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うなぎ


うなぎ文というのがある。甲と乙の二人が丼物屋に入ったとしよう。

甲: 天丼、親子丼、うな丼、色々あるな。僕は天丼にするよ。
乙: 僕はうなぎだ。

乙の文がうなぎ文だ。乙は自分が人間ではなくうなぎだと告白したわけではない。うな丼に決めたと言っただけだ。しかし表面上は、自分がうなぎだと言っているように見える。ヨーロッパの言語には見られない文なので、かつては日本語の非論理性の象徴だと言われたこともあった。何も「うなぎ文」と名付けなくても良いのにと思うが、最初にうなぎ文を取り上げた金田一晴彦の例文が「僕はうなぎだ」で、それを深く研究した奥津敬一郎が「うなぎ文」と名付けたのだから仕方がない。命名権は常に第一人者にあるのだ。

うなぎ文は述語を省略したものと考えられる。

甲: 僕は天丼にするよ。
乙: 僕はうなぎだ。(← 僕はうなぎにする。)

これは日本語話者には当然の解釈で、わざわざ説明するまでもない。一方、うなぎ文を主題標識の「は」の機能で説明する人がいる。乙の文を次のように解釈し、「は」があるので「僕」(乙のこと)を説明する文になっているとする。

甲: 僕は天丼にするよ。
乙: 僕は(何にするかというと)うなぎだ。

しかしながら、うなぎ文は「は」とは無関係である。甲が天丼、乙がうな丼を注文した後、店員がうな丼をまず持ってきたが、間違えて甲の前に置いたとする。すると乙は次のように言える。

乙: いや、僕がうなぎだ。

この文にはもちろん「は」はない。述語省略と見るほうが正しいだろう。

ただ、省略という考えが引っかかる。英語と比較して、日本語は主語や目的語を省略できると説明することが多いが、省略というとあたかも存在するのが普通かのようだ。だが我々人間は不要なことを省くために黙るのではない。必要なことを言うために口を開くのだ。聞き手が知っていることを言わないことではなく、聞き手が知らないことを伝えることのほうが基本的である。明らかなことをあえて言うと何らかの別の意図が伝わるのはそのためだ。日本語で主語や目的語を省略できるというより、英語では主語や目的語が明らかな場合でも文法的に必要なので言わねばならないと考えるべきだろう。

この観点でうなぎ文を再び見てみよう。甲が「僕は天丼にする」と言った後、乙は誰が何を注文するかを甲に伝えねばならない。乙が注文するのは明らかだが、甲が自分を主題に設定したので乙はそれを変更するために「僕は」と言う必要がある。うな丼を注文するのも伝えねばならない。決定を表す「する」は文脈上明らかで、しかも繰り返しになるので言わない。

しかし日本語の文には述語が必須である。述語とは、動詞か、形容詞か、名詞+「だ」のどれかだ。述語がないと文にならないので宣言や断定にならないし、敬語を使うこともできない。そこで全く形式的に、最後の名詞に「だ」を付けて文にする。「僕はうなぎにする」の代わりに「僕はうなぎだ」と言うことになる。

これなら次の文も簡単に説明できる。

私は明日、大阪に出張です。

「出張です」が「出張します」の意味であることは、日本語話者なら誰でも分かる。動詞「出張する」に含まれる名詞「出張」だけを取り出して、「します」を言わないで「です」(「だ」の丁寧形)を付け加えただけだ。日本語では名詞句や後置詞句が名詞を修飾するには属格標識「の」が必要なので、「大阪に」は名詞「出張」にかかっているのではなく、隠れた動詞「出張する」にかかっていると考えられる。

なお、文脈の助けも何もなく、いきなり「出張する」を「出張だ」と言えるのは、元々「出張する」の「する」に意味がないからだ。この「する」は名詞「出張」を動詞化するためだけにあるので、動詞だと分かる状況では簡単に「だ」に置き換えられる。一方、「愛する」や「達する」の「する」は動詞の一部であり、「だ」に置き換えることはできない。漢字一字に「する」が付いた語と、名詞に「する」が付いた語には本質的な違いがある。

伝えるべき情報だけを言うべきであることと、日本語の文が述語を必要とすることを考えれば、うなぎ文は実に巧妙な仕組みだと分かる。論理的な解決法だと言えるだろう。


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