【パチンコ業界酔いどれ漂流記】

パチンコ業界酔いどれて、流れながれて浮き草稼業。だれよりもこのパチンコ業界が大好きだと自負しております。ゆえに辛口の批判もしてしまう。酔いどれ仕事人のよもやま話と、むかし話に耳をかたむけてください。

フィーバー15秒10カウント規制

 日記だから、もう自由奔放に書き込もう。別に半生記を書いてるわけじゃないしね。M○タクシーの○木さんが逮捕される?近○産業信用○○から融資受けてる関西のホールは大変かも。イチニさんも?ま、そこまで大げさにはならないよう祈りたい。これ以上、ホールが潰れたら僕らも厳しくなるもの。福島D社の民事再生法適用申請。金融制裁の一環でもあると聞いた。北への資金流出阻止だ。西でもこの連鎖で金融制裁による倒産ホールが出るかも・・・・。Bを入れたら見事にCだった。4号機。恐いお兄さんたちが絡んでいる。ホールは撤去前に最後に抜いて儲けようとBを入れたのだろうが、彼らも最期に抜いてしまおうと、Cを入れて売っていたのですね。

 フィーバー機によりパチンコのギャンブル化が問題になった。新規ファンも増えた。パチンコが「ギャンブル」と言われるようになったのは、この頃からだ。ホールの売上げは急上昇したが、昭和55年からパチンコ店は「鉄火場」になった。よく例に出すが、小川和也氏の「世紀末パチンコ秘話」から。この小川氏は確か兵庫青年部会の研修旅行で札幌に僕が付いて行ったとき、宿泊したホテルの食事会に当時の札幌市青年部の髙木部長と一緒にゲストで同席。札幌支配人会を作った人で、市内ホールの支配人や店長を集めて、札幌方面遊技業組合の現場の意見や情報を上げていた。この人が、組合にも若手経営者を集めた青年部会を作るべきだと提案。部会の顧問か相談役も努めていたと思う。その小川氏との最初の出会いだった。
 さて、「世紀末パチンコ秘話」から。「777と大当たりが発生した場合、アタッカーが30秒開き、Vポケットに玉が入らないと必ず閉まるということから、各警察本部は簡単に認定機として許可したものと推定される。しかし、よもやその30秒間にほとんど100%の確率で1個の玉がVポケットを通過すると判断できなかったことは、当局のミスではなかっただろうか」。
 当時の全遊協はいずれフィーバーの規制があるとの危機感から、フィーバー設置台数をホール全台数の30%までの自主規制を打ち出す。これが昭和57年。しかしその自主規制もホールの売上げ重視で守らないところも少なくなかった。警察庁の規制が入ったのが昭和59年。このときの全遊協理事長は大阪の松波哲正氏。この人との関係も僕の業界史のなかで大きいものがあるが、これはまた別の機会に。

 昭和59年1月31日付で警察庁から「超特電機の特別措置について」が通達された。当時はフィーバー型パチンコを「超特電機」と呼んでいた。通達というのは、各都道府県警察に対してである。3月1日から(5月末までに)規定の措置を講じるというもの。
 「10カウント」規制である。開放したアタッカー(大入賞口)は、そこに入賞した玉が10個になれば開放時間制限にかかわらず「直ちに閉止する装置を付ける」ものだ。さらに、アタッカー開放秒数は15秒に短縮。いわゆる15秒10カウント規制だ。

 全国で最初にこの改造措置で対応させられた(県警指導)のが千葉県だった。とうぜん全国のホールは5月末までに同じ規制のフィーバー機に改造もしくは入替えなければならない。注目の的だ。いち早くこの千葉のホール視察に出向いたのが京都青年部会だった。僕も当たり前のように随行した。市川、千葉の両市の数軒を視察し、地元ホール幹部からも規制後のフィーバー機の営業内容等を聞いた。ところが、これを写真も撮って雑誌でレポート記事で5、6ページで書いた。凄い反響だった。おそらく自分一人だけで千葉のホールを取材してもここまで地元ホールからの本音は聞けなかったかもしれない。同業者にしか言えないホンネもある。でも、地元ホールに僕のことを京都の青年部の連中は決して「業界誌」だとはバラさなかった。まるで事務局の広報部員のようなものだ。そこで書いた記事の見出しは今でも鮮明に覚えている。「一夜にして鉛に化した金の卵」だった。
 ところが、千葉市のホテルに一泊。青年部の若い連中(僕も当時ほとんど彼らと同じ年齢ですよ!)が夕食のあと○○町の飲み屋でエスカレートして、そのあとみんなで「よしっ、これからみんなでソープやぁ」と、タクシーに乗せられる。飲み代は青年部会の経費だろうが、ソープともなれば自己負担だろう。誘われるがまま、宮殿みたいな建物の高級(?)ソープに。フロントでみんな一人ずつ金を先払いしている。青年部長に、「あ、あのぉ、ぼ、ぼく、体調が悪いので帰ってもいいですか」。青年部長「金か?オレが出したるやんけ」。い、いや、こんなんで借りを作りたくない。そのまま、まだ店の前に止まっていたタクシーに乗り込んでホテルに戻る。タクシーの運ちゃんにも言われる。「どうしたんですか?なんか店でイヤなことあったんですか?」。
 ホテルの部屋に戻ってからしばらくして、急に淋しくミジメな気分になる。あいつら、今頃いい目してるんだろうな、と思いながら、オナってしまったのダ。オナったあとの方がさらにミジメになった。
 でも、安心してください。このときの愁嘆は、2年後だったか同じ京都青年部会の福岡研修旅行で、キッチリ彼らに返してやりました^。^)この事件?については、また書き込むことにする。

仕事のクレームの恩恵

 またも弁解になるかも。2週間近くも書き込んでいなかった。実は、過去の業界よりも現在の業界の問題の方が大きく、情報収集しながら、その中で過去など振り返る余裕がなかったということです。一時期は僕のアタマが混乱してしまったくらいですが、この間、ほかにもいろんな問題、情報が飛び込んできた。Kさんが言っていたように、過去を振り向きだすと、現在と未来が見えなくなるというのは、あながち間違いではないかもしれませんね。過去の経験、体験、ノスタルジーに浸っていた方がラクだ。ラクということは、今現在から過去を照射していないことになる。照射していないということは、その過去はすでに、価値を持たない化石でしかない。

