電動ハンドル認可は昭和48年。僕が業界誌に入社した昭和49年に電動役物が登場。アレンジボールはすでに昭和47年に認可されていた。ネットで調べた歴史。でも、大阪はどれも導入が遅かったような気がする。1、2年はその普及が遅れていたのではないか。確かに電動役物はあったと記憶しているが、後年のICを駆使した電役時代(昭和56年以降)に比べると、まだそれほどゲーム性に大きく影響を与えるようなものではなかったと記憶する。どういうものだったか、打った経験があるのによく憶えていないのである。むしろ昭和56年からのゼロタイガーを嚆矢とする羽根物、メテオ(平和)や西陣のルーレットなどの電役の記憶が鮮烈だからかもしれない。
沖縄では昭和40年に、まだ米軍占領地で日本復帰がされていなかったこともあり、オリンピアマシンが登場していた。カジノのタテ型スロットマシン。レバーハンドルをガチャンと操作して回す方式のやつだ。このオリンピアマシンの元祖が、アメリカのバーリー社製スロットマシンである。ここから、日本のゲーム機輸入業者・ギャンブルゲームマシンメーカーが参入してくる。
昭和52年に大阪で(大阪が最初には理由があるが、いずれ)公安委員会の認可による風営法認可パチスロの原型が登場する。オリンピアマシンそのもので、まだパチスロではなかった。大阪、和歌山でホールに導入された。たしか、東京オリンピック開催にひっかけて「オリンピア」マシンという名称が付けられたと聞いている。そのバーリー製スロットを沖縄、日本に持ち込んだのが、現在も大阪日本橋の近くにある「バーリーサービス」の池さんとマックスの故・角野さん達。数年前に、僕の会社の会員HPに連載で「回胴式業界相関図」を書いたので、そちらに詳しいが、そこでは時系列(年代)が正確でなく、あらためてまとめ直したいと考えている。なんとも凄烈な世界だ。現在の回胴式遊技機メーカーのほとんどが、元はギャンブルマシンから出ており、あるいはその人間関係たるや、正に壮観である。その一部が、パチスロ誕生を機に、7号と8号メーカーに分岐されていったという流れもある。
さて、昭和53年、そのゲーム機業界で空前の大ヒットを飛ばしたのが「インベーダーゲーム」である。これによりパチンコは大打撃を受けた。危機的状況である。当時、会社のビル1階の喫茶店にもインベーダーゲーム機が数台設置されており、よく遊んだ。ほとんどの喫茶店やスナックなどに入ったのではないか。
この頃、まだ20代ということもあり、仕事よりは自分の趣味と酒にうつつを抜かしていた時期でもある。会社もよく二日酔いや友人とのご乱行の祟りなどで遅刻や無断欠勤、ずる休みした。これを懲りずに繰り返していたと思う。よく、社長が我慢強くクビにもしなかったものだ。その意味では、心底、感謝している。あの頃クビになっていたら、今の自分はなく業界でそれらしく生きてはいなかっただろう。この昭和53年、無断欠勤で友人と昼間から遊び歩いていたとき、よく流れていたヒット曲が「泳げ、タイヤキくん」だ。世情もなにか退嬰的で、毎日毎日をあくせく真面目に会社に通い続けることに倦んでいたような気がする。
でも、それなりに会社に出ればきちんと仕事をしていた。ただし「取材に行ってきます」と会社を出ては連絡もなしに直帰して、行きつけの谷町9丁目の地下のスナックに通っていた。そこのママに可愛がられて、ジーンズなどを買ってもらったりご馳走になったりした。ママと飲み歩いてマンションに泊めてもらい、翌朝に出勤ということも数回あった。ひどいのは3日ほど続けて欠勤、ママと一緒に夕刻にスナックに出勤したりして。ゴメンナサイ!社長、今はすごく後悔して反省しております。よくぞこんな無頼漢の青二才の面倒をみていただきました。前回に続いて感謝しても余りあるものがあります。
さて、昭和55年があの業界復活の三共「フィーバー」ブームです。確か、前年の秋か冬にその展示会があったのだが、発表当初はホールの評価は悪かった。「こんな機種、大したことはない」というものがほとんど。スロットのリールをパチンコに取り入れた初のドラム式役物。オリンピアマシンにヒントを得たのかもしれない。そういえば、スナックなどには当時、百円玉投入で当たれば百円玉がジャラジャラ出てくる「ロタミント」(ロタミントン)という機械があり、僕もよくやった。すなわちギャンブルマシンである。正式にはロータリーゲーム。パチスロに似ているが、盤面は全面図柄のルーレットで、百円玉投入(何枚でもOKで、投入枚数の当たり図柄倍率で現金が払いだされる)で盤面をランプが回転する。ストップさせて当たり図柄で払い出し。これも一時期で数店舗、大阪の公安委員会認可をとって風営法認可の遊技機として設置されたことがある。もちろん現金でなくメダル投入、メダル払い出し。でもすぐに「ギャンブル性が強すぎる」というので禁止になった。これは僕が、導入1号店(大阪の天神橋筋商店街の店)を取材。京橋にあった日清工業というメーカーも取材した。
