「銀河鉄道の夜」のミステリー・その2~「烏瓜の燈火」【三位一体節後第14日曜日】
今度の日曜日(8月24日)は、三位一体節後第14日曜日。
カンタータは、
第1年巻のBWV25、
第2年巻の名作、BWV78、
後期のBWV17、
です。
過去の記事は、こちらとこちら。
3年目に突入したので、今後はこのように、2つになることがあります。
めんどうだとは思いますが、お時間のある時にでも、ご覧になってください。
BWV78はもちろんですが、BWV17がたいへんな名作。
けっこうくわしく書いています。
* * *
今回は、「銀河鉄道の夜」のミステリー、のシリーズ。
いつの間に、シリーズ化したのか。
以前、謎の言葉、「プレシオスの鎖」について、ちょっと書きましたが、今回はそれに続く第2弾、ということで。
「プレシオスの鎖」に比べると、他愛もないような小さなことですが、最近とても感銘を受けたことがあったので。
それにこの季節になると、なんだか無性に賢治のことを思い出してしまうのです。
宮澤賢治は、なんと言っても、天性の詩人ですから、童話においても、わたしが心惹かれるのは、ストーリーや、後の人たちがむりやりクローズアップしたような教訓めいたテーマなどではなく、
その心象風景の、恐ろしいまでに精緻で美しい描写、
ありのままの、あまりにも魅力的な、それ自体が光を放つような言葉、そのものです。
中でも、夜の情景、夜の野原や森、それから星祭りなどは、賢治が最も得意としたモチーフの一つ。
世界広しといえども、こうした夜の情景を描かせて、賢治の右に出る者はいないでしょう。
もちろん、世界中の本を読んだわけではないですが。
「人魚の都」を思わせる、幻想的な星祭り、
森の闇に溶け込むようにうごめく動物たち、
そして・・・・、
透明に透き通った夜の底で、
星灯りや月灯りと呼応して、怪しくもやさしい光を放つ植物たち・・・・。
「ポラーノの広場」の、野原に点々と灯るつめくさのあかり。
「かしわばやしの夜」、
夏の夜の、森の「大乱舞会」の後、突然降りそそいだ青白い霧の中で、「化石したようにつっ立って」しまった柏の木たち。
「なめとこ山の熊」、
月光をあびて、あたかも白い雪のように輝きわたる、谷一面のひきざくらの花。
などなど。
あげていけばきりがなく、どれもこれも、心に焼き付いて離れませんが、
これらの夜の情景の描写の数々の総決算として、最高の形で結晶化したものこそが、
「銀河鉄道の夜」
だ、ということができるでしょう。
その「銀河鉄道の夜」の、あまりにも有名な導入部、
すでに夢の世界の出来事のごとくに美しい夜のお祭りの街、それから夜の野原の場面で、
極めて効果的な小道具としてそのどちらにも登場し、強烈な印象を残すのが、
「烏瓜の燈火」
です。
ジョバンニの街は、ケンタウルス祭の真っ最中なのですが、
このケンタウルス祭というのは、銀河のお祭り。
街中のいたるところを、さまざまな星座にちなんだ絵やしかけ、あらゆる美しいあかりで飾りつけ、
子どもたちは、「星めぐりの歌」を口ずさみ、「ケンタウルス、露をふらせ」と口々に叫びながら、
「烏瓜の燈火」(からすうりのあかり)や花火を持って走り回り、
最後には、この「烏瓜の燈火」を川に流す、というもの。
きわめてヨーロッパ的でありながらも、どこか、日本の精霊流しやタイのロイカトンなどを思わせ、
今のお盆前後の季節にピッタリなお祭りでもあります。
この「烏瓜の燈火」についてなのですが、
わたしは、はじめ、当然のように、カラスウリのあの特徴的な真っ赤な実を連想して、提灯のような、鮮烈な赤い火をイメージしました。
ところが、それだと、ちょっとおかしいところがある。
カムパネルラたちがカラスウリを取りに行く相談をしている部分には、
「青い光をこしらへて川に流す」と書かれています。
また、ジョバンニが、「人魚の都」さながらに美しく楽しい星祭りの街に背を向け、
いよいよたった一人、天気輪の柱に向かって、「白く星あかりに照らし出された」丘の道を登っていくところ、
「草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持っていった烏瓜のあかりのようだとも思ひました。」
と、あります。
つまり、よく読むと、どうやら「烏瓜の燈火」は、青白いようなのです。
しかも、どちらかというと、ぼーっとうつろな光らしい。
これについては、その後、
ハロウィンのカボチャのランタンみたいな、「カラスウリのランタン」というのも一般的によく作られていて、時にはまだ青い「ウリボウ」の状態のカラスウリを使う場合もあることを知りました。
そして、実際にその写真などを見たりもしましたが、
カラスウリと言えば、やはりどうしても、「赤」という印象が強烈なので、いずれにしても、ちょっとわかりにくくて、しっくりこない。
賢治は、言葉だけの力で、読む者の心に強烈で明確な、映像を伴うイメージを焼き付ける魔力を持っています。
