「既にある」が、まったくわからなくなりました。
現実にないのに「ある」なんて意味わからないし、そもそも潜在意識なんてあるのかな。
私は自分で叶えようとしていた、でも私には何も出来ない。
私の思っている潜在意識でも叶えられない。
その気になれば一瞬で叶えられるものらしいのに、私には出来ない。
もう何がわからないのかわからないくらいに、意味不明になりました。
まるで以前の私が書いたのかと錯覚するほど、あなたのお気持ちは判ります。
私では無理だと、私もそう思いました。
そこで疲れ果てた私は、もう私をやめました。
といっても、別に死んだ訳じゃありません。
私はこういう人間で、これが好きで、アレが嫌で、こういう歴史があって、という、無意識に設定していた自分から降りたのです。
自分だからこれが苦しいんだろ、自分だからこれを望むんだろ、それならそんなのやめて、単なる意識を持った生物になろうと決めました。
いわば、大規模なセドナメソッドです。
もちろん、昨日、今日、明日を生きている私には、私の過去に基づいた設定が、ついて回ります。
でも、その都度、いや、自分なんていない、ただの意識で、そう錯覚してるだけだと思い出し、自分と思っている「私」を見張る回数を増やしました。
すると、これまで知識として知っていた、「今しかない」ということに気がついたのです。
あとは楽です。
ただ私はいるだけですから、もう、どうでもいい、何でもいい、好きにしてくれモードです。
「私なんていない」
そう本気で思った時、残されたこの意識は何なのだろう、と疑問に思いました。
すると見えてきました、感じてきました、充足というものを見落としていた事に気づきました。
貴方は今、それを見つけるチャンスだと思います。
私の書き込みで、貴方に重なるところがあるならば、その部分を貴方自身の本音にはめ込んでみて下さい。
それが、貴方の真実になるか分かりませんが、これだけは言い切ります。
貴方も例外なく、充足を味わう権利があるんです。
私はきっと、私じゃなくなるのが怖いんです。
願っているものは復縁ですが、充足にいけるかもしれないと思った時、とてつもなく怖くてやめてしまった。
彼を好きな自分彼に愛されていたことのある自分でいたかった。
充足をみて、どうでもよくなってしまうのが怖かった。
理屈なく彼氏を愛せる、その思いは、誰も消せない事実であり、その心を抱けるあなた自身を誇りにして頂きたいと思います。
充足を選択しても、彼を愛するあなたが消えたりしません。
あなたが彼を思う時、一見、切ないかもしれない、悲しいかもしれない、不安かもしれない、でもさらに、その心の真ん中に進んでみて下さい。
「スタートに戻る」というのが正しい表現かもしれません。
「彼が好きだ」という、エゴの飾りつけが付く以前の、決定的な充足があるはずです。
エゴで曇っていても、あなたの充足は、中心地にいつでも、必ずあります。
エゴがもっともらしく目的をすり替えてるような気がします。
詭弁でも何でもなく、あなたが心から彼を愛している事が、最大の願望実現ではないかと思います。
復縁が願望ではないって事ですか?
彼を愛している事が願望なので、復縁は望んでいなかったって事でしょうか?
