第92話 奴隷、アイネスと再会する
微かに鳴りだす地響き。
それは徐々に大きくなると、湖面の波が一定方向に回転しだした。
先ほどまで湖底まで見えていた穏やかな湖は、最早どこにもなく、濁り、荒々しく渦を巻く中心からは、龍を象った水柱が天高く昇る。
その水柱の先端、龍の口には水属性の牢獄があり、アイネスはその中で両手を水の鎖で縛られていた。
「アイネスッ!」
真っ先にその名を呼んだのはフィーエルだ。
俺はこの場でその名を呼ぶことができず、その姿をただ見守っていた。
初対面の俺がアイネスの顔を知っているわけはなく、ただ成り行きに身を任せるしかない。
この場で水の精霊に俺の正体を晒すのは、最もやってはいけないことだ。
名前こそ出していないが、水の精霊は禁忌を使った者が誰かわかっているはずなのだ。
それがアルス・ディットランドなのは間違いなく、アイネスから何を聞き出そうとしているのか、まずはそれを知ることが重要だ。
「アイネス、わかりますか、フィーエルです」
フィーエルの声に、ゆっくりと瞼を開けるアイネス。
拘束されているとはいっても、特に衰弱している様子はなく、どちらかといえば、ただ眠そうに見える。
そのアイネスが、視界にフィーエルを捉えた瞬間、俺が知るアイネスのテンションになった。
「あら、フィーエルじゃない。どうしてこんな所にいるのよ!」
他の水の精霊とは一線を画する明るさ、表情、全てが風の精霊ピットに通じるものがある。
「あなたの力が必要だからです。アイネスこそ、どうしてそんなことになっているんですか」
「一応反省の意味を込めてね。そろそろ飽きてきたところだったから、いいタイミングよ」とアイネスは自らの両手を縛り上げている水の鎖、龍を象った水柱さえも一瞬にして霧散させた。
水の精霊たちは固まり、その様子を見つめることしかできないでいるようだ。
「どういうこと? 水龍獄は完璧だったはず……」
水の精霊の一人が独り言のように呟くと、アイネスはそれをつまらなそうに見つめる。
「あの牢獄? あんなのいつでも抜け出せたに決まってるでしょ。自戒の意味も込めて抵抗しなかっただけよ。上位精霊のアタシが、あんな牢獄にいつまでも閉じ込められているわけないじゃない。それよりも――――」
アイネスは鈍っている体をほぐすように伸びをし、体の周囲に水を纏わりつかせ、その水の感触を楽しむかのように操りはじめた。
水は渦を描き、アイネスが思い描く形にどんどん形を変えてゆき、最終的には精巧な水龍の形に落ち着く。
それは先ほどまでアイネスを閉じ込めていた水龍獄とは比べ物にならない迫力で、今度は水の精霊たちを威嚇しはじめた。
「アタシやフィーエルに手を出したら、タダじゃおかないわよ。わかったわね?」
「くっ……そんなことをしても、禁忌幇助の罪はなくならないわよ」
「わかってるわよ。知人がこんな所まできてくれたんだから、少しは気を遣いなさいよね」
アイネスは水の精霊に強い口調で言うと、フィーエルの下へ勢いよく飛んでゆく。
フィーエルの下へ行って何をするのか、それは予想がついていた。
アイネスにとってはただの挨拶らしいが、ただの悪癖だ。
「アイネスやめてくださいっ! 今は同じ大きさなんですからっ!」
焦るフィーエルのことなどお構いなしに、その頬へキスの嵐をお見舞いするアイネス。
やはり何年経とうが変わっていない、というかサイズが同じになった分、激しさが増しているかもしれない。
アイネスはフィーエルの両手首を掴み上げ、今度はその口へ迫ってゆく。
「そこまでにしてもらおうか」
無理やりフィーエルの唇を奪おうとしているアイネスの首根っこを掴み、強制的にフィーエルから引き離す。
フィーエルはすぐさま俺の後頭部へ隠れ、アイネスはバタバタと暴れ、俺を睨みつけてきた。
「放しなさいよっ! アタシを誰だと思ってるの! 精霊よ、せ・い・れ・いッ!」
言われたとおり解放すると、鼻息を荒くしたアイネスが俺の顔の前まで飛んでくる。
その目は友好的ではなく、とてもじゃないが話をするような空気ではない。
「フィーエル、この男は何? どうして人間を連れてきたのよ」
「それは、そのウォルスさんがアイネスに用があるからです」
「そうじゃないの、どうしてアンタが、人間の男にここまで協力するのってことよ」とアイネスはそう言いながら俺を凝視する。「ちょっとはいい男みたいだけど、アルスにはまだまだね」
「そんなことはありません! 憤怒竜イーラを討伐しましたし、アルス様にも引けを取りません」
フィーエルが俺の耳元で、鼓膜が破れるんじゃないかと思うほどの声量で叫ぶ。
そんなフィーエルの姿に、アイネスは冷たい視線を送る。
「フィーエルがアルス以外の男に靡くなんて、アタシは少し悲しいわ。――――でも、
アイネスは一度大きなため息を吐き、腰へ手を当て偉そうに胸を張った。
「それじゃあ、アタシも挨拶くらいはしておかなくちゃね」とアイネスは目を瞑り、俺の顔へ近づいてくる。
「その癖は直せと言っておいたはずだ。それは挨拶じゃない」
俺はアイネスの額に指を押し付け、アイネスの進行を防ぐ。
「!」
アイネスが目を見開き、何度も迫ってくるが、その
俺の指で真っ赤になったおでこを撫でながら、アイネスが目を輝かせる。
「この感触、このタイミング、それにアタシの趣味まで知ってるなんて……まさか、アンタはアル、んんっ!んんーーーーッ!!」
「ウォルスさんですっ!」
この場で言ってはいけない名を、躊躇なく言おうとしたアイネスの口を、凄い形相のフィーエルが両手で押さえた。
アイネスも視線を水の精霊に移し、ようやくそれを理解したのか、ゆっくりとフィーエルの腕をタップした。