第85話 奴隷、背中を押される
コンコンコンッ、と乾いた音が廊下に響く。
扉越しに聞こえる「どうぞ」の声を聞いて、一呼吸入れたあと扉を開いた。
殺風景な部屋の中には、未だ体の調子が戻らないセレティアが寝ており、その脇には、穏やかな表情のネイヤが話し相手になるように座っていた。
窓から差しこんでいたであろう陽の光も、既に大半が失われ、部屋を照らす光は、天井から吊るしている魔照炉のみで、少し薄暗い。
「ウォルス様、どうかされたのですか。顔色が優れないようですが」
「そんなことはない。光の加減だろう」
一つしかない椅子に座っているネイヤが立ち上がろうとするが、それを俺は手で制止した。
「二人に伝えておく話がある」
「それは悪い話なのかしら」
セレティアは取り澄ました態度で、俺の顔を窺うように口にした。
「いや、そんなことはないが……」
「だったら、もう少し明るい表情で話してもらいたいわね」
そんなに暗い表情になっているつもりはないが、そう言われると思い詰めた表情になっているのかもしれない。と俺は無理やり口角を上げて笑ってみた。
「ふふふっ、大丈夫、いつもどおりよ。そんなに素直に従うなんて、余程特別な話があるようね」
いつもの俺なら、確かにこんな対応はしないはずだ。
それを確認するための誘導に、見事に引っかかってしまった自分が不甲斐ない。
「俺とフィーエルは、明日からしばらくここを離れる。その間、セレティアの護衛はネイヤに任せる」
承知しましたと答えるネイヤの横で、不服そうな表情を見せるセレティア。
「どこに行くのか、答えてくれるわよね?」
「神精界という場所に行くことになった」
「シンセイカイ? よくわからないけど、危なくないのならいいわよ」
「――――それは、わからない」と俺が言った途端、セレティアの表情が曇り、明らかに機嫌が悪くなってゆく。
「危険かもしれない場所に、どういう理由で行くのかしら? もし、わたしのことで行くというのなら、許可するわけにはいかないわよ」
セレティアが言い終わるのと同時に、胸の血契呪がズキズキと痛みだし、セレティアが本気で言っていることが伝わってくる。
「フィーエルまで危険な所に行かせるなんてできないし……こんなの、一人でなんとかしてみせるわ」
セレティアは顔を背け、暗がりが広がる窓へと向ける。
セレティアを助けるために、どうしても行かなければいけない、そんな理由で説得すれば、セレティアはきっと首を縦には振らないだろう。
このままでは本当に行くことができなくなる、そう考えた俺の脳裏に、一つの答えが導き出された。それをセレティアに伝えれば、ほぼ間違いなく俺を送り出すことになる答えだ。
それを口にすれば、セレティアを傷つけることにもなりかねない――――いや、俺自身が最低な奴だと思われるのが怖いのかもしれない。
それが、俺の口からその言葉を吐かせることを躊躇わせる。
――――だが、そんな俺の背中を押すように、ネイヤが力強い瞳を向けてきた。
何も恐れず、信じた道を進めと言っている。
「ウォルス様」
ただ一言、それだけを口にし、胸の前で拳を握って見せてきた。
あの時言われた、『後悔しているなら、挽回すればいい』という言葉が俺の中で反芻される。
俺は一度大きく頷き、その言葉を告げることを決心した。
「俺の命は血契呪によって、セレティアと繋がっている。セレティアがこのまま死ぬことがあれば、俺も死ぬということだ。俺はこのまま黙って死を待つつもりはない」
「……わたしが何もできず、このまま死を待つしかないって言うの……」
セレティアはただ窓を見つめ、今まで聞いたことがないほど、弱く、力のない声で呟いた。
「――――そうだ、このままなら、そう長くはもたない」
返事をしないセレティアを畳み掛けるために、俺は話を続けることにした。
「だが、俺が行く神精界には、アルス・ディットランドの命を繋いでいた、アイネスという精霊がいると聞いた。アイネスさえ見つけることができれば、セレティアの症状を遅らせ、俺も生きながらえることができるはずだ。――――もしそれが叶わない状況、俺が死んでしまった場合、カサンドラ王国、セオリニング王国の両国は、ユーレシア王国を恐れる必要がなくなり、条約も反故にできるということだ。それは小国である、ユーレシア王国の終焉を意味するだろう」
しばらく無言を貫いたセレティアが、ゆっくりとこちらへ向き直る。
その顔は、今までのやりとりが嘘であったかのように、何かが吹っ切れたように見える。
「わかったわ……わたしのせいで、自分が死ぬのなんて嫌だものね。わたしとしても、こんなことでユーレシアを滅ぼすわけにもいかないし」
「それじゃあ、行ってもいいんだな」
「ええ……ただし、必ずフィーエルを連れ帰ってきなさい。これは命令だから」
「ああ」
セレティアはそのまま瞼を閉じ、静かな寝息をたてはじめる。
それを見届け、さらに薄暗い廊下へ出ると、後ろに付いてきたネイヤに呼び止められた。
「ウォルス様、セレティア様へのフォローは、私から入れておきますので」
「……何のことだ」
「いえ、何でもありません」とネイヤはクスリと笑って口を軽く手で隠す。
「ウォルス様も意外と不器用なのですね」
そう言って、ネイヤはすぐに普段の表情へと戻る。
「……あとのことは任せる。それと、セレティアのことは、ベネトナシュには伏せておくように」
「承知しました。ウォルス様もお気をつけくださいませ」
扉が閉まる音を背中に受け、その場をあとにした。