【パチンコ業界酔いどれ漂流記】

パチンコ業界酔いどれて、流れながれて浮き草稼業。だれよりもこのパチンコ業界が大好きだと自負しております。ゆえに辛口の批判もしてしまう。酔いどれ仕事人のよもやま話と、むかし話に耳をかたむけてください。

オリンピアマシン、放蕩時代、フィーバー登場

 電動ハンドル認可は昭和48年。僕が業界誌に入社した昭和49年に電動役物が登場。アレンジボールはすでに昭和47年に認可されていた。ネットで調べた歴史。でも、大阪はどれも導入が遅かったような気がする。1、2年はその普及が遅れていたのではないか。確かに電動役物はあったと記憶しているが、後年のICを駆使した電役時代(昭和56年以降)に比べると、まだそれほどゲーム性に大きく影響を与えるようなものではなかったと記憶する。どういうものだったか、打った経験があるのによく憶えていないのである。むしろ昭和56年からのゼロタイガーを嚆矢とする羽根物、メテオ(平和)や西陣のルーレットなどの電役の記憶が鮮烈だからかもしれない。

 沖縄では昭和40年に、まだ米軍占領地で日本復帰がされていなかったこともあり、オリンピアマシンが登場していた。カジノのタテ型スロットマシン。レバーハンドルをガチャンと操作して回す方式のやつだ。このオリンピアマシンの元祖が、アメリカのバーリー社製スロットマシンである。ここから、日本のゲーム機輸入業者・ギャンブルゲームマシンメーカーが参入してくる。
 昭和52年に大阪で(大阪が最初には理由があるが、いずれ)公安委員会の認可による風営法認可パチスロの原型が登場する。オリンピアマシンそのもので、まだパチスロではなかった。大阪、和歌山でホールに導入された。たしか、東京オリンピック開催にひっかけて「オリンピア」マシンという名称が付けられたと聞いている。そのバーリー製スロットを沖縄、日本に持ち込んだのが、現在も大阪日本橋の近くにある「バーリーサービス」の池さんとマックスの故・角野さん達。数年前に、僕の会社の会員HPに連載で「回胴式業界相関図」を書いたので、そちらに詳しいが、そこでは時系列(年代)が正確でなく、あらためてまとめ直したいと考えている。なんとも凄烈な世界だ。現在の回胴式遊技機メーカーのほとんどが、元はギャンブルマシンから出ており、あるいはその人間関係たるや、正に壮観である。その一部が、パチスロ誕生を機に、7号と8号メーカーに分岐されていったという流れもある。

 さて、昭和53年、そのゲーム機業界で空前の大ヒットを飛ばしたのが「インベーダーゲーム」である。これによりパチンコは大打撃を受けた。危機的状況である。当時、会社のビル1階の喫茶店にもインベーダーゲーム機が数台設置されており、よく遊んだ。ほとんどの喫茶店やスナックなどに入ったのではないか。
 この頃、まだ20代ということもあり、仕事よりは自分の趣味と酒にうつつを抜かしていた時期でもある。会社もよく二日酔いや友人とのご乱行の祟りなどで遅刻や無断欠勤、ずる休みした。これを懲りずに繰り返していたと思う。よく、社長が我慢強くクビにもしなかったものだ。その意味では、心底、感謝している。あの頃クビになっていたら、今の自分はなく業界でそれらしく生きてはいなかっただろう。この昭和53年、無断欠勤で友人と昼間から遊び歩いていたとき、よく流れていたヒット曲が「泳げ、タイヤキくん」だ。世情もなにか退嬰的で、毎日毎日をあくせく真面目に会社に通い続けることに倦んでいたような気がする。
 でも、それなりに会社に出ればきちんと仕事をしていた。ただし「取材に行ってきます」と会社を出ては連絡もなしに直帰して、行きつけの谷町9丁目の地下のスナックに通っていた。そこのママに可愛がられて、ジーンズなどを買ってもらったりご馳走になったりした。ママと飲み歩いてマンションに泊めてもらい、翌朝に出勤ということも数回あった。ひどいのは3日ほど続けて欠勤、ママと一緒に夕刻にスナックに出勤したりして。ゴメンナサイ!社長、今はすごく後悔して反省しております。よくぞこんな無頼漢の青二才の面倒をみていただきました。前回に続いて感謝しても余りあるものがあります。

 さて、昭和55年があの業界復活の三共「フィーバー」ブームです。確か、前年の秋か冬にその展示会があったのだが、発表当初はホールの評価は悪かった。「こんな機種、大したことはない」というものがほとんど。スロットのリールをパチンコに取り入れた初のドラム式役物。オリンピアマシンにヒントを得たのかもしれない。そういえば、スナックなどには当時、百円玉投入で当たれば百円玉がジャラジャラ出てくる「ロタミント」(ロタミントン)という機械があり、僕もよくやった。すなわちギャンブルマシンである。正式にはロータリーゲーム。パチスロに似ているが、盤面は全面図柄のルーレットで、百円玉投入(何枚でもOKで、投入枚数の当たり図柄倍率で現金が払いだされる)で盤面をランプが回転する。ストップさせて当たり図柄で払い出し。これも一時期で数店舗、大阪の公安委員会認可をとって風営法認可の遊技機として設置されたことがある。もちろん現金でなくメダル投入、メダル払い出し。でもすぐに「ギャンブル性が強すぎる」というので禁止になった。これは僕が、導入1号店(大阪の天神橋筋商店街の店)を取材。京橋にあった日清工業というメーカーも取材した。