 さて、昭和52年10月のホール軒数は約1万軒。総設置台数は約197万8千台。1ホール当たり平均台数は約190台である。台数はともかくも、店舗数は今年後半にその数値に近づくか、むしろ減るかもしれない。当時の台当たり客人口は約57人。電動ハンドルはこの時点で平均48.2%である。まだ手打ち式の方が多かった。店舗・台数ともに(とくに店舗数)は減少していた。東京帝国ホテルで全遊協の創立25周年記念大会が、11月に開催されている。電動式パチンコ普及にともない、すでにカイモノと呼ばれるハンドル固定遊技が「不正使用」として問題化。客の便宜をはかるため、ホールがそれを見て見ぬふりしたり、暗黙に推奨したりしていた(短絡的には店の稼働がよくなる)。僕が取材した三重県などはまさに、固定遊技が当たり前で、カイモノなしで打っていると、まわりの客に白い目で見られた。「このド素人が」という感じだった。20数年も昔。これをいま、警察庁がメーカーに対して固定遊技ができないハンドル構造にしなさい、と強権発動するのは行政のダブルスタンダード甚だしい。お前らがそれをウヤムヤにのさばらせてきていたんだろうと思う。CR時代になっても、である。今頃になってそんなことを言うのなら、もっと前にメーカーに対して固定遊技のできないハンドル構造を要請していればよかったのだ。規則改正もその間いくどかされ、風営法一部改正もされているのだから、そこで法律に盛り込んでおけば、なにも今更どうこうメーカーに対して改善を要請する必要もなかっただろうに。

 たぶん、この昭和52年頃だったか。(青年部会のことはその都度に書くことにしました)エリアレポートで大阪の庄内地区を取材。ところが景気が悪い。どの店も激戦地区だけに店が増えすぎて駅前の数店舗の稼働がいいだけで、他の10店舗近くは閑古鳥が鳴いている状態だった。当然、こういうエリアは取材がはかどらない。客を付けているごく一部の強豪店は、忙しいからと取材拒否。ヒマな店は「見てのとおりだから何も言うことはないよ」という感じで、2、3人の客の話を聞いて切羽詰ってしまった。ホールの声を聞かないと記事にはならない。数店舗に飛び込んで、ようやく、アレンジボール専門店のオーナーが取材に応えてくれた。しかも地域のホール状況を手に取るように詳細に説明してくれた。「これで書ける!」。会社に戻って一気に書き上げた。4ページくらいの記事になったか。タイトルはもう忘れたが、ホールの不況、アポリア状態をそのテーマにしたと記憶している。
 しかも、唯一、話を聞けたそのホールの状況を核にして書いてしまった。雑誌発行後、しばらくしてそこのオーナーから怒りの電話。「この記事読んだ客は、うちには来なくなるじゃないか!どうしてくれるんだ。損害賠償で訴えるぞ」というものだった。業界誌を一般客が読むわけないじゃないか、と思ったが、相手は店を閉めようかというくらい追い詰められていたのである。そのときの僕が在籍していた会社の社長まで電話口に出て平身低頭謝罪したが、向こうは「訴訟する」の一点張り。翌日、当時の編集長と2人で菓子折りを持って謝罪に出向いた。2人とも「すいません、申し訳ありません」だけで相手の怒りをとにかく和らげることに終始した。約1時間くらい謝ってようやく解放され、たしか次の号で謝罪文を掲載したと思う。

 その後、ホールだけでなくメーカー等で未だに僕は同じような経験を繰り返しているのだが、そのときのオーナーはその後、なにかというと僕に電話をしてきてくれるようになった。うちが今月開店するから取材に来てくれ、とか。もちろん、客付きが悪くてもその開店記事は「庄内の人気店オープン!ファン殺到!」みたいな記事だったと思う。そうこうするうちに、大阪の泉大津に新店をオープンした。もちろん取材した。このとき改めて痛感した。この業界の人、とくに在日オーナーの人は信頼と自分の好意を踏みにじった相手に対しては激昂して闘いを挑んでくるが、その誤解を修復して新たな信頼関係を築けば、とことん好意的な付き合いをしてくれるのだ、と。
 そこで反省すればいいのだが、いまだに僕は記事優先で相手がいることを忘れて書いてしまう性癖は治っていない(信頼関係の相手以外で)。

 まぁ、業界誌に「お詫びと訂正」の謝罪告知が少なくないのは、質は別としても、業界気質と記者気質とのせめぎ合いの面もあるのかもしれません。とんでもない一方的な間違い、自己主張の記事もありますけどね。クレームも、ある意味では、記者魂としての勲章だと思うことにしています。現実を現実として書くことにおいて。あまりに相手(特に広告クライアントとしてのメーカー)を気にして記事をつくりあげると、そこにはリアリティがなくなり、フィクションになる。それが高じると「ちょうちん記事」と言われることになります。当時のホールオープン記事などはその典型でしたけどね。もとい!今でもそうですね。

 クレーム処理で誤りに行って、仲良くなってその人間関係がいまだに続いている業界の人たちもたくさんいます。先週、そのなかの一人で、某メーカーを辞めた幹部の人に会った。「オレはその会社のだれそれと付き合ってたわけじゃない。その会社をヌキにしてそいつと付き合っていたんだ。それが、オレが前のメーカーを辞めてもう1年近くになるのに、アイツは電話の一本もよこさない。オレは今はしずかにしているが、業界に再デビューしたときに、絶対アイツには頼まれても会う気はないよ。アンタみたいに、辞めてすぐに、どうしてますかと電話して心配してくれた人間には、絶対にオレは義理は果たす」。僕もべつに先を見越してこの人のことを心配したわけではない。ここが、仕事、商売ぬきでの、本当の人間関係・信頼関係だろう。好きだから気になる。気になるから、なんとか頑張ってほしいと電話もすれば会いにも行く。自分で協力できることがあれば協力してあげたい。
 しょせん、サラリーマンで仕事しているのではなく、自分のために仕事(=人生)しているのだということを、最後に言いたかっただけです。僕の以前の会社での仕事がそうでしたから。ゆえに僕がここまできて今でも同じ仕事に携われているのは、その会社と業界と、出会ったいろんな人への感謝があるからだと思っています。あ~あぁ、最後にカッコつけちゃったヨ!

