第98話 奴隷、混乱するばかり
アイネスは怒髪天を衝く勢いで怒り出し、俺の言葉さえ聞きそうにない空気を振りまく。
フィーエルも完全に萎縮してしまって、手を付けられそうにない。
「……フィーエルには悪かったけれど、ウォルスはあなたが言うように、わたしの奴隷よ。わたしが死ぬようなことがあれば、ウォルスも死ぬの。そのウォルスが、生きるためにあなたの下へ行ったことで、わたしが責められる謂れはないでしょう」
「何? ウォルスが自分の命惜しさに、わざわざ神精界に行ったと言いたいわけ?」
「……そうよ。間違いないわよね、ウォルス」
「ああ、その認識でいい」
セレティアは答えるまでの一瞬、違うことを考えていたようだが、あまりに短い時間だったため、それが何を意味しているのかまでは読み取れない。
ネイヤがいらぬことを言っていなければいいが……。
「アンタは、神精界がどういう世界か理解してないようね」
「安全じゃない、ということくらいは聞いてるわよ。それがどうしたというの」
「そんなもんじゃないわよ。今のウォルスに神精界のことを話せば、行くのを躊躇うのは間違いないわ。そのくらい神精界はヤバいんだからっ! 人間が来ること自体初めてだし、ウォルスの強さでも死んでもおかしくなかったんだからっ! 男が頭を下げるのが、どういうことかわかってるのかしらっ!」
そんなことは知らないし、頭を下げるとはどういうことだ?
全然覚えてないことで、ここまでアイネスが興奮している姿を見ると、逆に不安になってくる。
そんなことよりも、そこまで危険な場所だったとは……セレティアに嘘を吐いて神精界へ行ったと疑われかねない。
案の定、セレティアは怒りを込めた視線をこちらに向け、俺の答えを待っている。
「悪いが覚えてないんだ。あっちの世界のことは、綺麗サッパリ忘れるようになってるようだからな。それにヴィーオからも、そこまで危険なものとは聞かされてなかったんだ」
セレティアは一度ため息を吐くと、再びアイネスへと顔を向け直す。
「アイネス、あなたの言っていることが本当だとしても、現に、ウォルスとフィーエルは戻ってきてるんだから、それでいいんじゃないかしら」
今度はアイネスが大きく息を吐き、俺とフィーエルを睨みつけてきた。
「アタシはこの王女に話があるから、アンタたちは出ていってくれるかしら」
「待て、そんなことよりも、早くセレティアの体を診てもらいたいんだが」
「話が終わったあとでねっ! アタシはこの王女に言いたいことがあるのよ」
ここはアイネスをセレティアから引き離し、一度頭を冷やさせたほうがいいだろう。
しかし、フィーエルがそうはさせなかった。
俺の腕を引っ張り、外へ行くほうがいいという表情を作る。
セレティアからも、早く出ていくようにと、扉のほうへ顔を向けられた。
「アイネス、いらぬことを言うなよ」
「わかってるわよ」
アイネスなら、俺のことをバラすことはないと思うが、どうしてあそこまで頭にきてるのかがわからない。
俺が頭を下げたようなことも言っていたし……不安しかない。
「行きましょう」
「ああ……」
フィーエルと部屋を出たところに、ちょうどネイヤが姿を現した。
その姿はお世辞にも綺麗とは言えず、あちこちが汚れ、ついさっきまで鍛錬でもしていたかのような格好だ。
「申し訳ありません。キース殿と、フィーエルの父君であるラダエル殿から、対魔法師への戦い方を教わっていたので、遅れてしまいました」
どうりで帰ってきた時に姿がなかったわけか、と納得がいったのと同時に疑問が生じる。
ラダエルはまだわかるが、キースはどういう風の吹き回しなのか……。
一番ありえない組み合わせの人物が一緒にいたことが不思議でならない。
「いや、別にそんなことは気にしていない。かなり長い間留守にしていたようで悪かったな」
「もっと長くなることも覚悟していましたから、私はどうということはありません。それよりも、セレティア様はどうでしたか? かなり心配しておられましたが」
ネイヤは口にしてすぐ、俺とフィーエルの態度から何かを感じ取ったようで、落ち着きがなくなる。
「まあ、色々あってな、今は取り込み中だ。決して入るなよ」
「承知いたしました。そういえば、先ほどヴィーオ殿に呼び止められまして、あとでウォルス様に話があるとおっしゃっていました」
「ヴィーオが?」
フィーエルも首をかしげ、心当たりはないといった顔を見せる。
「わかった。今から向かわせてもらう」
キースのこともついでに聞けばいいだろう。
あいつが理由もなく、魔力がろくにないネイヤに付き合うわけがない。
ヴィーオが話をするというのも、きっとろくでもない話だろうが……。
◆ ◇ ◆
以前に一度使った評議会施設で、ヴィーオは背を向け、窓から里の様子を見つめていた。
その小さな背中は、味方とも敵とも取れる、不思議な空気を纏っている。
これはヴィーオ独特のものだ。
「やあ、早かったね」
振り返ったヴィーオの視線が、俺の隣にいるフィーエルへと移る。
「フィーエルも一緒なんだね」
「都合が悪いか?」
ヴィーオはゆっくりと首を横に振り、俺たちに座るよう促してくる。
「君が神精界に行っている間に、大きな動きがあってね」
「キースがネイヤの鍛錬に付き合っていたことか?」
俺がこんなことを言うのが意外だったのか、ヴィーオは驚いた表情を見せたあと、くすりと笑う。
「いやいや、あれは僕がやらせたことだから。彼女みたいに魔力が極端に少なく、扱いが下手な子は見たことがないからね。どこまで伸びるのか興味が出ただけだよ」
「じゃあ、何が大きな動きなんだ」
「ヘルアーティオが目覚めてね――――カーリッツ王国を襲ったんだよ」
しばらく無言の時間が流れる。
いったい何を言っているのか、全く理解できなかった。
ヘルアーティオは、偽アルスが操っているのはほぼ確定している。
そのヘルアーティオが、カーリッツ王国を襲ったなどと言われ、すぐさま信用しろというほうが無理がある。
「それは本当なのか?」
「僕がこんな嘘を言ってどうなるんだい?」
ヴィーオは至って真面目に答え、俺の反応を楽しんでいるようにさえ見える。
フィーエルもわけがわからないといった感じで、心配そうに俺を見つめてくるだけだ。