 さて、これから、ようやく、記憶もまだぼけていない「漂流記」第2章に入れそうである。

感謝、感謝、さらに感謝しても足りない恩恵

 いざ書き出すと、確実な資料照合がないと安易には書き込めない金縛り状態に陥る。職業病なのかもしれません。日記だから適当に“回想録”でいいのかもしれないが、まぁ、そこが業界の歴史の再点検という意味では、このブログも自分にとっては無意味ではないのですが。

 前回の昭和50年代頃のパチメーカーの話で抜けてるメーカーがあった。大阪には藤商事がアレンジボールで存在していました。当時のアレンジはメタルゲームです。遊技機基準の改正でアレパチはもう、製造できなくなった(製造しても営業では使えない代物になるはず)が、当時のメダル式アレンジに戻されたということになります。雀球はそのアレンジの発想から生まれた遊技機でした。で、大阪にはもう1社、パチメーカーがあった。瑞穂製作所です。業績不振でユニバーサル販売(現アルゼ)に買収され、今は社名もミズホになっているわけです。この瑞穂製作所の専務だったのが堺さんで、その息子さんが現在、大阪の販社の「新和産業」です。そういえば名古屋に当時、「ナショナル遊機」というパチメーカーもあったなぁ。

 前にも書いたと思うけど、当時の僕は取材だけでなく、大阪元町の主に販社(機械屋さん)に月に数回、広告代の集金に行かされた。今のような銀行振り込みなんてほとんどなく、しかも支払いは手形がほとんどだった。小切手の支払いなんて極めて少なかったと記憶している。業界紙というのはこの業界だけでなく、他の業界でも、集金に毎月でかけて名古屋、東京や地方を集金巡業するという社主が多かった。小さな新聞社だと、その巡業で広告代を回収するのはいいが、交通費だけでなくついでに各地で飲み歩き、会社に戻ったときは集金のほとんどを使い果たしていたなんていう笑い話さえ聞いたことがあります。

 で、ある日、いつものごとく、元町に集金に行かされる。つい最近そこに事務所を出したばかりのメーカー代理店があった。前回触れた「大阪太陽」という会社。僕はそこに集金は初めて。「集金に来ました」と領収書を渡そうとしたら、いきなりそこの社長(故・高橋さん)が烈火のごとくに怒りだした。しかも「なんや、お前んとこは!」なんで怒ったのか記憶が薄れてアイマイになっているが、おそらく支払日よりも早く来てしまったのか、金額が最初の約束より高かったのか、そこらへんだろう。ともかく(わっ、この会社ってヤクザ系なんか)とびびったが、激情型の人間はすでにある程度はホール取材で体験していたので、わめき散らす高橋さんを尻目にその会社の電話を借りて僕の会社の社長に電話で確認をとる。それで説明してなんとか最終的に理解してもらった。結局、集金はできなかったのだが。
 まさか、これが最初の高橋さんとの長い付合いの始まりだとは、そのときは夢にも思わなかった。商売熱心な人でアイデアも既存の発想を超えたものがあった。当然、自社の販促ツールはどんなに金をかけても旺盛だった。しばらくして、僕がその会社の専属担当みたいになって、新機種などの案内ハガキやチラシ、カタログなども請け負って製作するようになる。
 平成元年に僕がそれまでの業界誌を辞めたその日に、すぐに挨拶に行った。「お、あんたもこれから独立してやるなら金が要るやろ。広告代の前金や」と言って、その場で小切手を切ってくれて「すぐ銀行に行っておろしたらいいやん」と、裏版まで押してくれたのである。広告半年分の前金400万円だった。どれだけ助かったかわからない。独立後も、以前と同じように販促ツールの製作を僕に任せてくれた。プラスアルファの収益源を与えてくれたのである。
 人間関係。僕が今でも自分の長い業界体験の中で信念と「座右の銘」にしているひとつの事例に過ぎない逸話でしかないが、この人にはいろんな意味で今でも感謝している。そういう感謝できる業界人に支えられて、こんな僕でも、業界デビューから30年を超えてもまだ第一線でなんとか仕事が出来ているのだと、さらにさらに感謝しても余りあるものがあるのです。
 