二世経営者時代の劈頭(へきとう)

 現在の業界を追っていると情報収集での「快感」、それを文章にまとめる「充実感」に陶酔させられる。突如として現れる業界人間群像も面白い。一種の麻薬みたいになっているのだろう。酒の勢いも借りて一気に書き込むことはなんとも痛快なのだ。
 それなのに、先週、意外なことに僕は人生で初めて「円形脱毛症」になった。ストレスが原因だと医師に言われる。僕のどこにストレスなどという、純情無垢な障疾が潜んでいたのだろう。ストレスなぞ常時、アルコールで浄化していたはずなのに。ありえないものが内在していたということの方が逆にストレスになりそうだ。ストレスで円形脱毛症になるのであれば、僕が独立する以前、前の業界誌で働いていた時期に、スキンヘッドになっていてもおかしくなかった。

 背中の豆粒ほどの脂肪もうっとうしいので切除したので、とかく先週から仕事(雑誌の締切)も重なってこの「漂流記」に手がつけられなかった。

 さて、仕事の快感を覚え始めたのが、フィーバー機登場後からだ。結婚後、天理のMさんに誘われて仕事=人生とはなにかを思い知らされて、自分の中で何かが変わった時期。断っておくがMさんに誘われて某師(故人)の話を聞いたが、僕が天理教に入信したわけではない。話を聞きに行ったのはそれが最初で最後である。
 それまで遅刻ばかりして社長に怒られていた(不思議と社長が早く出てくる日に限って寝坊して遅刻していた)。それが自分の意識が180度変わったことで、定時よりも30分前に出社し、トイレ掃除から事務所の掃除、灰皿掃除までを一人でやった。トイレなんて清掃会社の仕事に近いくらい水を流して雑巾で便器まで拭いて、ようやく終わるのが定時前。その頃は僕の後輩社員も3人くらい増えていたが、彼らは出社しても何もやらず、何も言わない。そのなかで唯一、カメラマンの一人が気付いて「いいですよ、僕がやりますよ」と掃除をするようになった。彼とはコンビで記事の激戦地レポートをやるようになる。その後も(彼も僕より2年ほど前に会社を辞めて独立)付き合いを続け、僕が独立してからも写真や撮影でずいぶん助けてもらったものだ。今でも自分の会社の月刊誌表紙を彼に撮影してもらっている。
 僕が独立した初年も、前の会社の部下が数人、連絡をしてくれて「手伝いますよ」と言ってくれた。現に取材やFAX情報送信も手伝ってくれたりした。他人というのは、自分を照らし出す鏡なのだと、これは僕の座右の銘にも近い。それを教えてくれたのがMさんに紹介された師だったのだと思う。
 業界での「師」も、それから増えた。友人も増えた。それらが増えたことで仕事も広がり始めていった。一人の師と一人の友人が3人、4人の業界の付き合いの幅を広げてくれ、そこからまた、さらに広がる。当然、情報提供者や指針をただしてくれる業界の「師」も増えた。僕の最大の師が、全遊協の当時の副理事長だった栃木の柳さんだ。あとで考えると「そうなのか」という面もあるが、当時は少なくとも「こういう業界を守り抜こうとしている人たちのために頑張ることが自分のためにもなる」と崇敬したものである。今でも、人間として、柳さんは僕の業界における師であることは否定したくない。

 友人、あるいはその後の付き合いを継続でき、あるいは僕を応援しようという人たちを自分の人脈として最初に構築していったのだなぁと思うのが、青年部会だった。もちろん、後に自分のその気持とは裏腹に裏切られたりした人もいる。それはこの業界の常であることも勉強させてもらったことにおいて、やはり僕の「業界のために」の意識の濫觴になっているのだ。だから、今でも、裏切られても「他人は自分を映す鏡」だと思うことにしている。
 ようやく前回の続きになる。兵庫青年部会の研修旅行に最初に同行したのが、たしか浜松だった。貸切バスで朝に集合して、昼過ぎに浜松着だったか。なにせ、最初だけに、バスの中は当たり前だが青年部員ばかり。彼らはお互い友達みたいなもので、ワイワイ喋っている。僕は青年部長の小松さんと組合事務局の人間しか知らない。座席の横の人とも初対面。まだようやく29歳か30歳過ぎの頃。とかく人みしりも強い性格だ。会話ができないことで、「風邪」を理由にほとんど寝たふりをしていた。ところが何人かが喋りかけてきてくれる。最終、仕事を終えて1日目のホテルで、エレベーターの前で某部員が僕の緊張を解きほぐすかのように冗談を交えながら語りかけてくれて、「これからホテルのラウンジで飲むから、一緒に行こう」と誘ってくれた。もちろん誘われたら断れない立場だ。ラウンジでもさほど喋れなかったが、その場で初めて彼らが胸襟を開いてくれて、研修旅行後の会合とかでも話しかけてくれるようになった。
 あぁ、なるほど。彼らも僕と同じように初対面のしかも外部の業界誌記者には最初は遠慮していたのだと気付いた。逆に僕がもっと喋りかければよかったのかも、と考えたが、いやいやこの業界はそんなものではない。むしろバスの中で僕が寡黙であったことが、彼らに「あれ?こいつは違うぞ」と思わせたのかもしれない。実はこの経験が、次の京都青年部会でも大いに生かされることになった。
 しかも、彼らは営業現場の第一線で奮闘していたのだ。「二世経営者時代」という雑誌でのインタビューシリーズを始めたのは、それからしばらくしてからである。

 

青年部会専属時代(1)

 回想録なんて書き出すもんじゃない。記憶が輻輳してくるし、記憶も勝手な自分の思い込みもあって年代が食い違うこともある。つまり、記憶というのは、どちらかといえば論理的で数学的なものでなく、ほとんど感性的、感覚的であるものがいかに多いかということだ。「時間」の感覚はない(あるはずだがあくまで感性的な時間である)。その瞬間その瞬間が脳の奥の方に焼き付けられているだけであり、それを引きずり出すのに、時空的に整理する困難さを伴うものであることが、これを書き出してなんとなく分かってきた。時間と空間は同居しないのだ。自分が「この時間だ」と思えば、その空間はそれに無理にも同調されていくこともある。同調された後で、「いや、どこか矛盾している」と脳の中枢神経が補修命令を伝達する。そういうものではないか。いわゆる脳の「錯覚」を、脳が冷静に機能し直して補正してくることもある。って、俺はなにを書こうとしてるんだろう?