さて、これから、ようやく、記憶もまだぼけていない「漂流記」第2章に入れそうである。
沖縄では昭和40年に、まだ米軍占領地で日本復帰がされていなかったこともあり、オリンピアマシンが登場していた。カジノのタテ型スロットマシン。レバーハンドルをガチャンと操作して回す方式のやつだ。このオリンピアマシンの元祖が、アメリカのバーリー社製スロットマシンである。ここから、日本のゲーム機輸入業者・ギャンブルゲームマシンメーカーが参入してくる。
昭和52年に大阪で(大阪が最初には理由があるが、いずれ)公安委員会の認可による風営法認可パチスロの原型が登場する。オリンピアマシンそのもので、まだパチスロではなかった。大阪、和歌山でホールに導入された。たしか、東京オリンピック開催にひっかけて「オリンピア」マシンという名称が付けられたと聞いている。そのバーリー製スロットを沖縄、日本に持ち込んだのが、現在も大阪日本橋の近くにある「バーリーサービス」の池さんとマックスの故・角野さん達。数年前に、僕の会社の会員HPに連載で「回胴式業界相関図」を書いたので、そちらに詳しいが、そこでは時系列(年代)が正確でなく、あらためてまとめ直したいと考えている。なんとも凄烈な世界だ。現在の回胴式遊技機メーカーのほとんどが、元はギャンブルマシンから出ており、あるいはその人間関係たるや、正に壮観である。その一部が、パチスロ誕生を機に、7号と8号メーカーに分岐されていったという流れもある。
さて、昭和53年、そのゲーム機業界で空前の大ヒットを飛ばしたのが「インベーダーゲーム」である。これによりパチンコは大打撃を受けた。危機的状況である。当時、会社のビル1階の喫茶店にもインベーダーゲーム機が数台設置されており、よく遊んだ。ほとんどの喫茶店やスナックなどに入ったのではないか。
この頃、まだ20代ということもあり、仕事よりは自分の趣味と酒にうつつを抜かしていた時期でもある。会社もよく二日酔いや友人とのご乱行の祟りなどで遅刻や無断欠勤、ずる休みした。これを懲りずに繰り返していたと思う。よく、社長が我慢強くクビにもしなかったものだ。その意味では、心底、感謝している。あの頃クビになっていたら、今の自分はなく業界でそれらしく生きてはいなかっただろう。この昭和53年、無断欠勤で友人と昼間から遊び歩いていたとき、よく流れていたヒット曲が「泳げ、タイヤキくん」だ。世情もなにか退嬰的で、毎日毎日をあくせく真面目に会社に通い続けることに倦んでいたような気がする。
でも、それなりに会社に出ればきちんと仕事をしていた。ただし「取材に行ってきます」と会社を出ては連絡もなしに直帰して、行きつけの谷町9丁目の地下のスナックに通っていた。そこのママに可愛がられて、ジーンズなどを買ってもらったりご馳走になったりした。ママと飲み歩いてマンションに泊めてもらい、翌朝に出勤ということも数回あった。ひどいのは3日ほど続けて欠勤、ママと一緒に夕刻にスナックに出勤したりして。ゴメンナサイ!社長、今はすごく後悔して反省しております。よくぞこんな無頼漢の青二才の面倒をみていただきました。前回に続いて感謝しても余りあるものがあります。
さて、昭和55年があの業界復活の三共「フィーバー」ブームです。確か、前年の秋か冬にその展示会があったのだが、発表当初はホールの評価は悪かった。「こんな機種、大したことはない」というものがほとんど。スロットのリールをパチンコに取り入れた初のドラム式役物。オリンピアマシンにヒントを得たのかもしれない。そういえば、スナックなどには当時、百円玉投入で当たれば百円玉がジャラジャラ出てくる「ロタミント」(ロタミントン)という機械があり、僕もよくやった。すなわちギャンブルマシンである。正式にはロータリーゲーム。パチスロに似ているが、盤面は全面図柄のルーレットで、百円玉投入(何枚でもOKで、投入枚数の当たり図柄倍率で現金が払いだされる)で盤面をランプが回転する。ストップさせて当たり図柄で払い出し。これも一時期で数店舗、大阪の公安委員会認可をとって風営法認可の遊技機として設置されたことがある。もちろん現金でなくメダル投入、メダル払い出し。でもすぐに「ギャンブル性が強すぎる」というので禁止になった。これは僕が、導入1号店(大阪の天神橋筋商店街の店)を取材。京橋にあった日清工業というメーカーも取材した。
さて、これから、ようやく、記憶もまだぼけていない「漂流記」第2章に入れそうである。