アレンジボールと雀球の誕生

ホール人間群像の続きを書こうと思っていたが、同じところをうろうろしていても先に進まない。膠着してしまうので、視点を変えながら先に進むことにする。でも、いろんな面白い店長や部長、幹部たちに出会ったことは有難いと今でも思っています。天体望遠鏡を寮の屋上に設置して天体観測している店長さんもいた。その天体写真を借りて広告のイメージ背景に使わせてもらったりした。戦後からホール業務に従事していたベテランの営業部長が老齢で引退したときも、その自宅まで通って昔話を聞いた。記事にもしたが、僕はその業界誌にはもう在籍していないので、当時の自分の書いた記事は読めない。自分の財産であるが、その財産の所有権はすでに僕の手元にはないのである。唯一、憶えているのは大阪梅田界隈は、戦後は湿地帯で、そこを埋め立ててバラックのヤミ市が建ちならび大阪の復興の原動力になったこと。ゆえに「梅田」の語源は「埋め田」であると。
 ホールでは昭和50年以降、人材確保と待遇改善に努力していたのですが、「今でもそうだよ」と先日、ある業者に言われたことがある。某ホールの二世経営者に過去に言われたこと「従業員はどんどん辞めてくれた方がいいんや。給料上げなくて済むやろ。新入りはまた、初任給の安い金で済むやんけ」。なんちゅう経営者やと思った一方で(なるほど)と、妙に感心した記憶もある。店長など営業の中枢の社員は経歴と実績が必要だが、それ以外の現場業務の従業員は「使い捨て」ということだ。すべてのホールがそういう意識を持っていたわけでなく、末端従業員の教育、待遇にも力を注いで現場の後継者育成を経営の理念に据えるところも多かったが、前記のような使い捨て意識のホールもまだまだ多かったといえる。こういう店はそれが伝統みたいに凝固してしまっているから、今でも旧態依然とした営業に終始している。三世などの改革派営業責任者が登場してこない限り、あるいはその経営者が何らかの意識改革をしない限り、店・会社は変わらない。それでも営々と店を続けて来られたこともこの業界の7不思議のひとつではあるが。(ちなみにこの二世経営者のホールは一時期10店舗くらいまで広げたが、今は3店舗か4店舗に縮小されている)

 当時の在籍していた業界誌の編集。文字はタイプライターで、すぐに写植に変わった。その写植文字をいちいち切り張りしながら台紙にレイアウトしていく。自分の好きなように出来上がるそのプロセスが楽しく、充実感もあった。取材し写真を並べて指定し、文字をレイアウトしていく。その創造が「先ずは取材から」ということだったから、ある意味ではレイアウトして、雑誌を自分が作り上げるという目的のためにも次々と自分で企画をたて、取材を先輩記者よりも多くこなそうとしたりした。
 パチンコ機は電圧の違い、シマ構造の違いで同じ機種でも。関東枠と関西枠に分かれていた。三共の機種などはそれにより「赤坂号」「茜号」の2種類あった。茜号が関西枠である。どちらだったか(関東枠か?)が枠のタテ幅が若干高かった。しばらくして、パチンコ、スマートボールのほかに、雀球とアレンジボールが登場する。今のサンセイR&Dは当時は三星工業というメーカー名でスマート、アレンジを製造していた。さとみ製作所(現サミー)がアレンジ、雀球製造でゲーム機分野からこの業界に参入してくる。後年のパチスロ参入組よりも早かった。神戸の「京極」というメーカーから出てきた人間たちが新たに立ち上げたのが太陽電子(現タイヨーエレック)である。佐藤現会長や大阪太陽の高橋さん(故人)、九州太陽の丸田さんなどである。ここもアレンジボールで参入してくる。正確な登場年は資料を見ないと書けないが、僕が業界デビューして数年後だったと思う。
 正村のほかに、パチメーカーの老舗が「銀座」。ここから分かれて出てきたのがニューギンやニュー一銀など。銀座の「銀」をそのため暖簾わけで使っている。「豊国」(ほうこく)というメーカーも昭和60年代前期まであった。豊丸との関係は知らない。平和と三共がもともと西陣(ソフィア)から分かれて出来たことはすでにご存知だと思う。実は、業界誌もまた、元を辿れば同じ新聞社だったというものが少なくない。たとえば大阪が本社の老舗3誌の創業者は元は日刊の業界新聞からみんな出てきている。布施駅前のホールの2階にその新聞社はあったらしい。いちばん旧い新聞だろうが、それよりは東京の「遊技通信」がもっと旧いかもしれない。今の社長は3代目である。

 

ホール人間群像

ホール取材ではいろんな人間と知り合うことができた。その人間群像を。

 大阪庄内のホール部長。元は奈良県の店の店長をしていたそうで、業界歴は長い。たびたび店に行って話を聞いたが、昔話もよく聞かされた。奈良の店の店長時代、暴力団とのからだを張ったやりとり。店にトラックを突っ込まれたり、自分で所有していた散弾銃で、彼らが数人で押しかけて来たとき、数発ぶっ放したそうだ。昭和20年代くらいの話か。「あいつら、飛んで逃げたわ。それから二度と店に来なくなった」と自慢げに話していたが、いくぶん虚飾されてるなと後でわかった(当時は僕もまだ20歳代だし、人の話とくに年配者の話はすべて鵜呑み、感心するだけだった)。でも、この人は、連絡がとれなくなったと思ったら、店の金を持ち逃げして行方不明になっていた。「え!あの人が!」とショックを受けたことを憶えている。それだけ店の営業のことや業界の歴史を教えてもらっていたからだ。
 そういえば、昭和50年代、いや60年代まで、よく業界誌にも「全国指名手配」の告知依頼が警察署からあった。家族からの行方不明捜索依頼の告知も多かった。ホールに勤務しているはずだから心当たりの方は連絡を、という類。前回も書いたように、一般の会社に勤められずドロップアウトしたり、家出人などがパチンコ店に勤めることも多かったのである。それだけ「履歴書」「保証人」なしでも、雇用してくれる業種であったと言える。後年、出会うことになる札幌支配人会会長だった小川和也氏はその著書で書いている。「従業員の一部は一般の企業で勤められなかった人や、はみだされた者が多いといわれている。気の毒といえば気の毒な人達である」。そういう人たちの吹き溜まりという面も否定できなかった時代である。
 