 そこで、自分の人生の転機、すなわち習俗的な「時間」をひとつの記憶整理の起点にしてみた。たとえば、結婚である。僕が結婚したのが昭和53年(1978年)の2月だ。とすると、昭和49年5月にこの業界に入って、結婚してようやく落着くまでの業界歴(記者歴)は5年に満たないということになる。その5年間、何をしていたのかを振り返ることもまんざら無駄ではない。どちらかといえば趣味と酒と遊びに比重がおかれていたと思うが、それなりに業界経験も重ねていたはずだ。

 先ず、その後の僕の「業界のために」の仕事理念の濫觴(らんしょう)になったに違いない兵庫、京都青年部会との付き合いを語ることにしたい。
 最初は兵庫青年部会である。結婚前だから、昭和52年くらいからか。兵庫が50年12月に、京都が51年6月に設立されているから、僕が青年部と出会ったのは設立後間もない頃だっと、今になってはじめて理解できた。(その当時は青年部会はすでに昔から活動していたと思っていた。考えると、僕の業界記者としての本格的活動と青年部会活動とはなぜか時期的にも重なっていたわけである)
 青年部長のインタビューが最初(その前に青年部の定時総会取材はあったが)。兵庫の現理事長である米田義一氏が初代部長で、神戸新開地のホール(アサヒ)の上の事務所に伺った。失礼だが今と違っていかにも雑然とした1フロアの狭い事務所だった。あとで知ることになるが、この米田さんは地元業界では血統のいい将来の兵庫県組合を担って立つホープだった。当時の理事長が米田さんの叔父にあたる三宅さん(故人)だった。次に京都青年部会の初代部会長の水田和夫氏にインタビュー。当時の水田さんは山科でホールを共同経営していた。2階事務所にアポを取っていったのに、ゴルフ雑誌を読んでいていきなり「誰?なんの用事?」と言われたことを今でも憶えている。2代目部会長の北村さんも同様の対応をされた。「なんや?何の用事や」。これ、京都の伝統なのかと思った。保守的で外部に対しては容易に胸襟を開かない。でも、打ち解けて信頼してもらえれば、そこからはフリーパスどころか、これでもかというくらいに気をつかってくれる。同胞まではいかないが同じ仲間意識を持ってくれた。僕が、兵庫の紳士的対応よりも京都の業界にのめりこんでいくのは、そういう下地に、「業界」の人間的魅力を感じたからかもしれない。

 2代目部会長(兵庫は小松さん)になってから、僕はこの2青年部会の研修旅行にまで業界誌として唯一、オブザーバー・取材担当・専属カメラマンとして随行していくことになるのだが、この研修旅行随伴が意外な成果を与えてくれるようになる。
 ということで、この青年部会との付き合いを通しての回想をしばらく続けて書いていくことにしよう。
 

釘師時代

 前回書こうと思って、とんでもない方向に行ってしまった。すなわち先週書き込んだ後に消えた内容。どうでもいい「こぼれ話」ですが、当時の業界の雰囲気は感じられるかもしれない。

 ちなみに、「もぉ~すぐ~♪は~るです、ね~ぇ~♪」というキャンディーズの唄は、あれは名作である。(ドウデモイイコトデスガ・・・)

 で、こぼれ話です。
 ある日、ホールの入替え開店取材に行く。尼崎に近い場末の各駅停車駅前(阪神電車)のホールだ。ホール取材で大阪と神戸などの地理はかなり詳しくなっていた。電車は使うが、あとは早めに目的地に行って歩く。その店の環境も知りたいから。僕のホール取材の書き出しは当時、立地説明がスタンダードになっていた。レポート記事の場合も、まず、その目的地の市役所に入って人口や所帯数を調べた。あとは初めての地区だと、その地域の歴史・風土を役所の案内チラシなどを持ち帰って活用した。もち、郊外だと止む無くタクシーに乗るが、運ちゃんにエリア情報を聞くことも常だった。意外にタクシー運転手はパチンコが好きでエリアホール情報を知っている人も多かった時代だ。
 さて、その開店取材。夕方6時開店です。当時はほとんどがこの時間帯の開店。新店の場合もそうだった。後年のように正午開店とか2段階時間開店もないし、まして前日のグランドオープンなんてほとんど経験にはない。さらに、女性客のみのオープンなんて相当あとの時代。連チャンブームのときも少なかったと記憶してるが、CR時代になってからではないだろうか。つまりは、どの店も同じ金太郎飴の機械が並ぶようになってから、他店との差別化やイベント戦略で生まれてきた開店様式だったと思える。
 またも戻る。その開店取材。だいたい開店30分前くらいにはその店の中に入って、とくに新台のコーナーを客が居ない状態で撮影する。その間、店の店長などに台数や機種名などを取材するのだが、この店の場合、入った時間帯が早すぎたのか、店内には業者などの人もまばら。ただ、シーンと静まり返った店内で、ひとつの島の台で釘を叩いている初老の人間がいた。あ、この人が店長だろうと声をかけた。
 第一声「お前、ワシを知らんのか」である。あとで分かったが機械を導入したメーカー代行店の社長。マルホンの大阪代行店。実はこのマルホンから出たフリーの釘師は関西ではかなり多いだけでなく、そのゲージ調整技術は評価されていた。連チャンブームの頃がピークだったのではないか。後年、僕が独立して仕事を始めてから2年目くらいに、その代行店出身の釘師と出会うこととなり、その釘のノウハウが新機種の評価と分析にも大きく貢献することになる。機械のFAX情報がそれで飛躍的に会員数を増やした。
 連チャン時代からと思うが、当時、大阪チロリン村(元町)で石を投げたら釘師に当たると言い伝えられたくらいだ。
 ただし、「ワシを知らんのか」と言われた僕は、(なんやねん、えらそうにしやがってこのオッサン)としか思わなかった。まだ関西遊商などの組合取材なんて出してもらっていなかった。この人は実は関西遊商では役員さんで古参の業者社長だったのである。ただし、このときの印象が強すぎたのか、会社にも集金やその他で伺い話したことがあるが、最後の最後まで好きにはなれなかった。「ワシを知らんのか」というその自己主張が端々に見えてしまったからだ。もちろん故人である。息子さんが今は社長である。

