日記だから、もう自由奔放に書き込もう。別に半生記を書いてるわけじゃないしね。M○タクシーの○木さんが逮捕される?近○産業信用○○から融資受けてる関西のホールは大変かも。イチニさんも?ま、そこまで大げさにはならないよう祈りたい。これ以上、ホールが潰れたら僕らも厳しくなるもの。福島D社の民事再生法適用申請。金融制裁の一環でもあると聞いた。北への資金流出阻止だ。西でもこの連鎖で金融制裁による倒産ホールが出るかも・・・・。Bを入れたら見事にCだった。4号機。恐いお兄さんたちが絡んでいる。ホールは撤去前に最後に抜いて儲けようとBを入れたのだろうが、彼らも最期に抜いてしまおうと、Cを入れて売っていたのですね。
フィーバー機によりパチンコのギャンブル化が問題になった。新規ファンも増えた。パチンコが「ギャンブル」と言われるようになったのは、この頃からだ。ホールの売上げは急上昇したが、昭和55年からパチンコ店は「鉄火場」になった。よく例に出すが、小川和也氏の「世紀末パチンコ秘話」から。この小川氏は確か兵庫青年部会の研修旅行で札幌に僕が付いて行ったとき、宿泊したホテルの食事会に当時の札幌市青年部の髙木部長と一緒にゲストで同席。札幌支配人会を作った人で、市内ホールの支配人や店長を集めて、札幌方面遊技業組合の現場の意見や情報を上げていた。この人が、組合にも若手経営者を集めた青年部会を作るべきだと提案。部会の顧問か相談役も努めていたと思う。その小川氏との最初の出会いだった。
さて、「世紀末パチンコ秘話」から。「777と大当たりが発生した場合、アタッカーが30秒開き、Vポケットに玉が入らないと必ず閉まるということから、各警察本部は簡単に認定機として許可したものと推定される。しかし、よもやその30秒間にほとんど100%の確率で1個の玉がVポケットを通過すると判断できなかったことは、当局のミスではなかっただろうか」。
当時の全遊協はいずれフィーバーの規制があるとの危機感から、フィーバー設置台数をホール全台数の30%までの自主規制を打ち出す。これが昭和57年。しかしその自主規制もホールの売上げ重視で守らないところも少なくなかった。警察庁の規制が入ったのが昭和59年。このときの全遊協理事長は大阪の松波哲正氏。この人との関係も僕の業界史のなかで大きいものがあるが、これはまた別の機会に。
昭和59年1月31日付で警察庁から「超特電機の特別措置について」が通達された。当時はフィーバー型パチンコを「超特電機」と呼んでいた。通達というのは、各都道府県警察に対してである。3月1日から(5月末までに)規定の措置を講じるというもの。
「10カウント」規制である。開放したアタッカー(大入賞口)は、そこに入賞した玉が10個になれば開放時間制限にかかわらず「直ちに閉止する装置を付ける」ものだ。さらに、アタッカー開放秒数は15秒に短縮。いわゆる15秒10カウント規制だ。
全国で最初にこの改造措置で対応させられた(県警指導)のが千葉県だった。とうぜん全国のホールは5月末までに同じ規制のフィーバー機に改造もしくは入替えなければならない。注目の的だ。いち早くこの千葉のホール視察に出向いたのが京都青年部会だった。僕も当たり前のように随行した。市川、千葉の両市の数軒を視察し、地元ホール幹部からも規制後のフィーバー機の営業内容等を聞いた。ところが、これを写真も撮って雑誌でレポート記事で5、6ページで書いた。凄い反響だった。おそらく自分一人だけで千葉のホールを取材してもここまで地元ホールからの本音は聞けなかったかもしれない。同業者にしか言えないホンネもある。でも、地元ホールに僕のことを京都の青年部の連中は決して「業界誌」だとはバラさなかった。まるで事務局の広報部員のようなものだ。そこで書いた記事の見出しは今でも鮮明に覚えている。「一夜にして鉛に化した金の卵」だった。
ところが、千葉市のホテルに一泊。青年部の若い連中(僕も当時ほとんど彼らと同じ年齢ですよ!)が夕食のあと○○町の飲み屋でエスカレートして、そのあとみんなで「よしっ、これからみんなでソープやぁ」と、タクシーに乗せられる。飲み代は青年部会の経費だろうが、ソープともなれば自己負担だろう。誘われるがまま、宮殿みたいな建物の高級(?)ソープに。フロントでみんな一人ずつ金を先払いしている。青年部長に、「あ、あのぉ、ぼ、ぼく、体調が悪いので帰ってもいいですか」。青年部長「金か?オレが出したるやんけ」。い、いや、こんなんで借りを作りたくない。そのまま、まだ店の前に止まっていたタクシーに乗り込んでホテルに戻る。タクシーの運ちゃんにも言われる。「どうしたんですか?なんか店でイヤなことあったんですか?」。