 ある取材で大阪寝屋川駅前の店に飛び込み取材に入って名刺を渡すと、そこの店長が「ちょっと待って」と営業部長を呼んで戻ってきた。その部長、いきなり「お前んとこはなぁ、こんな記事書きよって」と頭から湯気を出すくらいに怒り出した。なにか勘違いしている。よくよく聞くと僕の所属する業界誌でなく別の業界誌のこと。「いや、うちはコレコレで」と説明してやっとわかってもらい、そのあと、人間が変わったように穏健で紳士的対応に変わる。帰るときそこの店長が耳打ちしてくれた。「あの人、大阪でも有名なパチンコ営業のプロやで」。その店でも顧問格での建て直しで入っていたようだ。自分でも言っていた。「ワシも近々にも、ホールを経営したいんや」。事実、この数年後、店を出した。パチギンの南さん(すでに故人、息子さんが店をやっていて大阪青年部会の現部長)だった。「パチギン」は「パチンコ銀行」のこと。当時も説明してくれた。「パチンコという商売はネ、お客さんが負けても、そのお客さんの金を一時的に預かってる銀行みたいなもんや。いずれ負けたお客さんに還したらなあかん。店が吸い取ったままではこの商売は成り立てへんのですよ」。
 いずれにせよ、この業界はそれだけからだを張って命をかけて商売し仕事している人が多かったせいか、自分の信念や信頼、理想を裏切られると、ちょっとしたことでも瞬間湯沸かし器のように怒髪天を突く人が多い。でも、その理想や信頼にこちらが真摯に応えて、同じ業界愛のようなもので琴線が合うと、すごくいい人たちであり、人生まで影響を与えてくれる教師にもなってくれる。
 そういう人間関係のルーツのようなものは、この業界の背骨のようにして、今に至るも同じように続いているのである。もちろん、裏切ったり信頼関係をすぐに反故にしたりという人たちも少なくないが、それは自分がその中で取捨選択しながら成長していけばいいだけの話である。だから、僕の業界経験では、最初に怒られクレームをつけられてから、それに真摯に対応することで付き合いが始まった人もすこぶる多い。業界、いい出会いをたくさん与えてくれたと感謝している。
 
 
 

浮き草稼業だったパチンコ店員

新年慶賀。数少ないアクセスいただいている皆様。本年もよろしく。
ということで、漂流記の3話ですが、自分の頭の中で時系列はメチャクチャ。過去をたどる作業も、結構疲れるものです。まぁ、そのあたりはご勘弁を。

 僕がこの業界に入った時期、おそらく昭和49年だったと記憶している。それ以前に平和の機械を端緒にして、近畿(特に京都、滋賀が最初)で遊技機(パチンコ=一部メーカー)の不買運動が起こっていました。この年にようやくその不買解除が行われたが、しばらく当該メーカーとホールとくに近畿との関係はギクシャクしていた。因みに当時は1ホール1メーカー、多くても2メーカーの台で統一というのがスタンダードでした。それだけメーカーとホールの関係は強固だったわけです。
 ホールのオートメーションにおける特許問題もあった。確か「有賀特許」だったと記憶する。つまり、この当時、それまでの手作業による玉補給から、台ごとの還元装置さらに島単位の還元へと発達していた時期だった。僕が学生の頃はまだ関西では手打ちハンドルが主流で、島の中に従業員が入って裏で玉を流し補給していた。負けた腹いせで台を蹴って帰ろうとしたら、島の幕板部分が開いて従業員が顔を出し「コラッ!なにするんやっ!」と怒鳴られたこともある。それだけ、ホール店員の作業は今とは比較できないくらいの重労働だった。島の中は蟹歩きで移動するだけの狭い空間で、夏場などはシャツ一枚で汗だくで玉積みをやっていたはずである。全国でいちばん最後に電動ハンドルを解禁したのが大阪で、昭和50年か51年。保守王国と言われるだけのことはあるが、そう言われだしたのも電動ハンドル導入が原因か?