 ホール開店取材で出会った人間もいる。これも神戸の駅前商店街ホールの開店取材。そこで撮影していたら、工事関係者らしき人が手招きして「これ、これを撮ってや。この製品はネ、こうこうこうで・・・・・」と説明を始める。内容は忘れたが製品名は「ベースロック」。今でいえば台の施錠装置だったのか? ところが後日この人の会社まで行き、その製品紹介記事を書くことになる。広告も出してくれた。同年代だった。長居競技場のあるJR阪和線長居駅前商店街の中ほどに自分の手作りの事務所を出していた。やがて市内の寺田町の片隅に事務所を移したが、フロア面積は長居の約3倍くらいになった。この人が、人間的に肌があったというか、そのオヤジギャグに侵されていったというか、現在は当時とは立場も違う僕の会社の嘱託社員の辻川さんだ。当時の彼の会社名は「ツジデン」。辻川電機の略称だったのか。でも自分の会社の忘年会などに呼んでもらったりした。

仕事と人生を変えてくれたMさん

 先週消えた書き込み。折角書いたのだから、もう一度書き直す。資料や自分の書いたものの整理は頗る苦手。一度書いたものは「排泄物」みたいに考えてきたから、あとで躍起になって捜しまわることになる。いい加減に反省すればいいようなものだが、書き終わるとカタルシス状態になってしまう。すなわち「不要」。撞着がない。そのくせ、書いたものが表に出ずに消えてしまうと我慢できない性分である。

 昭和50年当初に戻る。本格的に僕が業界にのめり込むのはフィーバー、パチスロ登場からしばらくしてだが、今、年次的に振り返ると、そうでもないなと思う。昭和52年くらいからそれなりに頑張って仕事(取材)していたんだなぁと安心した。もちろん、仕事もしながら飲んだくれていたのも確かである。業界での仕事の揺籃期ということか?
 いつ頃だったか、おそらく昭和55年過ぎだと思うが(急に僕の仕事が忙しくなった。業界が面白くなったということもあるが)会社の先輩記者が辞めた。たしか朝日新聞神戸支社の記者が射殺された事件。この事件の捜査で兵庫・大阪の警察のローラー作戦が実施された。当然、左翼系元活動家もその捜査のアミにかかる。先輩記者はそのアミに囲い込まれたらしく、会社にも捜査員が聞き取りに来た。それを察知した彼は自ら会社に迷惑をかけないため退社。学生時代は核マル派の活動家だった。でも僕は彼のことを記者として尊敬しており、自分もこの会社の前は、赤軍派関連(京大新聞)社長の広告代理店に勤めていたし、学生時代も友人関係や時代背景もあって僕も左翼的思想が濃厚だった。吉本隆明や高橋和巳などをよく読んでいた。
 で、この先輩がしばらくしてから、僕に電話してきた。そのとき彼は、同じような業界誌の編集長で頑張っていた。「コインジャーナル」(現アミューズメントジャーナル)。「僕はここももうすぐ辞めるんで、僕の代わりにこの会社の編集長で来る気ないか」というもの。昭和52年からのカラオケブームでカラオケに突出した新聞も出していた。迷ったが、そのときは僕も結婚1年目。嫁の腹には子供も宿っていたが、それよりもこのパチンコ業界がすごく面白くなってきていた頃。断った。今では断って正解だったと思っている。その先輩が言っていたのは「うちの社長って、昼間から酒飲んでるんだよねぇ、長くないよ」。ギクッ!今やそれと同じことを僕がやっているのはどうしたことか。
 会社的は辞めたい、でも業界からは去りたくないという狭間にいたと思う。後年に再会することになるが、驚いたのは僕と同じ大阪の仲良くしていた若い業界誌記者の結婚式で会う。なぜその若手記者と僕の先輩記者とが関係があったか(出版関係の仕事だったか?)忘れたがその結婚式で出会ったのである。ともあれ、先輩の彼が会社を辞めたことにより僕の仕事がすごく多忙になったことは間違いない。編集長はまだ居たが、年齢も高く自分のコラムだけ書いて、ほとんど外に出ることは少なくなっていた。
 結局、僕が編集長になる。業界のいろんなトップの人との出会いこそ、この仕事を早く覚えて業界に入り込む大きな活動源と信じて動いた。
 当時、僕は嫁と自分の親との軋轢で悩んでいた。これが仕事に熱中したいけれども熱中できない捷疾にもなっていた部分がある。当時、大阪の遊技業組合は今の東京の組合と同じで、毎月の理事会には在阪業界誌を取材で同席させていた。その理事会のあと、同業の業界誌の仲良くしていたMさんから「ちょっと話したい」といわれて喫茶店で喋った。家庭のストレスで頭がフラッとすることもしばしばだった。仕事も夢遊病者みたいに動いていただけだったのかもしれない。
 そのときのMさんの第一声。「もっと人生意気に感じてくれよ」だった。この人、いったい何を言いたいんだろうとそのときは思った。でも、僕の精神的な放恣状態をこの人は見抜いていた。この人もその業界誌の嘱託社員だったが、実質は記事では編集長みたいなものであり、その業界誌の中身を革新させていた(年齢は僕より上だが、業界では僕が先輩)。
 でも、この人は天理教(異端派の部類)。後日、その人に勧められるまま、彼の奈良の家まで行く。「天理教のその先生の話だけは聞く。でも、神棚の前で笹木を持って踊るなんて、死んでもやる気はない」と言った。彼は「いいよ。話だけ聞きにきてくれよ」。ところがその異端派先生の話(テープを流すだけ)を聞いてから僕の人生も仕事に対する行動・考えもガラリと変わった。これを説明しても長くなるし分かる人しか分からないと思うので割愛する。終わってから彼の家にその先生が来て、一緒に食事になる。他人は僕だけだ。しばらくしてその先生が帰るとき、僕に「ちょっと一緒に私の家まで来ませんか」と誘われる。断ったが、あとでMさんが「お前すごいことやで、あの先生が誘うなんて滅多にないことやぞ」と言われた。そんなもんかと、そのときは思っただけだが、なんと、その後の僕の人生はこのときから180度以上も転換することになる。考え方、精神力、その持ち様ですべてが変わった。宗教は否定する方だが、このときの話は精神哲学というか人生哲学をあらためて知らされたという思いがすごく強い。人間自分の中にこそ宇宙があると信じた契機だった。
 あのとき、Mさんの誘いに乗らず、その先生の話を聞いていなければ、僕のこの業界経歴むしろ人生も大きく堕落していたのかもしれない。業界をやめていたかもしれないし、やめていても納得できる仕事は出来ていなかったかもしれない。
 なぜなら、僕はその先生と会ったのはそれが1回だけ。Mさんは信奉者だから当然ずっと会い続けてきている。でも、僕はその先生が言いたかったことをMさんが曲解しているなと、その後しばらくして思った。「ワシは運がいい。すべて仕事も人生も運や。人との出会いや」と言う。「人との出会い」はその通り。でもその出会いを「運だ」と勝手に思い込んでしまうのはどうか。その運を出会った相手と共に変えていくことの方がより厳しい試練なのではないか。
 この業界あえていえば僕の人生のあり方を変えてくれたMさんにモノ申すのも何だけれど、折角の人生の方向を照らし定めてくれる人間をごく身近に置きながら「運」のひと言で自分の能力に転嫁したMさんには、ことあるごとに「先生の教えをアンタは全然理解してないよ」と批判した。そのうち、人間は所詮、路傍の人間のつぶやきですら、自分がそれを箴言、神言と聞けば自分は変われるのだと考えるようになった。これは仕事の取材やインタビュー然り。自分が一番恵まれていて自分こそ一番だと思えば、その時点でそ人間の包容力も発展性も人生の幅も消滅しているのだ。そういう人間には広がりも深さも消滅していることに気づいてほしいな。

