじっくり味わいながら飲んだものである。(あまり旨いとも思わなかったが)実はこの友人のせいで、会社をクビになりかけたこともある。同じ会社を辞めたまだ20歳くらいの後輩のデザイナーがいきなりアパートに訪ねてきて、3人同居時代もあった。このときもアパートの近くのスナックによく出入りして、そこで、からまれていた仲良くなった常連客の相手に(ヤーさんだった)、ポンと肩を叩いて「まぁ、そんなにキツイこと言わんでもええやん」と言ったら、「お前、だれにもの言うとんのや!ちょっと表に出ぇや」と店の前に連れ出され、股間を蹴られた。
 そういや、この界隈、銭湯に入ってもクリカラモンモンが多かった。その常連「ごめん。あのときアンタが入ってくれてなかったら、オレがアイツにドヅかれていたわ」。とうぜん、その日と2回目の飲み代は彼が全部払ってくれた。酔っ払うとその場の状況は関係なくみんなと仲良しという気になるので、ついつい言わなくてもいいことを喋ってしまう。これは、僕が独立してからも数回続く。(でも、意外にアチラ系の恐いお兄さんに僕は好かれることが多いのですよ)

 とんでもない方向に話が曲がってしまった。曽根崎組合。年末恒例の「善意の箱」義捐金の福祉施設や曽根崎署への贈呈には必ず呼ばれて取材。感動したというか逆に初めてなので異界に踏み込んだという感覚で身障者施設訪問などした場合、どう対応していいかわからなかった。健常者と障害者とどう違うのか。自分は健常者だと思っていたが、むしる彼らの方が健常なのではないかと思ったこともしばしば。
 ま、そのときは僕も施設の子供たちを差別して見ていたのだと思う。ただ何回かそこに通うことで、自分の甘さに気づいた。彼らはだれにも頼ってはいない。いろんなものに頼りすぎて、逆に己れを甘く生きてるのは俺たちかもしれない、と。だから、つまらない会社、仕事の狭い範囲の中あるいは家庭の中での愚痴や感情を武器にしてしまう。「相手」が見えていない。自分の闇しかないのである。相手が自分を照らし出して明るくしてくれているということに気づいたのは、それから10年以上はかかったかもしれない。

 ここで、変なオッサンと出会う。曽根崎組合がどういう経緯で彼を引き入れたかは知らないが、いつしか「釘師一代」というレコードを引っさげてプロモーションする20代の新人女性歌手と、そのプロモーターの易者の岡崎泰山というオッサンと親しくなったのである。在籍していた業界誌でもそのレコードや販促活動を記事で紹介してあげた。ホールの開店や曽根崎組合の行事などで歌う。いま思えば、ホールイベントでの、歌手やタレントを招へいした盛り上げ戦略の最初だったのではないか。ただ、このレコードはそんなに売れなかった。パチンコに特化(しかも釘師だ!)しすぎたのかもしれない。
 ところがその前後か、間寛平の「開け!チューリップ」や、大阪のドヅキ漫才のレコードなどがヒットする。どちらも、吉本と松竹の楽屋まで取材に行った。寛平はそれなりの対応だったが、ドヅキ漫才の敏江・玲児の玲児(レイの字は間違ってるかも?)は、時間までタダで中座に入れてくれて、そのあと玲児さんが楽屋裏の喫茶店で応対してくれた。芸人もそれなりに、相手のことを考えてくれているのだなぁと感心したものだ。しかもコーヒー代は玲児さんが全部払ってくれた。コーヒー代くらいと安易に考えてはいけない。本来なら取材を申し込んだ方が払うべきがルールだ。

 さて、岡崎泰山だ。どちらかといえば詐欺師みたいなものである。僕も手相などを観てもらったが、全然当たっていない。ラブホテル街に近い桜ノ宮に事務所(アパートの一室)があり、よく通ったが、唯一、そこに弟子としていた鹿児島から来ていた若い谷口クンという歌手志望の男の子と仲良くなったくらいか。彼も1年くらいで故郷に帰ってしまった。「釘師一代」を歌っていた彼女も最初から僕は気に入らないタイプだった。歌は「こころ」と信じている僕にすれば、彼女はあまりにもプライドが高すぎたのである。周囲に対する思いやりなど微塵もなかった。岡崎泰山に括られた操り人形みたいなものだった。「可哀想に。これじゃ、売れないよ」といつも思ったものだ。その気持ちさえも彼女は理解しようとはしなかった。
 しばらくして、5年くらい過ぎてからか。その岡崎泰山氏から電話。取材してくれというのだ。広告も出すという。すぐに飛んでいく。同じ曽根崎界隈のホールの店頭で、屋台みたいなコーナーを出して「運勢占い」をやっていた。オシマイ!

 ただ、ひとつだけ、この岡崎さんのおかげでプラスになったことがある。なぜ彼が易者のくせに歌謡スクールを設置して、そこで歌手養成に手を出したかがなんとなく理解できた瞬間でもあった。僕が当時、会社の近くの行きつけのスナックに彼を連れて行って飲んでいたとき。当時はまだカラオケブーム萌芽の時代。そのスナックで僕はカラオケマシンのすぐ横が定席で、お客のリクエスト曲を自分でカセットを入れてボタン操作していた。その店のママにすれば、有難いボランティアホストだ。で、自分で入れて演歌を歌っていたら、横で岡崎さんが「違う、もっとノドで歌うんやなくて、腹で歌うんや」とアドバイス。その通りに歌ったら、回りの客もママもヤンヤヤンヤの喝采。「サスガダナァ~」と、そのときだけ感心してしまった。
 ただ、今でも彼の目付きは焼きついて離れない。笑ってはいるが、その奥にギラギラしたような相手をいかに利用してやろうかみたいなバッファーをいつも感じていた。これはその後、同じような目をした業界の人間を何人も経験している。そして、いつも自分が利用されて騙されていた。目をみれば分かるのに、その時点では「この人はまた、今までとは違うはずだ」と、そのあり地獄に嵌っている自分を、わかりながらも嵌りこんでしまっているのである。
 でも、信じ込むときは信じようと思う。裏切られ利用されてるだけだと分かっていても、万が一、この人だけは僕の経験値とは違う新しい信用できる人だったということを、つねに追い求めているだけなのかもしれない。ただ、裏切られれば裏切られるほどに、自分もそれで逞しく成長し、人を見る目を肥えさせていると思いたい。それが本当の切磋琢磨というものではないでしょうか?
 