「復縁」という連続ドラマのようなアイデアは、過去、未来を使った、エゴの錯覚による概念で、実体はありません。
正確には、毎瞬、彼を愛するあなたがいて、毎瞬、彼への不足を見るあなたがいると解釈します。
彼を愛することで、あなたの本来の願いは素晴らしく完了していると思います。
「彼を愛せてるあなたを誇りにして下さい」と助言したのは、「自愛して下さい」の変形した表現です。
そしてあなたはもう、それが出来ていますよ。
エゴを離さないあなたもひっくるめて愛して下さい。
「彼を愛してる私は素晴らしい」、これ一つに興味を絞ってみるのがベストです。
チケットの理論は理解してるつもりですが、どうして「別の領域」には全てがあると言い切れるの、根拠は何なの、と思ってしまいます。
チケットって効果が立証されてないし、根拠は何だろうと、だいたい108さんって何者なんだろう、信用できるのかと、私も思いました。
そんなに正しいなら、世界の人間全ての願いが叶って、不満はゼロじゃないか、とね。
願望と実現は一つであり、例えるなら、「痒いと思ったら、もうそこに手がのびているくらいの同時進行で、速く忠実に、無限に直結しすぎていて、我々は知覚しにくい」という考えではないでしょうか。
「○○が欲しい」と思ったら、望みのそれが無条件にある世界、それが「既にある」だと解釈しています。
そして、実は全て叶っている状態を我々は見て、体験しているのではないか。
ところが我々、人間のエゴが条件、肉体、制限、罪悪感、時間、私の物、あなたの物という分別、そして本音では、要らないモノを必要なモノと欺いたりなど、様々な手口を駆使して、すぐ手に入るシンプルな真理を、困難に見せています。
まだ叶ってないように見せています。
エゴはきっと、こう思ってます。
「全編ハッピーな映画なんてつまんない、クリアしやすいゲームはつまんない」とね。
猛暑の外出から帰り、シャワーを浴びて、クーラーの効いた部屋で飲むジュース、最高です。
絶食した翌日に食べるラーメン、セット、最高です。
禁煙後の一服、最高です。
ジュース、ラーメン、タバコ、いつでも手に入れられるものですが、不足感とセットにした時の方が、充足感が分かりやすいですね。
本当はいつでもあるし、いつでも感動してもいいのにね。
街で見かける赤ちゃん、可愛いなぁ、別に自分の子じゃないのにね。
私達は一瞬一瞬を経験している意識にすぎないと思います。
昨日、体を動かしたから、今日はキツイとか、困難な条件だらけで、自分にはこの仕事ムリだろうとか、メソッドをやって2ヶ月だから、叶わなきゃおかしいだろうとか、時間、肉体、整合性など、これらがリアルすぎて、私達は別の領域を忘れがちです。
そこに、いつもいるのにね。
「じゃあ分かった、間違ってないか、それを確認しよう」と、この発想が、残念な事に、不信感とセットになってしまいがちです。
「どうなってるの、理論上では実現するんでしょ、よし、詳しい人に聞いてみよう」と、肝心な当人の願望から逸れて、メソッドや理論の究明に興味が移り、その状況を生み出していると思います。
本来は、「意図が現象を生み出す、以上」なのです。
叶ってないと不満を抱く人は、エゴの見せる現象に慌てていて、或いは腹を立てて、ある瞬間、ある瞬間に、無意識に当初の意図を取り下げているのではないかと推測します。
そして、メソッドがー、法則がー、と新たなループを造ってしまう。
チケットは素晴らしい教科書ですが、実践しだすと、それすらも、エゴが利用します。
私なりの表現ですが、「望んだら、その望みが生み出す充足感に注目し続けるのがコツ」です。
それで完了です。
でも現実化しないなら意味ないじゃん、そうは言うけど、こんな場合は無理じゃんと、エゴの常套句が出てきたら、私はいつも言い返しています。
「あぁ、そうかい、分かった、俺は叶わなくてもこれを選ぶよ、だってこっちがいいからさ」とね。
復縁とお金は、願望実現でも切実なものになりやすいですね。
「隣の人ができたなら自分もできるだろう、私にも適用できるはずだ」と思ってしまう。それは間違いではないのですが、真似して上手くいく事もあれば、全然ダメな事もある。
「世界=自分」という原点に立てば、自分にとって、それがあって当然のもののレベルにまで重要度をさげるだけなので、大したことじゃない事にすればいい、それで終わりです、簡潔です。
もしも引き寄せが嘘だったら、もしも潜在意識で実現するなんてデタラメだったら、願いなんて叶わなかったら、取り残された自分は、何を望み、何を感じたいですか?