 って、実は消えた先週の「余禄」を書くつもりが、とんでもない方向に話が行ってしまいました。当然、すでにかなり飲んでいます。
 いずれ続きは書きますが、このMさんと、昭和56年に全遊協理事長に就任した松波さん(大阪)との意外な話も、ネ。

マックス角野さんとの出会いと日電協創設

 先週、書き込んでたら最後にすべて飛んで消えてしまった。こぼれ話なので、また書き込む機会もあるだろうが、酔っ払ってるとタマにこういう失敗がある。Mさんに「週に2回はブログ書いて下さいよ」と言われた。へぇ、この人も読んでくれてたんだとちょっとビックリ。なるほど、30代~40歳過ぎくらいの人は昭和50年代の業界は知らないはずだと考えたら、自分の年齢がイヤになった。

 オリンピアマシンについて以前に書きましたが、日電協20年史を読んでみたら、東京オリンピックが開催された翌年、昭和40年に「風営法認可のオリンピアマシンが東京・銀座のアンテナショップに登場」と記されている。当然、僕が業界に入る前のことなので、「オリンピア」が東京オリンピックに因んで名づけられたのも納得。おそらくこれが沖縄でのオリンピアマシンブームの原型の機械なのか?

 自分のHPに書いていた「回胴式業界相関図」をすべて引き出そうと見てみたら、なんと、あの力作が最後の「余談」のみ残って、それ以前の肝心なデータがすべて消去されていた。ムッカツク。プリントアウトしたものがどこかにあったはずだが、出てこない。
 さて、フィーバー登場前の昭和52年に、大阪、次に和歌山県公安委員会の風営法認可を取得したタテ型オリンピアマシンが登場して、ホールに導入されていく。すなわちマックス(当時、角野博光さんが製造)の3メダル5ラインの「ジェミニ」だ。同じ時期に、西陣からテレビ付きパチンコ(テレパチ)、スロットマシン付きパチンコが登場した。テレビパチンコは僕も東京のアンテナ店に取材に行った記憶があるが、ほとんどパチンコを打ちながらテレビを見るなんて客はいない。テレビに集中するとパチンコがおろそかになる。台上の幕板部分にテレビが据えられたものだったと思うが、これでは首が疲れる。スロット付きパチンコは記憶がないが、フィーバーのドラムのヒントになっていることは確かだろう。つまり、数字・絵柄合せで大当たりという今のセブン機の草創期と言える。
 大阪に最初に登場した「ジェミニ」だけに、東京の業界誌よりも取材と掲載も早かった。マックスは工場は市内の巽(たつみ)にあったが、本社を谷町9丁目の交差点角の近くに移した。池さんのバーリーサービスに近いせいもあったのだろう。しばらくして池さんは同じ谷町筋の近くに「バーリーポンド電子学校」を開設する。これも取材したが、いわば遊技機の電子化の長足の進歩に、技術者を養成するためのものであり、スロットマシン開発者がここから出てきた面も少なくないだろう。
 大阪だけでなく和歌山でも風営法認可オリンピアマシンがホールに導入。ジェミニだったかは忘れたが、これを販売して角野さんと協同で進めていたのが、メーカー名はエボンの山脇さん。この人は後年にはエボンを潰してパチスロ業界の表からは消えることになるが、技術者としてはピカイチで、遠隔操作でも裏でその名を轟かせることになる。健在である。昭和52年といえば「普通の女の子に戻りたい」とキャンデーズが解散した年である。