ホテルの部屋に戻ってからしばらくして、急に淋しくミジメな気分になる。あいつら、今頃いい目してるんだろうな、と思いながら、オナってしまったのダ。オナったあとの方がさらにミジメになった。
でも、安心してください。このときの愁嘆は、2年後だったか同じ京都青年部会の福岡研修旅行で、キッチリ彼らに返してやりました^。^)この事件?については、また書き込むことにする。
フィーバー機によりパチンコのギャンブル化が問題になった。新規ファンも増えた。パチンコが「ギャンブル」と言われるようになったのは、この頃からだ。ホールの売上げは急上昇したが、昭和55年からパチンコ店は「鉄火場」になった。よく例に出すが、小川和也氏の「世紀末パチンコ秘話」から。この小川氏は確か兵庫青年部会の研修旅行で札幌に僕が付いて行ったとき、宿泊したホテルの食事会に当時の札幌市青年部の髙木部長と一緒にゲストで同席。札幌支配人会を作った人で、市内ホールの支配人や店長を集めて、札幌方面遊技業組合の現場の意見や情報を上げていた。この人が、組合にも若手経営者を集めた青年部会を作るべきだと提案。部会の顧問か相談役も努めていたと思う。その小川氏との最初の出会いだった。
さて、「世紀末パチンコ秘話」から。「777と大当たりが発生した場合、アタッカーが30秒開き、Vポケットに玉が入らないと必ず閉まるということから、各警察本部は簡単に認定機として許可したものと推定される。しかし、よもやその30秒間にほとんど100%の確率で1個の玉がVポケットを通過すると判断できなかったことは、当局のミスではなかっただろうか」。
当時の全遊協はいずれフィーバーの規制があるとの危機感から、フィーバー設置台数をホール全台数の30%までの自主規制を打ち出す。これが昭和57年。しかしその自主規制もホールの売上げ重視で守らないところも少なくなかった。警察庁の規制が入ったのが昭和59年。このときの全遊協理事長は大阪の松波哲正氏。この人との関係も僕の業界史のなかで大きいものがあるが、これはまた別の機会に。
昭和59年1月31日付で警察庁から「超特電機の特別措置について」が通達された。当時はフィーバー型パチンコを「超特電機」と呼んでいた。通達というのは、各都道府県警察に対してである。3月1日から(5月末までに)規定の措置を講じるというもの。
「10カウント」規制である。開放したアタッカー(大入賞口)は、そこに入賞した玉が10個になれば開放時間制限にかかわらず「直ちに閉止する装置を付ける」ものだ。さらに、アタッカー開放秒数は15秒に短縮。いわゆる15秒10カウント規制だ。
全国で最初にこの改造措置で対応させられた(県警指導)のが千葉県だった。とうぜん全国のホールは5月末までに同じ規制のフィーバー機に改造もしくは入替えなければならない。注目の的だ。いち早くこの千葉のホール視察に出向いたのが京都青年部会だった。僕も当たり前のように随行した。市川、千葉の両市の数軒を視察し、地元ホール幹部からも規制後のフィーバー機の営業内容等を聞いた。ところが、これを写真も撮って雑誌でレポート記事で5、6ページで書いた。凄い反響だった。おそらく自分一人だけで千葉のホールを取材してもここまで地元ホールからの本音は聞けなかったかもしれない。同業者にしか言えないホンネもある。でも、地元ホールに僕のことを京都の青年部の連中は決して「業界誌」だとはバラさなかった。まるで事務局の広報部員のようなものだ。そこで書いた記事の見出しは今でも鮮明に覚えている。「一夜にして鉛に化した金の卵」だった。
ところが、千葉市のホテルに一泊。青年部の若い連中(僕も当時ほとんど彼らと同じ年齢ですよ!)が夕食のあと○○町の飲み屋でエスカレートして、そのあとみんなで「よしっ、これからみんなでソープやぁ」と、タクシーに乗せられる。飲み代は青年部会の経費だろうが、ソープともなれば自己負担だろう。誘われるがまま、宮殿みたいな建物の高級(?)ソープに。フロントでみんな一人ずつ金を先払いしている。青年部長に、「あ、あのぉ、ぼ、ぼく、体調が悪いので帰ってもいいですか」。青年部長「金か?オレが出したるやんけ」。い、いや、こんなんで借りを作りたくない。そのまま、まだ店の前に止まっていたタクシーに乗り込んでホテルに戻る。タクシーの運ちゃんにも言われる。「どうしたんですか?なんか店でイヤなことあったんですか?」。
ホテルの部屋に戻ってからしばらくして、急に淋しくミジメな気分になる。あいつら、今頃いい目してるんだろうな、と思いながら、オナってしまったのダ。オナったあとの方がさらにミジメになった。
でも、安心してください。このときの愁嘆は、2年後だったか同じ京都青年部会の福岡研修旅行で、キッチリ彼らに返してやりました^。^)この事件?については、また書き込むことにする。