第86話 奴隷、神精界へ
「見送りはヴィーオだけかと思っていたが、意外な奴がいるんだな」
神精界への入り口は神樹の中にあるということで、ヴィーオに言われた神樹の裏側へやってくると、そこにはヴィーオとキースが待っていた。
だが、そこにはいてもいいはずの、フィーエルの父親であるラダエルの姿は見当たらない。
「私がいたら、何か不満でもあるのか、人間」
「いや、ラダエルがいないのに、お前がいるのが可笑しかっただけだ。意外に過保護なんだな」
「イーラを倒したからと、図に乗っているのか」
険しい顔つきになったキースが一歩俺に近づくと、それを遮るように、俺とキースの間にフィーエルが入ってきて俺に背を向ける。
「キースさん、今はそんなことをしている時ではありません。ウォルスさんも煽らないでください」とフィーエルは振り返って少し赤い顔を見せる。「父には昨晩、散々絡まれましたから。今は二日酔いで倒れていると思います……」
実にラダエルらしい、と思わざるをえなかった。
この場にいれば、皆の前で泣くことは必至。
今ここで昨晩のことを、フィーエルに暴露されているとは思っていないだろう……。
「はいはい、キースくんもウォルスくんも、それ以上近づかないように。僕の魔法が乱れたら困るからね」
ヴィーオが神樹に触れ、聞いたこともない言語で詠唱を開始する。
キースはそれを確認すると、フィーエルの横へ立った。
「今から私が言うことを、よく聞いておけ」
「はい」
二人の空気が、先ほどまでのものとは打って変わり、ピリピリとしたものが伝わってくる。
「過去に神精界に行った者は、その記録を、不自然なほどに残していない。あちら側に何があるのか、何が起こるのかはわかっていない。唯一残されているのは、戻ってこなかった者も存在しているという事実だけだ。それを肝に銘じて行くがいい」
「ありがとうございます」と下げられたフィーエルの頭を見つめるキース。その視線がゆっくり俺へと向けられた。
「それと――――
「俺にも何かあるのか」
「もし、貴様一人で戻ってくるようなことがあれば、その時は命がないものと思え」
――――まさかの脅迫だった。
助言よりは、これのほうが多少効果があるかもしれない。
キースもそう思ったのかはわからないが、俺の中では響くものがあった。
「言われなくとも、必ず一緒に帰ってくるさ」
キースは鼻を鳴らし、神樹へと向き直る。
そこには、詠唱を終わらせたヴィーオの先に、黒い空間が姿を現していた。
神樹の中へと通じていそうなそれは、中が全く見えず、足を踏み入れるのが躊躇われる。
「ウォルスくん、フィーエル、準備はできたよ。中に入ったらどうなるかは、正直なところ、僕もわからないから、入るのならしっかり手を繋いでいくようにね」
嬉しそうに口にするヴィーオを目にする限り、本気で言っているようには見えない。
それとは対照的に、キースは露骨に不機嫌な表情になり、ヴィーオに詰め寄る。
「ヴィーオ、どういうつもりだ? なぜ手を繋がせるような真似をする」
「だって、本当に向こうの世界はわからないし、もし、違う場所に転移でもしたら大変でしょ?」
「だが、フィーエルが嫌がることも……」
「私は何も問題ありません!」
止めるキースに対し、フィーエルが突然声を荒らげ、俺の手を掴んできた。
それを目にしたキースは硬直し、ヴィーオが噴き出す。
「あははははっ、フィーエルは正直でいいよ。キースもこれならいいんでしょ」
「……フィーエルがいいのなら、私が口出しすることではない」
フィーエルは手を、必要以上に強く握ってくる。
ヴィーオの言うとおり、どういう方法で神精界に行くのかわからない以上、はぐれないようにしておくのは大事なことだ。
俺もその手を握り返す。
「はぐれる以外に、何か注意しておくことはないか」
「そうだね……この世界とは理が違う世界、君は歓迎されない存在だと思っていたほうがいい」
「それだけを聞くと、帰ってこられる可能性は低そうだな」
「はははっ、普通の人間ならそうだろうね。でも、君なら帰ってくると信じてるよ」
精霊の世界で歓迎されない存在。
尋常ではない魔力を操る精霊を前にして、人間がどういう扱いを受けるのか……。
考えるだけでも勝算は薄い。
ただ、魔素が豊富にありそうなことだけが救いであり、魔法力がどこまで通じるか、それだけが頼みの綱だ。
「それじゃあ、行ってくる」
「セレティアのことなら任せておいてね。エルフが責任を持って面倒を見るから」
ヴィーオの言葉を背に、フィーエルとともに黒い空間へ足を踏み入れた。
◆ ◇ ◆
黒い空間に入ってからの記憶はない。
視覚、嗅覚、聴覚、触覚、それら全て失ったかのような感覚に陥ったあとは、完全に意識を消失した。
気がついた時には、光が差し込む森の中で倒れていた。
そして、どこを見回しても、手を繋いでいたはずのフィーエルの姿はなかった。
「どうなってるんだ……それに、この世界……」
魔力でできている世界、わかっていたようでわかっていなかった。
これが何を意味しているのか、ここへきてようやくそれを理解することができた。
目に映るあらゆるものから魔力が強く発せられ、普段ならすぐに区別がつくはずの、魔力を持つ存在がわからない。
それに、理が違うという理由もすぐにわかった。
人間が歓迎されない世界。
それはこの世界、神精界では、人間である俺には魔法を使うことが許されていなかった。
魔力感知をしようとしても発動せず、どの魔法を行使しようとしても、全く効果があらわれなかったのだ。
ただし、魔力がないというわけではなく、体に流れる魔力は感じられるため、魔力循環による身体強化だけは可能、ということは確認できた。
試しに近くにあった木に拳をめり込ませると、メキメキと音を立てて倒れてゆく。
魔力で作られていても、基本は元の世界とほとんど違いはない。
「魔法師には優しくない世界か」
もしアルスとしてここにいれば、ただ無力な存在になっていたのが容易に想像できる。
今の俺は何とかなりそうだが、純粋な魔法師である、フィーエルのことが心配でならない。
ここでは、俺以上に無力な存在になっているかもしれなく、何かあってからでは、魔法が使えない俺にできることがなくなってしまう。
唯一の望みは、エルフは精霊にとっては敵ではない、ということくらいだ。
まずはここがどこなのか、それを把握するために、森の中を進むことにした。