 正式名称は「相関図」に書いたのだが、記憶にないので(取材メモもない)省略する。上六と鶴橋に近い小橋町あたりに、日電協の前身になる任意団体のメーカー組合が出来た。現アビリット(旧高砂電器)の濱野さん、マックスの角野さん、エボンの山脇さんなどで作った組合。会長が濱野さんだった。でも実質は角野さん。組合事務所に何回か訪ねた。マックスにまだ在籍の現日電特許社長の徳山さんとの出会いも確かここがスタートだ。
 オリンピアマシンが今の箱型の「パチスロ」として登場するのが、フィーバー登場と同じ昭和55年である。この年、9社で日電協が設立される。山口百江が三浦友和との結婚で引退した年。9社とは、マックス製作所、エボン、高砂電器、パイオニア、尚球社(パチンコ玉等のメーカーでパチスロ製造に参画、現岡崎産業)、パイオニア、瑞穂製作所(パチンコメーカーでパチスロに参画)、東京パブコ、ナック製作所、平戸屋。
 ちなみに、日電協初代理事長は濱野さんということになっているが、警視庁からキャリアOBを招へいするのに、正式設立までの期間を濱野さんが暫定理事長ということだった。いわば初代理事長は警視庁から招へいされてこの年12月の臨時総会で就任した吉武辰雄氏である。この最初の総会は日本橋に近い「とり菊」で開催されたと記憶している。角野さんには何回かインタビューして、その後、会社も近いということもあり幾度か通った。池さんに1回、吉武さんに1回インタビューしている。日電特許の当初に徳山さんにも一度「10分間インタビュー」で1ページコラムでの取材をしている(これも僕の企画コラム)。今でも徳山さんは「オレがインタビューをこの業界で受けたのは、あんたの10分間インタビューが最初で最後や」と言ってくれる。よほど印象に残してくれているのだろう。それもマックスの角野さんとの付き合いがあったからこそである。パチスロ業界を築き上げた創業者は角野さんだと、今でもその歴史観を自分の中で否定することはない。

 やはり、きちんとした年次資料があれば、当時の記憶も鮮明になる。

組合取材デビュー

 昭和50年5月に、全遊協青年会が発足したことはすでに触れた。発起人の組合ではほぼ「支部組織」としての青年部会が設立されている。宮城、福島、山形、新潟、栃木、千葉、大阪、兵庫、京都、広島、香川、宮崎、富山など。ただほとんどが有名無実。部会を設立したもののメンバー不足や活動実態がないものになる。ところがこの年の12月に設立した兵庫青年部(現兵庫県遊協理事長の米田義一氏が初代部長)、翌51年設立の京都青年会(現グリフィン会長、リム総研会長が初代会長)が、その後、全国で唯一その地道な活動を続けていった。新潟もその後、新潟市青年部会として活動している。
 この兵庫、京都の青年部会との出会いが、僕の業界での意識と仕事を大きく変えてくれた。故に、青年部との出会いが僕の業界デビュー第二期とも言えると思っている。しかもその人間関係が後年、全国青年部会復活への働きかけで自身をその影の仕掛け人みたいにして動かすとは、当初は予想だにしなかった。

 業界の組合関係の取材に行かされたのはいつくらいだったか、よく覚えていない。ともあれ総会シーズンで人手が足らないというので、新米記者の僕が右も左もわからない総会に行かされたのは、最初が兵庫の組合の総会だったと思う。まだ昭和51年か52年だったか。青年部会が発足しているなんてことすら知らない。とにかく写真をとって長時間の総会がやっと終わって帰れると思ったら、同業の先輩記者が「これから宴会だから、出たほうがいいよ」と言うので、まだ組合員数も少ない時代。旅館の大広間か料理屋の団体用広間に移動させられて、組合員と向かい合っての飲み食い。こりゃたまらん、と早めに切り上げて退散したら、数日後、会社に現金書留封筒が届く。いわゆる「お車代」だった。そんなものが出るなんて知らないから、業界の総会ってそんな高額の車代が出るのだと感心しただけ。そこで納得。先輩の業界誌記者が宴会も出た方がいいよと教えてくれたわけの真実を。
 その次の総会取材がたしか熱海の全商連(まだ任意団体で協同組合でなかった)。業界誌記者も含めて人数は少なく、会議は机をロの字型での総会だった。会長挨拶のときは一斉に記者がその近くでカメラを構える。当然、僕も構えていて、会長がマイクを持って喋ろうとした瞬間、構えた位置よりサッと前の方に姿勢を突き出した。途端に、うしろから先輩の記者が「おい!なにするんだ。あんたの頭が邪魔で写真撮れなかったじゃないか!」と怒った。そのときは(なに言っとるんじゃ、撮ったもん勝ちやないか)と思いつつムカッとしたから先輩もクソもない。「あ、すまん」の一言で終わらせた。それでも席についた彼は仲間に愚痴を吐いていて、その数人の記者が白眼で僕を攻撃してきた。
 (なるほど、同業記者とは喧嘩したら仕事がやりにくいんだ)と初めて、総会デビューの僕は頭に記録した。でも、その記者とはその後、今でも(業界誌の社長になっている)懇意にさせていただいている。

 業界というのは、ホールだけで動いているわけではないことが、ようやく総会取材で理解でき始めた頃である。組合取材というのも、業界誌の重要な(むしろその時代もメーカーと同様に主体)なのだと気づかされた。
 そこで、僕は組合に入り込むためにどうすればいいかを考えた。全遊協や日工組、全商協などはすべて社長か編集長、先輩記者が取材に行っていた。僕ができたのは地元組合だ。でもいきなりその理事長や役員には近づけない。そのとき頭の中でひらめいた箴言が「将を射むと欲すれば、先ず馬を射よ」だった。そこから関西遊商、当時の西部遊商(神戸)、兵庫、京都、奈良、大阪の遊技業組合の事務局長と仲良くなるために、雑誌の企画で「事務局訪問」コーナーを作り、先ずは事務局の女性事務員にアタックした。顔写真とあわせて趣味や理想の男性像などをコメントで掲載した。実はそれまでも、ホール取材で今こそスタンダードな企画になっているが、ホールカウンターの女性従業員紹介コラムをやっていた経験が生きたのかもしれない。
 「馬」からでなく「鞍、鐙」だったのだろう。でもこれで、西部遊商や奈良、京都組合の事務局長とも親しくなった。自由に電話もでき出入りできるようになった。それだけ、業界の情報が僕の中で広がったのである。調子に乗って、これを発展させた事務局長インタビュー、→青年部(事務局長が青年部担当だった)→青年部長インタビュー、→理事長インタビューへとエスカレートしていくのである。