女性フィーバー時代の甘い誘惑

 京都青年部会の福岡研修旅行。このとき、初めて事務局の新人が同行。現事務局長である。新人のとき、祇園で青年部のみんなと飲みに行くと、雨が降ってたら必ず僕に傘をかけてくれて、かなり気を遣ってもらった。当時の青年部長から「ちゃんと、アイツを大事に扱えよ」と言われていたものと見える。彼も年数が経つうちに、仲良くなり冗談を言い合えるようになった。今でも年1回の総会くらいしか会えないが、会えば必ず僕に減らず口を叩いてくる。(ん~ん、違うかも。もっと後の熊本・大分への研修旅行のときからか?)
 福岡の二世経営者らとの交流会でもあった。西新や博多駅前ホールを視察。駅近くのオープンしたばかりのビル立駐の「ラッキー」も視察した(当時はまだ珍しかった)。1日目の視察が終わって駅前の宿泊先の当時の都ホテルロビーで、福岡の二世と待ち合わせ。でも地元の二世経営者が、わざわざ人数分の女性を派遣してくれていた。そのための待機でもあったようだ。
 ところが、最初に来た女性は一人だけ。服もどちらかといえば地味。そこで誰がその彼女を同伴するかになったが、みんな「もっといい女が来る」と思ったのか、僕は辞退したのに、現理事長の白川さん(当時、青年部長)や先に破綻した高山物産の高山さんたちが、「いいから、お前が先に行け」と威圧的に言う。あ~あ、部会の広報部員としては逆らえない。彼女と一緒にホテルの部屋に直行。と、ところが、じっくり見ると意外にいい女なのだ。まして裸になったら僕の好みのボディだ。ウェストはキュ、お尻はカタチがいいし、おっぱいはプリンとしたお椀型。身長は僕より低い。年齢は、んんん、どうだろう、30歳前後か。あのときの彼女のあえぎ声に、隣の部屋から壁を叩く音が聴こえたが、そんなんどうでもいいくらいに満足。

 ところが。翌日の朝食時、そのあとのバスの中で、青年部の連中から「お前だけいい目しやがって」と集中攻撃だ。なんで?「あのあと、人数分の女が来て、みんな同伴で部屋に行こうとフロントの前をゾロゾロ通っていたら、ホテルの奴にストップされたんだよ。しかもみんなブス。仕方ないから女共にタクシー代払って帰らせて、俺らはみんなでソープに行ったんや」。これは今でも総会で当時のメンバーに会うと言われる。よほど悔しかったんだろう。(千葉のお返しだぃ!)

 そのときの彼女が終わったあとにタバコをふかしながら語ったこと。僕が「なんで、こんな仕事してるの?」と聞いたら、「スナックをやってて、経営がうまくいかなくて閉めたのよ。でも、お金をためて、またお店を出すため頑張ってるの」。その後、何回も博多に飲みに行ったが、ついに彼女に再会することはなかった(当たり前か)。一夜限りの仲でいいじゃないか。

 この業界、意外と女性のプレゼントも多い。ソープも多いが、派遣の女性も。たとえば倉敷のホテルで地元業者に飲みに連れていかれたあと、ホテルの部屋に戻ったらドアをコンコン。20代前半の美女。飲みすぎてもう眠たいから「ごめん、やる気ないから、風呂だけ入って帰ってくれる」と言ったら、「もうお金もらってるし、だったら一緒に入ろうよ」と同じバスに。ところが間近で見ると男だもん、エレクトしてくる。「やっぱし、やらせて」。「アタシ、そういうのキライ。最初からヤルならヤルと言ってよね」。ちょっとムカついたが、欲望が先。この業者との出会い、その夜の飲み会でも面白い話があるのだが、いずれまた。

 静岡。青年部会が出来て2年目くらいか。講師を頼まれて喋って、あとは懇親会のあとに飲み屋街に流れるのはお決まりのコース。ホテル代ももちろん部会持ち。夜遅くにホテルにわざわざ部員数名が送ってくれてロビーで雑談。「あ、あの、もう僕眠たいのでこれで部屋に帰ります」。部員の一人がエレベーターの前まで送ってくれて「これ、持っていって下さい」と言う。なんだかわからない。
 案の定。ドアをトントン。女だ。でも相当に酔っ払っている。あとで聞いたら飲みに行ったクラブの女性。ベッドで「ま、いいか、好みじゃないけど」と行おうとして入れたら(そのときもらっていたのがコンドームだと初めてわかったが、ポケットから出てこなかった。いいやナマで)、その女、「あ、ちょ、ちょっと待って!吐きそう」とトイレに駆け込む。それを3回くり返してブチ切れた。「もういい!帰れ!」。このことを、1年後か2年後にそのコンドーム提供の青年部員(現・県遊協役員)に話したら、「くそっ、金取り返してやる」と怒っていた。
 
 ま、業界長いと、こういうことはいろいろと経験させられるもんです。昔に比べたら少なくなりましたけどね。
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