その賢治にしては、なんだかあやふや。
お祭りの全体像を決定付けるような、大切な部分であるにもかかわらず、です。
と、いうわけで、この部分、まあ、たいしたことではないかもしれませんが、小さな「謎」として、ずっと心にひっかかっていたのでした。
さて、そのカラスウリに関してですが、
いつもいろいろなことを教えてくださるtonaさんが、カラスウリの「実」ではなく、めずらしい「花」の写真をお撮りになり、記事に載せていらっしゃいました。
tonaさんの記事は、こちら。
初めて見る方は、心してご覧になってください。
ちょっとすごいです。
カラスウリの花を見るのは、実はこれが初めてでしたが、
その不思議な姿を一目見た瞬間、心から感動するとともに、
今頃になってようやく、何となく、賢治が「烏瓜の燈火」に込めたイメージがつかめたような気がしたのでした。
カラスウリ、何とあやしくも、美しい花!
こんな花が、こんな身近なところに存在するとは。
こどもの頃、カラスウリの実は、そこら中で見かけたような記憶がありますが、こんな花、一度たりとも目にしたことはありませんでした。
それもそのはず。
tonaさんの説明によれば、受粉に適した、夜行性のスズメガだけを誘うため、夜にだけ花開く、とのこと。
真夜中に、暗闇の中で、その特徴的な触手を、ひっそりと押し広げるのでしょうか。
まるで動物のように。
うー。見てみたい。
おそらく、スズメガには、この花が、深海の闇の中でぼーっと光を放つ、発光くらげのように見えることでしょう。
なんて、幻想的なんだ。
「銀河鉄道の夜」の野原に、これ以上にふさわしい花が、他に存在するでしょうか。
誤解していただきたくないのですが、
わたしは、ここで、
賢治の言う「烏瓜の燈火」とは、実はカラスウリの花なのでは、と言いたいわけでは、決してありません。
「烏瓜の燈火」が、その実を使って作られた「カラスウリのランタン」であることは、おそらくまちがいないでしょう。
ただ、言葉の天才、賢治が、ここで、「烏瓜の燈火」という言葉を選択した時、確実に、この花のイメージも、その脳裏には存在していたと思うのです。
この、現実離れしているほどに美しい、カラスウリの花あっての、カラスウリの実であり、「烏瓜の燈火」だったのではなかったか、と。
夜の蛾と交信するため、あたかも深海生物のように、あやしく触手をはりめぐらせ、闇のしじまに光を投げかけるカラスウリの花。
常日ごろ、あてもなく夜の野原をさまよっていた賢治にとって、
「カラスウリ」と言えば、わたしのように、「赤」ではなく、まず何よりも、「青」だったのではないでしょうか。
「カラスウリ」に関して、わたしはその花を見て、ようやく賢治と同じイメージを持つことができたような気がします。
事実、この花を知ってからというもの、「烏瓜の燈火」という言葉は、あらゆる理屈を超えて、この世のものとも思えぬほど美しい、「青白い光」として、無理なくストレートに、心に突き刺さるようになりました。
暗記するほどに読み込んだはずの「銀河鉄道の夜」。
それでも、まだ、このような「発見」があります。
特に賢治作品は、植物や、動物、気象など、自然に関する知識があればあるほど、新しい世界が広がってくる。
今回はまた、そのことを思い知りました。
▽ 夜の野原に灯るランタン。
後ろに見えるのは、天気輪の柱・・・・?絶対、ちがうな。
カラスウリの写真が無かったので、虫にさされまくりながら、ロケしました。(笑)
なお、カラスウリの花は、一般的によく知られているものかもしれず、
また、「ウリボウ」を使ったランタンが登場するお祭りも、実際に行われているのかもしれません。
わたしは浅学なので、今回も、わたしなりに新しい発見をした、新鮮な気持ちをそのまま書かせていただきました。
お許しください。
▽ ミスドでゲットしたポンデ・ランタンです。
カラスウリのランタンではないですが、ちょうど、外側は赤いのに、光は青白い。
景品のサンダルがなくなってしまったので代わりにもらったが、意外と役立ちそう。
カンタータは、
第1年巻のBWV25、
第2年巻の名作、BWV78、
後期のBWV17、
です。
過去の記事は、こちらとこちら。
3年目に突入したので、今後はこのように、2つになることがあります。
めんどうだとは思いますが、お時間のある時にでも、ご覧になってください。
BWV78はもちろんですが、BWV17がたいへんな名作。
けっこうくわしく書いています。
* * *
今回は、「銀河鉄道の夜」のミステリー、のシリーズ。
いつの間に、シリーズ化したのか。
以前、謎の言葉、「プレシオスの鎖」について、ちょっと書きましたが、今回はそれに続く第2弾、ということで。
「プレシオスの鎖」に比べると、他愛もないような小さなことですが、最近とても感銘を受けたことがあったので。
