第91話 奴隷、禁忌、監視者
だが、水槍の速度はそこまで速くはない。
大量に降り注ぐ水槍の切っ先は途中でフィーエルに向き直したものもあり、微妙な調整をしていることから、追尾型だと判断できる。
逃げるだけでは意味がない、しかし、破壊することも困難。
それは一瞬で理解することができたが、どうすることもできないことも同時に理解できた。
「ははははっ、やる気になってくれてよかったよ!」
吹き荒れる暴風が、水槍の動きを止めると、次々に跡形もなく吹き飛ばしてゆく。
俺とフィーエルの前に立ちふさがるように背を向け、水の精霊と対峙するピット。
「どういうことだ。お前は俺たちを売ったんじゃないのか」
「何を勘違いしてるのか知らないけど、僕は戦う理由を作っただけだよ」
ピットは指をポキポキと鳴らし、満面の笑みを返す。
実にわかりやすい答えだ、と俺は妙に納得できた。
俺たちを売るなんてのは端からなく、自分が楽しむためにやることをやっただけであり、結局は水の精霊と同じで、結果だけが全てなのだと。
「ピット、どういうつもりなのかしら? 人間の味方をするなんて、仮にも上位精霊でしょう」
「そうよそうよ。人間の味方をするなんて、正気の沙汰ではないわ」
「だってしょうがないじゃん。僕はこの人間に勝負を挑んで、負けたんだから。これで万一、君たちに負けでもしたら、僕の名誉に傷がつくからね。ここは人間の味方をしてでも、君たちと戦わないと!」
白々しく語るピットは「へへへッ」と笑いながら魔力を放出し、周辺の森が激しくわざつく。
ピットが本気とわかるや否や、水の精霊たちの動きが止まった。
このピットという精霊が、普段から警戒されているのがよくわかる光景だ。
誰彼かまわず勝負を挑む精霊は、他の精霊から距離を置かれているらしい。
水の精霊は、ピットが負けるなんて信じられないわ、と囁きあいながら俺を警戒しだした。
「たとえ暴君ピットが相手でも、引き下がるわけにはいかないわ」
「人間とエルフさえ処分すれば、私たちの目的は達成される」
「ピットが言っていることが本当だとは限らないしね。人間が上位精霊よりも強いわけがないわ」
水の精霊は引き下がらず、完全に狙いを俺とフィーエルに絞ってきた。
風の精霊を味方にしたとしても、勝てる見込みは五分と五分……いや、まだこちらの分が悪いかもしれない。
水の精霊の数は十体以上で、さらに増える可能性すらある。
その全てを相手に、圧倒できるわけはない。
どうすれば勝てるか、もしくは、どうすれば戦わずしてこの場を乗り切れるか、それだけに頭を回転させていると、フィーエルが水の精霊の前へ飛び出した。
「待ってください。ここにいる人間のウォルスさんは、あの憤怒竜イーラを倒した力があるんです。下手に手を出せば、無事では済みませんよ。それよりも、話を聞いて穏便に戻ってもらうほうが賢い選択だと思います」
水の精霊は再び集まり、コソコソと話し合いはじめた。
「あの人間がイーラを倒したそうよ」
「この前はアワリーティアがやられたようだし、いったいどうなっているのかしら」
「やっぱり、禁忌を破ったことと関係あるのよ」
「これでもう、監視者は怠惰竜イグナーウスだけよ」
慌ただしくなる水の精霊たちは、気になる言葉を吐き、途端に狼狽えはじめた。
禁忌は俺に関係あるとしても、四大竜が監視者というのはどういうことなのか。
精霊たちの言い方では、四大竜は人間が思っているような存在ではないということになる。
「お前たちが言う『禁忌』とはなんだ。それに、四大竜が監視者とはどういうことだ」
俺は思わず、水の精霊たちに向かって叫んでいた。
穢れと認定する人間の俺からの質問に、水の精霊たちが一斉に怪訝な表情を作る。
「人間に禁忌について語ることはないわ。ただ、禁忌を犯した者を許すわけにはいかないだけ」
「そう、それを助けていたアイネスも同罪よ」
「監視者は監視者でしかない。人間がそれを知る必要もない」
「憤怒竜イーラは死ぬ寸前、俺に対し、『禁忌、犯す』、この二つの言葉を口にしたんだ。知る必要がないとは言わせない」
水の精霊たちはあからさまに動揺し、俺から距離を取る。
今まで感情が宿っているのかさえ疑わしかった瞳に、猜疑心、畏怖、殺意にも似た何か、そんなものが入り混じった複雑なものが浮かんできているように見える。
「あなたは何者なの? ただイーラを討伐した、というだけではないようね」
「監視者が言葉を吐くのは、禁忌を犯した者へのみ――――だけれど、あなたからそこまでのものは感じない」
「でも、白ではないようよ。この人間の魂は黒ではないようだけれど、明らかに白ではないし」
水の精霊は、先ほどまで隠すことなく放っていた殺意を消し去り、今度は俺を調べるように凝視してくる。
その視線は俺の体を通過し、魂を直接鷲掴みにしているような、とてもじゃないが居心地がいいと言える類いのものではない。
「禁忌とは、魂と記憶を切り離すことなのか?」
「答える必要はないわ」
「――――並行世界に転移することか」
「…………あなた、何か知っているわね」
余裕の態度を見せる水の精霊を見る限り、今の質問は禁忌ではないと言っている。
やはり心当たりがあるものは、全て禁忌には該当していない。
それならば、なぜ俺の魂は白ではないのか、イーラの声を聞いたのか、不明な点が多い。
だが、俺が何かを知っているとわかった途端、再び空気は張り詰めだした。
「力ずくで聞き出したほうがいいんじゃないかしら」
「禁忌と関係があるのなら、アイネスと話をさせてみてはどう?」
「アイネスもだんまりだし、いいきっかけになるかもしれないわね」
一人の水の精霊が、合図をするように片手を上げ、ほんの少し口角を持ち上げた。