綺麗事ですが、それこそが重要だと思います。
願望、願望、叶えたい、叶わない、と、願望のヤツを構ってあげて、宝箱の中に入れて隔離して、神棚にあげて崇めると、コイツは調子に乗って、「そうか、俺はそんなにスゴイ願望なんだ、よし、もっと俺を構って、重要度バンバン上げちゃって、観念あったら叶わないよ、エゴ視点からは実現しませんよ、さぁどうする、難しいねぇ、俺はそんなに気安く手に入らないのさ、坊や」と言ってきます。
願望は、叶わないというツンデレ現象を見せて、メソッド実践者をとりこにしています。
108さんの黄金アドバイスですが、「○○が叶わなくても別に構わない」というメンタリティーが大事だと思います。
願望という見上げる物を、自分の下に置くんです。
映画の大スターを、単なるオッサンとして見るようにね。
願望をほったらかして、無視して、それ以外の楽しい事にうつつを抜かしてみるのも一興です。
そしたら願望が、向こうの方から電話してくるんじゃないですか。
願望が、ねぇ、最近どうよ、俺がいなくても楽しいかい、って聞いてきたら、キッパリこう言いましょう、
あぁ、楽しいね、キミがいなくてももう最高だよってね。
そこで、それなりに楽しいぜ、 でも願望もやっぱり、実現して欲しいぜ、となった場合はどうしたらいいの?
これって、まだ手放せてないって事だよね?
そんなに正直に気持ちを言っちゃうと、願望は、「あ、俺にまだ脈がある」と、気をひこうとするに決まってるので、それでも突っぱねるんです。
そして本当にどうでもよくなった時、あれ、俺が欲しがらなくても持ってた、と気づく、思い出す感じです。
あなたの悩みは、私も気が狂うほど分かります。
あなたが手放せないのは、「そげな事して本当に叶わなかったら、どげんするとよぉー」という、最後の命綱を一本握っている状態なんですね。
そうではなく、本当に無関心になる(=ほかのものに興味を移す)ことです。
私がとった方法は、「私というのをやめる」というものです。
私だから、それを欲しがって、悔しがるんです。
私だから切実な問題で、じゃあ他人なら、「あーそうですか大変ですね」ぐらいで済みます。
そうすると、叶ってない可哀想な私など、どこにもいない事が分かりますので、楽です。
渇望が起きたら、また勘違いした俺が騒いでやがるぐらいに思って、ほったらかします。
「叶えたい、叶わない劇場」の舞台から、客席のほうに移動する感覚です。
すると、叶えたいと思っている自分が消えるのがイヤなんだ、その願望を持っている自分が好きなんだ、という自分の実体が見えてくるでしょう。
そしたら願望とも良い関係になれます。
達人は、その人なりの感覚で掴んだ答えがあると思うけど、どんなふうに向き合ってきたんだろう。
私の場合は、ある悩みがあって、メソッドで願望が叶わない不満も加わり、エゴが暴れまして、私は自分に、そして運命の神に対して憤ったのです。
「この真面目で、優しくて、頑張り屋で、イケメンで、ちょっと不器用な、この俺を苦しめてるヤツは一体誰だ、出てこい、この野郎、可哀想だろ自分が」とね。
神様、道徳、法律、すべてのせいにしてみても、なにかしっくりこない。
そこで思ったのです。
「そういや、自分の中にある価値観、ルールって、そもそも誰が決めたのか」とね。
これが好き、あれが嫌い、こうしたい、あーしたい、でもそれはちょっととか、自分では思い込んでるけど、そう感じろとか、そう考えなさいとか、誰が強制したのか、その強制に従わなきゃならんのか、と気づいた。
そして、「この苦しみは、他人にとっては何ともないんだろうな」とも思いました。
じゃあ、俺を降りて他人になろう、そうすりゃこの苦悩は、文字通り他人事になるだろう。
私はその時、自分をやめてみました。
あれ食べたいなー、あそこに行かなきゃー、いま何時頃かなー、とか、日常で思い浮かんでる思念すらも、これ俺じゃないし、くらいに思いながら、生きる事にしました。
すると、自分というものが固定された存在ではないと感じたのです。
完全に自分から撤退しようとすると、エゴだか別の領域だか知りませんが、待ったがかかります。
自分は自分じゃないということがバレるのが怖いんですね。
そしてそんな自分が好きなんですね。
そこから現実が好転しました。
あぁ、「全部自分で決めていたし、決めていいんだ」と実感したのです。
ベタな経験談ですが、それを決めたのは誰だ、その現実にハンコを押したのは誰だ、そう考えると、私の場合は答えがでました。
108以外 質疑応答【9】
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658 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2012/09/02(日) 18:48:50 ID:pNiPNwLsO