それにこの季節になると、なんだか無性に賢治のことを思い出してしまうのです。
宮澤賢治は、なんと言っても、天性の詩人ですから、童話においても、わたしが心惹かれるのは、ストーリーや、後の人たちがむりやりクローズアップしたような教訓めいたテーマなどではなく、
その心象風景の、恐ろしいまでに精緻で美しい描写、
ありのままの、あまりにも魅力的な、それ自体が光を放つような言葉、そのものです。
中でも、夜の情景、夜の野原や森、それから星祭りなどは、賢治が最も得意としたモチーフの一つ。
世界広しといえども、こうした夜の情景を描かせて、賢治の右に出る者はいないでしょう。
もちろん、世界中の本を読んだわけではないですが。
「人魚の都」を思わせる、幻想的な星祭り、
森の闇に溶け込むようにうごめく動物たち、
そして・・・・、
透明に透き通った夜の底で、
星灯りや月灯りと呼応して、怪しくもやさしい光を放つ植物たち・・・・。
「ポラーノの広場」の、野原に点々と灯るつめくさのあかり。
「かしわばやしの夜」、
夏の夜の、森の「大乱舞会」の後、突然降りそそいだ青白い霧の中で、「化石したようにつっ立って」しまった柏の木たち。
「なめとこ山の熊」、
月光をあびて、あたかも白い雪のように輝きわたる、谷一面のひきざくらの花。
などなど。
あげていけばきりがなく、どれもこれも、心に焼き付いて離れませんが、
これらの夜の情景の描写の数々の総決算として、最高の形で結晶化したものこそが、
「銀河鉄道の夜」
だ、ということができるでしょう。
その「銀河鉄道の夜」の、あまりにも有名な導入部、
すでに夢の世界の出来事のごとくに美しい夜のお祭りの街、それから夜の野原の場面で、
極めて効果的な小道具としてそのどちらにも登場し、強烈な印象を残すのが、
「烏瓜の燈火」
です。
ジョバンニの街は、ケンタウルス祭の真っ最中なのですが、
このケンタウルス祭というのは、銀河のお祭り。
街中のいたるところを、さまざまな星座にちなんだ絵やしかけ、あらゆる美しいあかりで飾りつけ、
子どもたちは、「星めぐりの歌」を口ずさみ、「ケンタウルス、露をふらせ」と口々に叫びながら、
「烏瓜の燈火」(からすうりのあかり)や花火を持って走り回り、
最後には、この「烏瓜の燈火」を川に流す、というもの。
きわめてヨーロッパ的でありながらも、どこか、日本の精霊流しやタイのロイカトンなどを思わせ、
今のお盆前後の季節にピッタリなお祭りでもあります。
この「烏瓜の燈火」についてなのですが、
わたしは、はじめ、当然のように、カラスウリのあの特徴的な真っ赤な実を連想して、提灯のような、鮮烈な赤い火をイメージしました。
ところが、それだと、ちょっとおかしいところがある。
カムパネルラたちがカラスウリを取りに行く相談をしている部分には、
「青い光をこしらへて川に流す」と書かれています。
また、ジョバンニが、「人魚の都」さながらに美しく楽しい星祭りの街に背を向け、
いよいよたった一人、天気輪の柱に向かって、「白く星あかりに照らし出された」丘の道を登っていくところ、
「草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持っていった烏瓜のあかりのようだとも思ひました。」
と、あります。
つまり、よく読むと、どうやら「烏瓜の燈火」は、青白いようなのです。
しかも、どちらかというと、ぼーっとうつろな光らしい。
これについては、その後、
ハロウィンのカボチャのランタンみたいな、「カラスウリのランタン」というのも一般的によく作られていて、時にはまだ青い「ウリボウ」の状態のカラスウリを使う場合もあることを知りました。
そして、実際にその写真などを見たりもしましたが、
カラスウリと言えば、やはりどうしても、「赤」という印象が強烈なので、いずれにしても、ちょっとわかりにくくて、しっくりこない。
賢治は、言葉だけの力で、読む者の心に強烈で明確な、映像を伴うイメージを焼き付ける魔力を持っています。
その賢治にしては、なんだかあやふや。
お祭りの全体像を決定付けるような、大切な部分であるにもかかわらず、です。
と、いうわけで、この部分、まあ、たいしたことではないかもしれませんが、小さな「謎」として、ずっと心にひっかかっていたのでした。
さて、そのカラスウリに関してですが、
いつもいろいろなことを教えてくださるtonaさんが、カラスウリの「実」ではなく、めずらしい「花」の写真をお撮りになり、記事に載せていらっしゃいました。
tonaさんの記事は、こちら。
初めて見る方は、心してご覧になってください。
ちょっとすごいです。
カラスウリの花を見るのは、実はこれが初めてでしたが、
その不思議な姿を一目見た瞬間、心から感動するとともに、
今頃になってようやく、何となく、賢治が「烏瓜の燈火」に込めたイメージがつかめたような気がしたのでした。
カラスウリ、何とあやしくも、美しい花!