 とうぜん、僕が業界デビューした頃までは従業員の定着率は全国的に悪かった。労働力確保のため、ホール建物は2階建てで上が事務所と従業員寮というものがほとんどだった。食堂付である。賄いの従業員も雇用していた。
 いわば当時は浮き草稼業というのがパチンコ店の従業員。全国のホールを渡り歩く人たちも多かった。ホールが募集して面接の際、タバコ1カートンをその場で支給したり、支度金をなにがしか渡す店も少なくなかった。それだけを目当てに募集に応じてやって来る人間もいる。カバン一つだから、それを従業員寮に置いても次の日には来ないという輩も多い。就職しても気にいらなければ、3日とか4日ですぐにトンズラしてしまう。寮生活だから人間関係で嫌気をさして消えるというのも多い。
 夫婦者がホールの雇用条件で重視される。女性はカウンタ業務。夫婦で雇えばそう簡単に辞めないというのもひとつの理由だ。が、いろんな人間模様も聞いた。夫婦で就職したが、しばらく勤めていたら女性の方がその店の店長と駆け落ちトンズラとかの話も少なくなかった。
 こんなことは書きたくないが、浮き草稼業の従業員も多かったから、ホール店員の質もそんなに良いものでもなかった。真面目な人たちは定着するが、それ以外はどちらかといえば人生に脱落したか、脛に傷もつ人間など、昭和40年代までのパチンコ店員はそういう人種が少なくなかったのである。従業員寮も粗末。当時「タコ部屋」とまで呼ばれたくらいだ。

 ただ、オートメーション化の長足の流れはこれらを徐々に改善していく。従業員不足で悩まされ続けてきたホールも、それなりの給与アップ、待遇改善を経営の根幹に据えていくようになった。

 話は変わるが、昭和50年に全遊連青年会が発足した。初代会長は四国香川の平尾和義氏。大阪の現理事長である段為梁氏や宮崎の前園氏なども青年会メンバー。これにより各府県組合での青年部会設立が始まるのだが、実際に設立されて活動したのは兵庫、京都だけだった。
 で、この青年部会との出会いが、僕の業界デビュー第2期になるのだが、それはまたいずれ書くことにする。

減台による景品スペース拡充(番外編)

 昭和50年当時は、2年前のオイルショックによる世界的な物不足とインフレ不況の時代。全遊連(今の全日遊連の前身)は不況打開のため、貸玉料金値上げと景品単価の最高額を2千円に引き上げることを警察庁に陳情していた。当時の組合のスローガンは「景品持ち帰り運動の推進」「暴力団の介入阻止」「過当競争の防止」が主。東京、山口が離脱しており組織の一本化による「総親和」もそのひとつだった。当時の資料を見ていたら、面白い記事があった。座談会で某県の理事長がこんな発言をしていたのです。↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(景品限度額や貸玉料金を値上げすれば遊技機設置台数を増やす必要もなくなるという意見に対して)単に機械だけ減らせばいいというのではなく、減らしたスペースはそのままにしてスーパーのようにいい景品をたくさん置いて伸び伸びした雰囲気をつくり、家庭の主婦でも若い女性でもやりたくなるような、そんなシステムに変えなきゃだめだ。それにはまず、台数を減らすことの埋め合わせをして値上げをしようということなのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 当時の貸玉料金は3円、景品最高額は前回書いたように千円でした。で、この発言は正に現在の状況に通じるリアリティとポテンシャルを有していることに、軽い感動を覚えてしまったのです。当時はホールの客層に女性客はほとんどいません。若い女性が一人でパチってるなんて想像もできない時代でした。
 で、なんでこれが現在にも通じるのか。パチスロ5号機へのシフト、遊べる遊技機シフトでホールにおける目玉となる稼動機種、回収機種が目減りし、これが(特にパチスロ)ホールの減台傾向を一部で加速させています。上記の発言とはその減台の意味は異なりますが、先にホール5団体が決議し、要望書を出した「賞品の取りそろえの充実」において「減台スペースによる景品陳列拡張」要望がある。軽微な変更として公安委員会への届出を必要としない取り扱いにしてほしいというもの。警察庁はこの要望に基づいて、今月20日に全国警察にその取り扱いについて指示を出しているのです。減台したスペース活用についてはホールも苦慮するところ。8号営業活用やインターネットカフェ等の転用も出ていたり、パチスロ減台分をパチンコで埋め合わせるなども考えているようだが、パチスロ減台→パチンコ増台は逆に店の収益バランスを崩してしまうおそれがあります。
 そこで、この発言を読んで、台数縮減・売上げと利益縮減なら、減台スペースを景品コーナーに拡張すれば、それこそ縮減した規模の稼動と売上げ・利益に見合った適正利益確保と稼働率を担保できるようになるのではないか。景品最高額の値上げは到底無理ですから、値上げ分をスペースを広げて客の多様なニーズの応えればいいのではないか。換金より店の利益は落ちるが、8号転用などに比べれば無駄なコストも許可申請もいらない。膨れすぎた店舗スペースをそのまま確保して、適正台数に戻しての営業を続けるなら、景品コーナー拡張もひとつの手段であり「業態転換」というニーズに合った方法なのかもしれません。

 ≦ということで、今回は「番外編」ということにしておきます。≧

ホール現場取材から得たもの

回顧録なんて書き出すと死期が近い?なんてふと思うが、こういうのは仕事を引退してから余生で書き継ぐもんかもしれない。でも、今の自分を振り返る意味でこういう時間は大事だと勝手に納得しながら、納豆を食う(ダジャレですから)。

