第96話 奴隷、帰還する
何もない漆黒の世界。
それでも徐々に五感が蘇り、世界が白く戻っていくのが感じられる。
小鳥の囀り、森の香り、指の感覚、それらが意識を引っ張り上げてゆく。
「チュッ、チュッ、……まだ起きないわね」
頬に無数にぶつかってくる「何か」の感触で、完全に目が覚める。
目の前には、天へ向かってそそり立つ神樹の大木と、懐かしい顔がそこにあった。
体を起こし辺りを見回すと、少し離れた場所にフィーエルも確認できる。
「アイネスじゃないか……いったいどうなって……いや、何か約束はしたような気がするな」
「王宮にいるアルスをアンタが討つ、そういう約束でアタシはここにいるの」
アイネスの言葉で、何となくだが、この約束に関する記憶が蘇る。
アイネスはそれを確認するように、俺の頬に近づいてくる。
だがこれは、確認と見せかけて、アイネスの悪癖が出ているとみて間違いない。
「それはやめろ」
「もう、起きてからしないと意味がないのに……まあいいわ」
少し頭痛がするが、それ以外は何ともない。
逆にそれが不安を掻き立てた。
何があったのか思い出そうとしても、アイネスとした約束以外、何も思い出せない。
「あー無駄よ。思い出そうとしても無理だから。基本的な記憶は全て消えちゃってるわよ」
「……そういうものなのか」
「今は多少記憶のカケラが残ってるかもしれないけど、それも完全に消えちゃうから」
アイネスがそう言うのなら、神精界はそういうものなのだろう、と今は割り切るしかない。
とりあえず当初の目的であった、アイネスを連れて帰る、という任務は遂行できたことを喜ぶべきか。
「ほらフィーエル、アンタも起きなさい。チュッ、チュッ!」
アイネスがフィーエルの下へ飛んでゆき、頬にこれでもかとキスの嵐をお見舞いしている。
俺もあんな起こされ方をされていたのかと思うと、頭痛が酷くなった。
「ん、んん……アイネス! あれ、これは神樹……ここが神精界ですか?」
「何言ってんのよ。神精界から戻ってきたところよ。神精界の記憶は消えていくことになってるの」
「そうなんですか。記憶が消えていくというより、最初から何もなかったような感覚です」
あっけらかんと話すフィーエルを、アイネスは少し悲しそうな目で見つめる。
「アンタはアタシと約束もしてないし、残せる記憶がないからでしょうね――――ったくしょうがないわね。今回はアタシの想像を超えて頑張ったから、サービスしてあげるわ」
フィーエルのおでこに、アイネスの平手打ちが炸裂した。
静かな森に「パチンっ」という大きな音が響き、フィーエルが真っ赤になったおでこを押さえ
「おいおい、何をしてるんだ。フィーエル大丈夫か」
「……あっ、はい、大丈夫ですっ!」
「大丈夫ならいいんだが……」
ゆっくりと頭を上げたフィーエルの顔は、その言葉とは裏腹に頬まで真っ赤に染まっている。
今も俺とは視線を合わせようとせず、すぐに地面とにらめっこをするように俯いた。
「アイネス、フィーエルの様子がおかしいんだが、何をしたんだ」
「ちょっと記憶を残してあげただけよ」
「怪しいな――――俺にもその記憶を残してほしいんだが」
「ダメですッ!」
俺とアイネスの会話に、突如フィーエルが割り込んできた。
その表情はさっきよりも赤く、焦りようが半端ない。
「ダメなのか」
「ダメです、絶対ダメです。これは私とアイネスだけが覚えておけばいい記憶ですから」
少し残念な気もするが、アイネスも首を縦に振って頷いていることから、俺が覚えていても無駄な記憶なのかもしれない、と俺は思考を切り替えて立ち上がった。
「アイネスが戻ってきてくれたということは、セレティアを助けるために力を貸してくれるんだよな」
「助けてあげるわよ。ただし、さっきも言ったように、王宮のアルスについては、アンタが責任を取りなさい」
真剣な顔をするアイネスの背後から、フィーエルがキョトンとした顔を向けきた。
フィーエルには、この話に関する記憶はないのだろうが、教えないほうがいいだろう。
アイネスが責任という言葉で誤魔化したのは、フィーエルのことを考えてと思われる。
「アルスのことは、最初から俺の問題だ」
「それじゃあ、さっさとアンタを奴隷にしてるっていう、高慢ちきな王女の下へ行こうじゃない」
やる気を見せるアイネスの背で、フィーエルと目が合う。
その瞬間、お互い首を振ってみせた。
記憶はないが、考えることは同じようだ。
「誰がそんな紹介をしたんだ。セレティアはそんな奴じゃないぞ」
「そうです、高慢ちきだなんて、私たちが疑われますから、絶対やめてください」
「そうなの? アタシのイメージじゃ、高慢ちきだったんだけど」
「違いますから! ウォルスさんは奴隷ですけど、奴隷として扱わない立派な王女殿下なんです」
「
アイネスが人間に興味を持つことなんて、今までなかったかもしれない。
これがいいことなのか、そうじゃないのか、それはセレティア本人に会えばわかることだろう。
そんなことよりも、なるたけ早くアイネスに処置をしてもらわねばならない。
「勝手な行動だけは控えてくれよ」
「わかってるってば」
人間の世界の空気が懐かしいのか、アイネスは胸いっぱいに空気を吸い込み、エルフの里を目指して一人進みだした。