フィーバーブーム

 フィーバーについて。777が揃うとアタッカーが開放というセブン機の嚆矢(こうし)、最初の機械だった。以前に書いた小川和也氏の著書「世紀末パチンコ秘話」には、「従来のパチンコ機の概念を完全に打ち破ったもので、まさに衝撃的な機種だった」と書いている。「アタッカーが30秒間開きっぱなしになる。その間に中心部のVポケットに玉1個でも通過すれば再び30秒間開くために永遠にアタッカーは開いたままになる」「ドラムが回転するための入賞穴のアケ、シメによって調整できる。その他の穴については全然玉が入らないように調整すればよいという機械だ。こんな釘の調整はこれまであり得なかったことだ」。

 新潟県長岡の「白鳥」(エース電研の直営店)でそういう営業が行われ、全国からそこにホール関係者が視察に詣でた。あっという間に全国のホールに普及していく。当時、この機械によりパチンコ玉の生産が追いつかず、鋼球メーカーもかなり儲けたのではないか。
 ただ、打ってる途中で興奮して心不全でバッタリ亡くなったり、救急車で運ばれる年配客の事例も少なくなかった。新聞にもいくつかその事件が掲載されたり、4年前のパチスロ爆裂機と同じで、トバク機だからサラ金で借りて家庭崩壊などの現象もあった(ちょうどサラ金が出始めた頃か)。歴史は繰り返すのである。他メーカーからも三洋「パニック」、平和「ブラボー」などのフィーバー機が登場してくる。このときの機種名が、メーカーブランドみたいになって、今でも三共はそのセブン機種には必ずフィーバーをを冠しており、CR時代になってもブラボーやパニック、エキサイトなどがメーカー機種には付けられていた。

 一方、加熱していた「インベーダーゲーム」はこの昭和54年に警察庁が少年非行防止とその実態調査にようやく動き出し、景品を提供、トバク行為をする売買業者や店への規制を強化した。またゲーム機業界もその運用と営業に対しての厳しい自主規制を打ち出した。ブームの沈静化である。インベーダーブームでパチンコ店に閑古鳥が鳴いていると言われたのに、フィーバー登場と前後して主客が入れ替わった感じだった。なんとも皮肉だが、やがて加熱すれば冷やされる。これはフィーバーもまた同じことだった。

オリンピアマシンとフィーバー余談

 沖縄の米軍駐留地内で、米兵の娯楽としてスロットマシンが設置されていたのが最初で、沖縄でオリンピアマシンのゲーム店が出来たのはそのあと。でも、当初の機械は失敗もあった。押しボタンを押して60秒間リールが止まらない。客に図柄の配置を読まれた。押しボタンが押し込まれたままの状態で回り続けたからである。これで旧東京パブコ(アークテクニコ=現在は倒産して存在しないが、社長の古田さんは健在、大阪内本町のP社にいる)、高砂電器(現アビリット、故濱野さん)は一度、この時期に倒産している。この押しボタンの改善に、大阪大学にリール停止の秒数を短くする実験を依頼し、航空電気工業のタッチスイッチを使って問題解決したのがマックスの故・角野さんだった。3メダル5ラインを考案したのも角野さん。自分のそれらの特許を、パチンコの正村さんのように、メーカーみんなで共有して仲良く使おうというので、日電協創立2年後くらいに、今の日本電動式特許㈱をつくり、そこで特許を管理させるようにしたのも角野さんである。パチスロがここまで成長し定着したのは角野さんの功績は大であり、業界で「神様」とあがめられても不思議ではない。
 でも、共有理念でみんなを助けてきたこの人は、その同じ同業メーカーに足をすくわれることになる。マックスアライドの堺工場(オーゼキ)で亡くなったのも、最後は「自殺」だったと聞いている。
 ゲーム機のことは当時の僕はうとかった。でも、スナックやミニキャバなどによく通っていたので、それらの店には必ず、ジュークボックスが1台か2台は置かれていた。まだカラオケなどない時代。これもゲーム機メーカーが製造販売していたもの。その後、パチスロ登場にあわせて「大東音響」(現藤興)というメーカーが参入する。ここもゲーム屋さんで、大阪の大東市でミュージックボックスを主体に製造していた。大東市の大東とミュージックボックスの音響をその社名にしていたわけだ。元は四国のフナイ電気・工場長の笹尾さんとその部下が興した会社だった。もちろん、ユニバーサル販売(当時の社名は違う。現アルゼ)、サミー、コナミ、ナムコ、セガなどほとんどが、このギャンブルマシン、ゲーム機時代にすべてが何らかの関わりを持っていて、コナミの上月さんなどは一時期、東京パブコの営業マンだったこともある。

 よく知られていることだが、三共「フィーバー」誕生秘話。開発の人間が何かの手違いでアタッカー開放してもアタッカーが閉まらなくなり玉がどんどん出てしまった。メカ的なものかどうか、いずれにせよ失敗なのだが、「このままでいいじゃないか」と上司が言ったのかどうか、いちど入賞してアタッカーが開けば無制限で玉が出てくるフィーバー機が誕生したのだ。
 機種名も、開発現場の若いスタッフがアメリカのヒットレコードを蒐集していて、その中の歌詞の一部を採用したらしい。先のオリンピアマシンの失敗とは逆で、これが失敗のまま製品化し
て業界空前の大ヒットとなり、業界の第3期黄金時代をつくりあげる。瓢箪からコマ。たぶんに発明の歴史にはこういうものが少なくなくない。

 もちろん、発売して当初は売れなかった。ところが、「これはイケル」とエース電研の初代の
武本社長が、新潟の直営ホールに導入してから、アッという間に全国のホールに導入されていった。当時の玉箱では放出出玉が間に合わない。バケツに入れるという光景があちこちで見られ、
補給も間に合わない状態だったから、これを改善していたエースの補給装置も飛ぶように売れ
た。後年の藤商事のアレパチ「アレジン」のときもそうだが、燎原の火のように導入が進んだ
フィーバー機の導入を見合わせたり、遅らせた店は、あとで「もっと早く導入していたら」と歯
噛みしたくらいだ。10カウント規制されてよく、ホールでそういう反省を聞かされた。
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