さて、第2話です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 業界デビューした昭和51年は、ホール店舗数は1万軒強、パチンコ、スマートボール等の遊技機設置台数は191万台強。ほとんど100台未満~300台規模の店で、500台を超える店なんて20数店舗しかなかった。業界は不況の真っ只中。店舗数は今より少ないが、過当競争が始まっていた。景品の最高額は千円。電動ハンドルが認可されたが、まだ関西では手打ちハンドルが主流だった。ブームが下火のボウリング場が郊外立地を中心にパチンコ店を開業。いわゆる郊外パチンコ(当時はカーパチと呼ばれていた)の走りである。ファン人口がこの頃、3千万人と発表されていたと思う。
 昭和52年に貸玉料金が4円に、景品の最高限度額が1,500円になった。

 さて、この頃、僕はホール開店取材、エリアレポート取材と正に第一線の現場記者に専念させられていたわけである。開店取材の場合は、前もって導入機種メーカーや販社などがオープン時間に居てそれほど難しい取材でもなかったが、飛び込みの取材は気苦労が多かった。右も左もまだよく分からない若造だから、いきなり店に入るのもびびっていた。いちど店の中をぐるり一回りしてから外に出て、周辺の状況を観察しながら気を落ち着かせてから、再度店に入り「マネージャーさんいますか。こういうものですが」と名刺をカウンタのおねえちゃん等に渡して面会を求める。なぜか当時はとくに関西のホールでは「店長」でなく「マネージャー」という通称が当たり前だったのである。朝の開店時や、一定時間で間隔をあけてあの「軍艦マーチ」の曲が流れていた。今になれば懐かしいホールのスタンダードBGMである。
 でも、開店でも名刺を渡すと「うちはそんなん要らないから。いま忙しいから」と一発で断られることもしばしば。つまり、新聞販売店の勧誘と間違われたのだ。同行の先輩記者がそれで退散しようとしたのを、僕がその店の店長に「いや、違いますから」と縷々説明してようやく取材に応じてくれたこともあった。業界誌というものが、今の情報媒体の価値をあまり持たず、マイナーなメーカーなどの広告クライアント主義で商売していた時代だったからだ。「ホールのために」という記事はほとんどなく、メーカーのため、販社のため、広告主のため、がスタンダードな業界誌であった時代なのである。あとで先輩記者に言われた「押しが強いねぇ~」。
 とんでもない。その頃の取材で入ったホールのマネージャーなんて、少ないけれども、どう見てもそのスジの人みたいな手合いも少なくなかったのである。右手に手首からグルグル包帯を巻いていたり、小指がなかったり、夏場などシャツからクリカラモンモンが覗いていたようなお方もいらっしゃった。顔に切り傷痕が残っているお方も目撃しました。
 いちばんビビッタのは歌舞伎町レポートで、飛び込みで入った200台くらいのパチンコ店。夏場の暑い盛りだった。若い従業員に名刺を渡して案内されたのが、店の奥の倉庫みたいな暗い事務所。壊れかけた扇風機が回っている中で、その店のマネージャーが上半身ハダカで団扇を使いながらカップ酒を飲んでいた。昼間である(たぶん、この時の印象がトラウマで残っていて、僕も昼間から酒飲みながら原稿書いたりするようになったんだろうか?)。いきなり「なんじゃい!なんの用や!え?そんなこと知るかいっ!帰れ!」・・・・断られて逆に安心。飛ぶようにその店を出た。あんな倉庫みたいなとこに監禁されたらたまったもんじゃない。
 でも、強面のそういう類の店長でもじっくり取材して話を聞いているうちに、なぜかにこやかになって親しそうにいろいろ答えてくれることも多かった。そういう店長とは、その後も何かのネタの取材のときに出向いて取材することも増え、たまに取材を終えてそのお店でパチンコを打っていたら、事務所から出てきて、一箱分の玉を僕に呉れたり、景品のタバコを1カートン呉れたり、わざわざ会社に電話してくれて(当然、携帯電話などありません)話をしたり、業界のことを聞かれたりという親しい人間関係に発展していくのです。
 東映がパチンコ店を経営してたりして、そこの店長が併設映画館の無料サービス券を必ずまとめて呉れたりして、取材のあとはその映画館でよく日活ロマンポルノを観せていただいたものです。もちろん、ホールが併設する喫茶店や飲食店ではよくおごってもらいました。
 今おもうと、当時は釘調整もやってたからホール店長はみんな、経営者や幹部と下の従業員の狭間に立たされて孤独でストレスもたまるポジションにいたのですね。だれも自分の愚痴や意見やパチンコに賭ける熱意を理解してくれない。そこに僕のような第三者の若造が話を聴いて、教えを乞うように取材すると、彼らにすれば初めて自分の声をまともに真剣に聞いてくれる相手が出現したようなものです。
 そのことをしばらくして気づいてから、僕のホール取材も、人間との付き合いをその目的に据えてのぞむようになったのです。仕事=人=人生だと思うようになったのです。それほどに、この業界での仕事の幅が広がれば広がるほど、この業界ってまるで魅力ある人間たちの宝庫だなと思うようになった。「こんなに面白い業界はほかには絶対にない」と。これが、僕がこの業界に骨を埋める決意を持った最初の感動だったのかもしれません。

