第95話 奴隷、唇に何かを感じる
先頭を行くアイネスがどこに向かっているのか、走りながら森の中を見回してもわからない。
だが、アイネスは闇雲に移動しているのではなく、確実に目的があって進んでいるのだけは感じ取れる。
「フィーエルの様子を見る限りじゃ、まだ数時間は残されてるようだけど、急いだほうがいいわね」アイネスはフィーエルの背中にある、羽の付け根辺りを確認しながら言った。
「アイネス、帰れなくなったら、俺やフィーエルはどうなるんだ」
「人間はアンタが初めてだからわからないけど、フィーエルは全ての記憶を失って、下位精霊に戻るわよ」
「アイネス、早く帰りましょう!」
フィーエルはいつになく焦った声で叫び、訴えかけるように俺に顔を向けてきた。
「まだ時間はあるんだ、今から心配する必要はないだろう」
俺の感覚でもまだ数時間はあり、確実に余裕はあるはずなのだ。
「ですが……」
「それよりも、一つアイネスに聞いておきたいことがある」
フィーエルの背後で振り向いたアイネスは、とぼけた表情で俺を見つめてくる。
「何かしら?」
「精霊たちは四大竜が監視者と言っていたが、あれはどういうことだ」
「ああ、あれね。教えてあげてもいいけど、意味はないわよ。全部忘れちゃうから」
「忘れる?」
「そっ、神精界から帰還する時に、大半のことは忘れるわよ。覚えてるのは精霊であるアタシだけ」
フィーエルと目と目が合う。
ここまで苦労したことも、長居すると戻れなくなることも、フィーエルが精霊サイズになっていたことさえも、全て忘れるということだ。
エルフの文献に何も残されていないのは、神精界に行ったエルフは何も覚えておらず、残せなかっただけということになる。
それも、記憶がなくなるという事実も忘れるため、ただ思い出せないと悩むだけの日々を過ごしたのだろう。
「帰ってから教えてくれるか」
「それはお断りね――――ただ、全てを忘れてることだけは教えてあげてもいいわ」といたずらっぽい顔で答えるアイネス。
それだけでも教えてくれるのは助かる。
だが、たとえ忘れるとしても、このモヤモヤした気持ちをひきずったまま戻れない。
「それは助かる。それでも、監視者については教えてもらいたい。もしかしたら覚えているかもしれないしな。第一、このまま帰るのは気持ちが悪い」
「そう、だったら教えてあげるけど、四大竜は元々この世が創造された時に、七匹いたと云われているわ。禁忌を犯す人間が現れないか、監視するためにね」
「七匹だと?」
「二匹は普通に討伐されたけど、一匹は過去に禁忌を犯した者と共に果てたと伝わっているわ」
俺と同様にフィーエルも驚いていることから、エルフの間でもこれは伝わっていないらしい。
だが、七匹いたことが、どうして伝承されていないかがわからない。
人間は都度争いがあり、伝承が途切れることも考えられるが、長寿でもあるエルフに、なぜこれが伝わっていないのか。
「どうしてエルフもそれを知らないんだ」
「それはね、怠惰竜イグナーウスが何かをしたからよ。それが何かは、アタシたち精霊の間にも伝わっていないの。精霊は基本、人間と距離を置くからかもしれないわね」
「……厄介なのが残ってるってことだな。イグナーウスも監視者なのだとしたら、アルスを狙ってるのか?」
「さあ? それは本人に聞かなきゃわかんないわね」
本人に聞く。
以前なら馬鹿な話だと思っただろうが、案外普通に話ができるのかもしれない。
今はどこにいるかもわからないが……。
「仮にだが、全ての監視者を討伐したらどうなるんだ」
「新たな七大竜が現れるのか、終焉に向かうのか、それとも人間がより栄える世界となるのか、それは神のみぞ知る、とだけ答えておくわ。――――それじゃあ行くわよ、そろそろだから」
再び移動を開始したアイネスに連れてこられたのは、世界が見渡せそうな崖の先端だ。
天から大地が降ってきそうな圧迫感と、どこまでも広がる森と山があるだけで、他には特に何もない。
それでも今までと違うことが一つだけあった。
上質な魔素で満たされていたはずの空間が、ここには全くと言っていいほど存在していない。
「大丈夫なようね、もうすぐあちらの世界と繋がるわ」アイネスは頭上に広がる大地を見上げながら呟き、「フィーエル、このままでいいの?」とフィーエルへ振り返った。
「何がですか?」
フィーエルはキョトンとした表情で、真剣な顔を向けるアイネスを見つめる。
「もうすぐ、ここでの記憶は失われるのよ」
「わかってますけど?」
「だ・か・ら、ここで何をしても、大丈夫っていうこと」
アイネスはフィーエルの背中に回り込み、なぜか俺の目の前まで押してきた。
俺の顔とフィーエルとの距離が拳一つ分、というところでそれは止まった。
「何のつもりだ?」
「そうですよ! アイネス、どういうつもりですか」とフィーエルはあたふたしながら叫んだ。
「ウォルスはこの世界で聞いても無駄なことを、意味がないとわかっていながら、わざわざアタシから聞いたのよ。自分がスッキリしたいがためにね。だったら、フィーエル、アンタも何か言うなり、するなりして、この場だけでもスッキリなさい」
スッキリ……?
これはあれか、完全にアルスとして話せということだろうか?
最近の態度は、もう過去のそれに近いものがあったと思うんだが、アイネスからはそうは見えなかったのかもしれない。
ここは礼も兼ねて、協力するほうがいいだろう。
「フィーエル、何でも言ってくれ。ここまで来られたのも、フィーエルのおかげだ」
フィーエルは頬を紅潮させ、俯いてしまう。
「では…………目を瞑ってもらいたいんですけど」
「これでいいか?」
正面を向いたまま目を瞑ると、アイネスのものと思われる、茶化すような口笛が聞こえてきた。
「フィーエル、アンタ大胆だね。アタシもドキドキしてきたわよ。でも、早くしたほうがいいわ、もうすぐ時間だからね」
「アイネスはこっちを見ないでください」
「決定的瞬間を見逃すわけにはいかないわよ」
何の話をしているのか、何がしたいのか、さっぱりわからない。
兎にも角にも、さっきからフィーエルに落ち着きがなく、一人で焦っているのだけは伝わってくる。
刹那、そんなことを全てをかき消すように、一気に魔素の濃さが変化する。
瞼越しにでも辺りが暗くなったのがわかり、徐々に意識が遠のいていく感覚が襲ってくる。
これは神精界にきた時と同じ現象だ。
「フィーエル、もう時間がないぞ、早く……んっ? んん!」
アイネスの黄色い声と同時に、下唇に何かが触れる。
小さいが柔らかく、同時にいい香りが鼻腔をくすぐる。
確認するために目を開けようとする、が既に五感の感覚が奪われはじめ、それが叶うことはなかった。
「……じゃあ二人とも……あとはあっちの世界でね……」
微かに聞こえたアイネスの声が、神精界で聞こえた最後の声だった。