第90話 奴隷、絶体絶命
頭上の湖まで自分の足で行くとなると、時間的に厳しいものがある。
風の精霊が協力を申し出てくれたのは、僥倖だったかもしれない。
移動速度もさることながら、途中で不自然なほどにどの精霊、妖精とも遭わなかったのが一番助かった。
「他の精霊に出くわさなかったな」
「みんな僕が近づくと逃げちゃうんだよねえ」
「……お前がどういう精霊なのか、何となくわかってきた気がするよ」
「ホントかなぁ?」
風の精霊は「ニヒヒッ」と笑い、さらに速度を上げてゆく。
天地を繋ぐ柱のような回廊を進むと、重力も次第に方向を変えてゆき、気がついた時には、既に天地が逆転していた。
「もうすぐ到着するけど、このまま最後まで行っちゃう?」
「いや、アイネスの立場が悪い以上、無闇に突っ込むのは遠慮させてもらう」
「ふーん……」
風の精霊はつまらなそうに返事をし、湖が見える手前で速度を緩めた。
木々の隙間から覗く湖は、見たことがないくらいの澄んだ瑠璃色で、波がないためか、信じられないほどの透明度を誇っている。
そんな湖の畔には水の精霊が、遠目でもわかるくらいの数が集まり、話し込んでいた。
姿はどれも個性があり、半透明なものから、アイネスのように完全な人型のものまで様々だ。
「アイネスは口を割らないわね。もう帰ってきてからずっとよ」
「いい加減、人間のことなど喋ってしまえば楽になれるというのに」
木陰に隠れ耳を澄ましていると、水の精霊からアイネスのことについての話が聞こえてきた。
フィーエルも俺の肩に座って様子を窺うが、肝心の風の精霊は姿を消してしまっていた。
「そう言えば、神精界に何者かが侵入した形跡があるらしいわ」
「エルフかしら? 久しいわね」
「それが、どうにも違うようなのよね。エルフと一緒に、人間もこちらにやってきたみたいなの」
水の精霊の一人がそう口にした途端、周りの精霊に緊張が走るのがわかった。
空気が張り詰め、今までガラスのように綺麗に光を反射していた湖面に激しい波が起こる。
「人間!? 早く見つけて処分しないと、前代未聞の事態よ」
「この世界が穢れるわ、どこのエルフが連れ込んだのかしら」
慌ただしい様子から、事態が最悪ということだけは理解できる。
目の前で物騒なことを相談しあう水の精霊に感づかれず、アイネスを見つけ出すというのは不可能に近い。
目的のアイネスの姿はどこにもなく、詳細を知っているはずの風の精霊の姿も見えず、無駄に時間だけを消費させてゆく。
「私が精霊の注意を逸して、その間にウォルスさんがアイネスを捜す、というのはどうでしょうか」
「ダメだ。あいつらは俺をここへ案内したフィーエルも捜している。フィーエルが捕まれば許すつもりはないだろう」
あの調子なら、俺を見つけ次第、こちらの話を聞くことなく攻撃してくるだろう。
フィーエルもどうなるかわかったものではない。
どうにかあの目をかいくぐって、アイネスを見つける必要があるわけだが――――。
「ねえねえ、何の話をしてるの?」
「あなたは、ピット! どうしてここにいるのよ」
突然、信じられないものが眼前に広がる。
いなくなったはずの風の精霊、その精霊が水の精霊の集団に飛び込んでゆく光景が目に飛び込んでくる。
それが俺たちのためではないということは、風の精霊の表情を見れば一目瞭然だった。
無邪気な悪意に染まった顔、俺に殺し合いを申し込んできた時の表情そのものだからだ。
握り込んだ手のひらに汗が滲み、呼吸が早くなってゆく。
「あなたがどうしてここにいるのかしら? ここは私たち水の精霊の住処よ」
「だって、面白そうな話をしてたからさ。人間の話をしてたでしょ」
「あなたには関係ないわ。あなたの相手をしている暇はないの」
「そんなこと言っていいのかなぁ? 人間なら知ってるんだよね」と風の精霊は挑発しながら視線を俺へと向けてきた。
やはりと言うべきか、あいつは最初から俺たちに協力するためにここへやってきたわけではない。
引っ掻き回して楽しみたいだけなのだ、と俺はフィーエルに逃げ出すタイミングを目で合図した。
「どういうことかしら? 侵入者に遭ったの?」
「そうだよ、その人間なら、ほら、あそこの木に隠れてる」
風の精霊、ピットがこちらを指差した瞬間、フィーエルとともにその場を駆け出した。
だが、完全に水の精霊のテリトリーだったため逃げ場はなく、すぐさま何十にも重なった巨大な水壁が辺りを囲み、行く手を遮った。
今のフィーエルの魔法でも、ひと目で突破は不可能だとわかるほどの水壁は、徐々に距離を詰めてくる。
「本当に人間がいたわ」
「エルフも一緒のようよ」
「早く処分しましょうよ」
「そうしましょ。これで心配ごとはなくなるわ」
水壁から次々に姿を現す水の精霊は、特に敵意を見せることなく、仕事を淡々とこなすように冷たく述べる。
「俺の話を聞いてくれ、俺はアイネスに用があってきただけだ。それが済めばさっさとここから消える」
「アイネスですって? あの子は厄介事しか持ってこないわね」
「私たちには関係ないことだから、人間の都合なんてどうでもいいの」
完全に殺る気になっている精霊ほど厄介なものはない。
話し合いという概念を消し去り、短絡的ともとれる、明快且つ単純な思考に移行する。
力で解決できるものは、さっさと解決してしまえという、実にわかりやすい行動になるのだ。
「待ってください、私の話も聞いてください」とフィーエルが両手を広げて俺の前に飛び出した。
「エルフでも同罪よ。人間をこの世界に連れてくるなんて大罪よ」
「人間と同じように、その身で罪を償いなさい」水の精霊の一人が冷たく言い放つ。
同時に、頭上には何百という、避けるには巨大すぎる水槍が出現し、空を覆い尽くした。
決して無傷ではいられない数であり、生身で破壊するには濃密すぎる魔力が込められている。
生唾を飲み込むと、それを合図にしたかのように、水槍が一斉に降下を始めた。