業界デビューまでのプロローグ

なぜか日記が書けなかった。ブログって肩肘張って書くべきもんでもない。某ネットの「達人日記」と会社の有料サイトとの差別化をこのブログで、とかなんとか年が迫って、来年に向けて考えている次第である。そこでふと想いついた。自分のこのパチンコ業界での足跡を、ここで書いていくのもいいかなと。記憶をたどっていくのも、脳の活性化になるかもしれない。

ということで、負け組妖怪さんにまたもお願い。タイトルを変えておいてネ。ぅぅ、どういうタイトルにしようか・・・・・「パチンコ業界酔いどれ漂流記」。うん、これにしよ~っと。

ということで、第1話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
24歳。大学を7年も行って中退し、京都大学のOBの会社(あとで知ったけど元赤軍派に近い連中がやっていた広告代理店)に就職。すぐに辞めた。そのあと2、3の広告代理店をブラブラしたが性に合わず、ある日、新聞で「娯楽産業」という雑誌社の募集広告を見て、さっそく面接に。早い時間だとまずいという直感が働いたのが功を奏したのか、近くでパチンコを打って1万円ゲット。その足で夕刻にその会社のドアを叩く。その日の夜に採用の電話。ゴルフとか釣りとかレジャーの雑誌かと思いきやパチンコ業界誌だった。
翌日から出社。当時で初任給7万円(2ヶ月か3ヵ月後に1万円アップした)。初老の寡黙な編集長、同じくらいの年代のデザイナー、僕より3歳くらい上の編集記者の3人が社員。つまり僕は4人目の新米社員となったわけである。
取材に出させてもらったのは1年くらい過ぎてから。先輩記者に付いて回ったり、パチンコ村(別名、チロリン村と呼ばれていた)浪速区元町の業者のところへ広告代の集金が主な仕事。そういや、チロリン村も昔の面影は消えてしまった。
当時の遊技機販売店(まだパチスロはありません)は狭いそれこそ木造小屋みたいな事務所が多く、数少ないビルのフロアはほとんどメーカー支店だった。今みたいな自社ビルなんてなかった。で、そういう支店や業者が集合していたのがチロリン村であり、これは東京の東上野も同じ。なぜ元町に集中したのかは知る由もないが、おそらくメーカー支店がそこに生まれたことで、販社や関連業者が磁器に吸い寄せられるように集まったのだろう。ホール関係者が新機種を見にいくにも、その場所がパチンコ関連会社で占められていた方が都合がいいし、商売としても共存できるというわけですね。
 (ホラね、こういう話だと書き込みも長くなるでしょ)
で、しばらくしてから、編集長に見込まれたのかどうか、ホール開店取材だけでなく、企画記事(連載)を任された。エリアレポートです。パチンコ店が集合している繁華街や商店街の今でいえば「激戦地レポート」みたいなもの。この連載を始めた頃はまだ郊外の取材はありませんでした。郊外が増えていくのは昭和50年を過ぎたくらいから。モータリゼーション(車社会)の波で、駅前や中心街から、幹線道路の新設も相俟って、商圏移動が始まったのです。まだ大店法も施行されていなかったと思う。ただ、このレポート取材が、僕にとっての業界デビューだったのかもしれない。そこで知り合ったホール店長や主任など、個人的な業界人との付き合いが始まったのですから。
 続きはまた次回に。(!、これなら継続して書き込めそうだ^^ネッ!)

業界バブル崩壊が地域商店にも?

㈱TDM(東京データマシン)が不渡り、24日に民事再生法適用申請。

ここは元々は大都販売(製作所)出身者が作った会社で、補給、玉貸機などの開発・製造販売メーカー。資本金5635万円。負債は約26億3800万円強。
で、今どき、新規参入しても市場が飽和状態なのに参入したプリペイドカード会社「アストカード」がある。元オムロンのMKシステムズの社長が元同僚をうまく唆して作ったメーカーだが、なぜか保通協のユニット試験をパスしたのだ。背後に警察大物OBの噂も聴かれるところだが、このアストの搬送システムを請け負っていたのがこのTDM。

帝国データバンク情報では「規則改正の影響で」と解説されている。「規則改正の影響で新規受注が伸び悩む」と。実は大手パチメーカーもここに、補給の開発提携での取引があった。このメーカーがTDMを負債の面倒をみて買収に動いているという話も聴いたが、当該メーカーに問合せたら「買収はない!」とのこと。ま、広報窓口のコメントですから。
問題はアストですね。各代理店まで作って、これから本格的な営業展開という矢先。カードにとっては搬送はひとつの生命線にもなります。まぁ、ICカードですが、システム的にどういうものかは僕は取材してないのでよく分からないけど、搬送を使っていたのなら致命傷。アストも債権者の一人になるはずですから、打撃は大きいでしょうね。
おそらくアストは他のカード会社にはない何か将来的な新機能を有していた(ということも聴いているのですが)ので、かなり強気だったのですが、保通協検査を通れば某一般企業から1億円の出資も約束されてたらしいのですが・・・・。

業界どこでもバブってきています。
これからいい目を見そうなのは、景品関係と遊技機の8号転用業種&業態転換コンサルタントでしょうか?

