第87話 奴隷、取引をしてみた
上質な魔素が満ちている森の中を歩いていると、魔法が使えたならどんなに気持ちがいいだろうか、と余計な感覚が心を侵食してゆく。
本来なら有利になるはずの魔素も、魔法が使えなければただの害にしかならない。
それは魔素変換を上手く使える魔法師になればなるほど、強く感じてしまう類いのものだろう。
魔素変換を使う者にとっては、この上質な魔素で満たされている世界は、甘く、魅力に満ちている。それゆえに、それが使えないことは不安や苛立ち、歯がゆさを痛感するものへと変わる。
たとえるなら、空腹で倒れそうな時に、決して食べられないごちそうを、目の前に大量に並べられている状態に等しい。
できるだけ魔素のことは意識せず、ただ森を抜けるためだけに、黙々と足を動かすのが正しい、と俺は何も考えず、ひたすら前進を試みた。
どれくらいの時間が過ぎたのかわからないまま、開けた場所に出ると、ここがどういった世界なのか、魔法感覚的なものではなく、視覚的なもので感じられる光景が広がっていた。
そこは大地が見渡せるほどの絶壁の崖の上であり、広大な大地が広がる頭上には、青い空は存在していなかった。
その代わり、大地が逆さまになって無限に広がっていた。
大地と、空に存在する大地、その間を地面から延びたいくつもの湾曲した回廊が繋がっている。
重力すら任意の方向に固定しているようで、ここが魔法でできた世界なのだと嫌でも思い知らされた。
「早くフィーエルを見つけないと、俺も危ないかもしれないな……」
弱音とも受けとれる言葉が、自然と口から漏れた。
目の前に広がる、神の御業としか思えない絶対的な力を前にして、自分の無力さがよくわかる。
そんな状態であっても、地面、空に広がる大地をじっくり見渡すと、空に浮かぶ広大な森の中に、巨大な湖を見つけることができた。
アイネスがいるとするならば、水の精霊である以上、水がある所と決まっている。
フィーエルがどこにいるかわからないため、そこを目指すしかない。
あれをフィーエルも見つけたのなら、必ずそこを目指すはずだ、と俺は自分に言い聞かせて崖を飛び降りた。
◆ ◇ ◆
神精界には、その名にあるとおり、さまざまな精霊が住んでいると注意するべきだ。
そして、それが今まさに、圧倒的な熱量を持って、俺の目の前を横切り森を横断していた。
人間の世界に現れる姿とは次元が全く違うそれは、四本の足で灼熱の体を持ち上げ、森をゆっくりと歩いている。
――――火の精霊、サラマンダー。
それも、通常は大きくても人くらいのサイズのものが、数倍の姿にはなっている。
豊富な魔素と、この世界特有の環境が育んだこの姿こそが、本来の姿なのかもしれない。
今の俺では、攻撃が届く前に体が蒸発してしまうであろう、正真正銘のバケモノだ。
周りの木々を一瞬にして灰にして歩く姿は、炎獄の竜と称するのが相応しい。
俺は咄嗟に木に隠れ、サラマンダーの視界から隠れることを選んだ。
ただ息を殺し、通り過ぎてゆく足音を聞きながら、自分の力のなさに、乾いた笑いが漏れた。
こちらの世界でなければ、あのくらいのサラマンダーであろうと、勝てる自信はあるが、今は魔法一つ使えない、本当にただの剣士クラスに成り下がってしまっていることに。
「ははっははは……あれは無理だ……」
精霊は凄まじい力を持っているが、元の世界では、俺より下の力のものが多い。
それは単属性というだけでなく、力も弱くなっていたということが証明された瞬間だ。
「何がそんなにおかしいの?」
可愛らしい声が響く。
それは空耳ではなく、はっきりと俺へと向けられた言葉。
この好奇心の塊のような声は、俺の頭上から発せられたものだ。
「お前は……風の精霊か」
「人間がどうしているの? ねえねえ、どうして?」
透ける羽を生やした、手のひらに乗りそうな姿は、俺の知識にある風の精霊そのものだ。
この世界では、全てが大きくなるわけではないらしい。
そんなことを考えていると、風の精霊は下りてくるなり、無邪気でありながら、悪意にも似た感情を隠そうともせず、さらに俺の顔へ近づいてきた。
「人間がこの世界にいるなんて初めてだよ。ねえ、人間て強いんだよね? 僕と殺し合いっこしてよ。最近誰も僕の相手をしてくれなくてさぁ」
「お断りだ……それなら、さっきそこを歩いていた、サラマンダーにでも相手をしてもらえ」
「ビーグルのことかな? あれは頭が悪いから好きじゃない。意味もなく森を焼き尽くしちゃうんだよ」と風の精霊は笑いながら答える。「僕はそんな心配のない、純粋な戦いがしたいんだ」
楽しそうに話し、その容姿には似つかわしくない言動を聞いていると、ヴィーオを思いだす。
エルフが風属性魔法を得意としていることと、何か関係があるのかと疑ってしまうほどだ。
「悪いが、この世界じゃ人間は魔法が使えないようだしな。俺を相手にしても楽しくないだろう」
俺はいかにも残念だといった表情を作り、ゆっくりと後退りする。
「そっか……じゃあさ、僕の攻撃から逃げてよ。僕の攻撃から逃げきるか、僕を捕まえられたら、君の勝ち!」
「悪いが、俺がそれに付き合う理由がない……」と俺は眼球を動かし、逃げ道を必死に探しながら口にした。だが、どこにもそんなものは存在していなかった。
魔素の流れは風の精霊の手中らしく、全ての動きを把握される未来だけが感じられる。
「僕に勝てれば、何か一つ言うことを聞いてあげるよ」
「……何でもいいのか?」
「常識の範囲内ならね。僕は自由が好きだから、仲間になったりはしてあげない」
「それなら、水の精霊アイネスがどこにいるか知っているか」と言いながら、俺は頭上にある湖を見上げた。
確認できる湖に確実にいるかは賭けであり、いたとしても湖のどこにいるか捜すのも時間がかかりすぎる。
こいつが、無数にいる精霊の中から、アイネスを知っているとは思えない。
だが、情報を引き出すには絶好の機会であり、仮に知らなければ断る理由としても申し分ない。
風の精霊は少し唸ったあと、手を叩いた。
「ああ、誰かと思ったら、あの上位精霊だね。今は拘束されてるはずだから、居場所もバッチリ知ってるよ。じゃあ、それを賭けにしてスタートだね!」
拘束されている!?
予想外の答えに驚いていると、風の精霊が問答無用で魔力を高めてゆく。
風の精霊と取引をした時点で失敗だった、と気づいた瞬間には、一等級魔法並の魔法がいくつも目の前に迫っていた。