昨夜は大阪の魔女と二人で、大国町の寿司屋へ。パチンコ村(大阪元町)界隈も最近、けっこう居酒屋とか寿司屋、喫茶店やペットショップ等が店を閉めてきている。パチンコ村だけに、この業界の影響なんでしょうか?

神のような青い空は戻ってくるのか。

もみじ3

蔦もみじ
 古代の空は
  神のいろ

 久しぶりに一句。今の地球の空の色おかしいもん。天というのも、古代の人々は「神」に等しい存在でしかなかった。もっと、コバルトブルーの、いやもっと濃い神秘的な青だったのかもしれません。蒼天という言葉もある。碧い(あおい=緑に転化))という漢字もある。
 そして、緑に溢れた大自然のなかで、神や魔物と共に生活していたんだろうと思う。
11月なのに、地球温暖化のせいか、まだコートも要らない暖かさだ。おかしい。地球、自然が狂うと人間も所詮生きもの、地球の微粒子だから、やっぱ狂うんですね。自分で自分の首を絞めていってることに気付かない。気付いても自分一人の力では無理だとあきらめてしまう。
斯く言うワタクシもそうですが。

 さてパチ業界。来年6月末にすべてリミットを合わせています。大衆娯楽への環境整備。すなわち手軽に安く遊べる遊技機開発と導入促進。このところ遊べるコーナー設置店も増えてきています。不正根絶。そして景品の取りそろえの充実(換金率の低減)。
 先の規則改正の経過措置期間が来年6月末で完了するというだけでもなさそう。新たな規則改正を警察庁はすでに準備しているのかもしれないのです。
 おそらくは不正対策における遊技機規格の変更だと思われるが、今の遊べる遊技機開発促進を早期に推し進めたい行政としては、景品も含めての大きな改正もやるかもしれない。スロットの大幅な改正はないにせよ、パチンコは・・・・こんなこと書くと、業界を混乱させるガセネタ流しやがって、と攻撃の的になる。2、3で情報確認したけど、それでも間違いないとも思えるフシがあるんですね。「いま、そんなこと書くなよ、混乱するから」とも言われました。
 背景にはカジノ法制化の動きがある。某セミナーで健全化推進機構の河上和雄さんが喋っていました。「警察庁も国際化の影響や政治的圧力を受ける」と。たとえば換金の3店方式について、いくらワンクッションおいても、刑法の賭博には当たらないという業界解釈(警察解釈)は通用しない、国際常識あるいは一般常識とは言えない。「将来的に考えると国際化の進行やカジノ法制化の動きの中で、パチンコ・パチスロの換金がトバクではないという弁解は通りにくい。今のまま換金方式が続けられると思うのは甘い認識だ」というのです。

 いよいよ、ですね。大衆娯楽に戻らなければ、カジノとの差別化ができずにカジノ法との調整のなかでもっと厳しい規制が加えられるかもしれない。
 お父さんが仕事帰りにちょっと遊んで、お菓子やタバコに交換するなんて昔懐かしい庶民の娯楽に戻れるとは思わないが、時代に合った新たな産業改革の大きな波はすでに足元まで来ているのです。
 今、倒産、撤退、民事再生などホールの軒数、台数は急速に減りつつあります。来年の6月以降はさらにこの傾向が進むと予測される。来年後半にはホール店舗数は1万軒を切ることになるかもしれない。僕らの仕事にとってもこれは大きな痛手だが、社員のKくんが呟いた。「ホールと設置台数が減れば、需要と供給のバランスがよくなって、逆にお客が安定して増えていくかもしれませんよ」。なるほど。頭いい。僕は悲観的にしか考えていなかった。たしかに、ヘビーの客しかも限られた客数に対して、パチンコ・パチスロ台数はあまりにも多すぎた。膨張しすぎたのです。台数が減れば店も他店との過当競争に走らず、自分の店のマイペースでの営業に専念できる。限られた客の奪い合いで利益・売上げ追求しなくても済む。適正利益でそれこそ地域に密着した遊べる大衆娯楽を提供していけるだろう。
 店舗数も9千軒くらいになっていいのかもしれない。台数も1店舗平均300台くらい多くても400台くらいでいいんだよな。昔の青空に戻るかもしれない。
 
 
 
最新のコメント
Joe Flacco Jersey
Chanel Best Black Friday Sale Online
Kevin Durant Black Friday Deals
Celine Black Friday
Polo Ralph Lauren
Michael Kors Outlet Stores
Cheap Jerseys MLB
Michael Kors Outlet Online
<<   2007年2月   >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28      
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ

ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
詳細はライブドア利用規約をご確認ください。