こんな花が、こんな身近なところに存在するとは。
こどもの頃、カラスウリの実は、そこら中で見かけたような記憶がありますが、こんな花、一度たりとも目にしたことはありませんでした。
それもそのはず。
tonaさんの説明によれば、受粉に適した、夜行性のスズメガだけを誘うため、夜にだけ花開く、とのこと。
真夜中に、暗闇の中で、その特徴的な触手を、ひっそりと押し広げるのでしょうか。
まるで動物のように。
うー。見てみたい。
おそらく、スズメガには、この花が、深海の闇の中でぼーっと光を放つ、発光くらげのように見えることでしょう。
なんて、幻想的なんだ。
「銀河鉄道の夜」の野原に、これ以上にふさわしい花が、他に存在するでしょうか。
誤解していただきたくないのですが、
わたしは、ここで、
賢治の言う「烏瓜の燈火」とは、実はカラスウリの花なのでは、と言いたいわけでは、決してありません。
「烏瓜の燈火」が、その実を使って作られた「カラスウリのランタン」であることは、おそらくまちがいないでしょう。
ただ、言葉の天才、賢治が、ここで、「烏瓜の燈火」という言葉を選択した時、確実に、この花のイメージも、その脳裏には存在していたと思うのです。
この、現実離れしているほどに美しい、カラスウリの花あっての、カラスウリの実であり、「烏瓜の燈火」だったのではなかったか、と。
夜の蛾と交信するため、あたかも深海生物のように、あやしく触手をはりめぐらせ、闇のしじまに光を投げかけるカラスウリの花。
常日ごろ、あてもなく夜の野原をさまよっていた賢治にとって、
「カラスウリ」と言えば、わたしのように、「赤」ではなく、まず何よりも、「青」だったのではないでしょうか。
「カラスウリ」に関して、わたしはその花を見て、ようやく賢治と同じイメージを持つことができたような気がします。
事実、この花を知ってからというもの、「烏瓜の燈火」という言葉は、あらゆる理屈を超えて、この世のものとも思えぬほど美しい、「青白い光」として、無理なくストレートに、心に突き刺さるようになりました。
暗記するほどに読み込んだはずの「銀河鉄道の夜」。
それでも、まだ、このような「発見」があります。
特に賢治作品は、植物や、動物、気象など、自然に関する知識があればあるほど、新しい世界が広がってくる。
今回はまた、そのことを思い知りました。
▽ 夜の野原に灯るランタン。
後ろに見えるのは、天気輪の柱・・・・?絶対、ちがうな。
カラスウリの写真が無かったので、虫にさされまくりながら、ロケしました。(笑)
なお、カラスウリの花は、一般的によく知られているものかもしれず、
また、「ウリボウ」を使ったランタンが登場するお祭りも、実際に行われているのかもしれません。
わたしは浅学なので、今回も、わたしなりに新しい発見をした、新鮮な気持ちをそのまま書かせていただきました。
お許しください。
▽ ミスドでゲットしたポンデ・ランタンです。
カラスウリのランタンではないですが、ちょうど、外側は赤いのに、光は青白い。
景品のサンダルがなくなってしまったので代わりにもらったが、意外と役立ちそう。
この記事へのコメント
「銀河鉄道の夜」と「烏瓜の燈火」のこの項、素晴らしいエッセイでした。
そうかそうかと何度も頷いてしまいました。
素晴らしい発見ですね。
早速「銀河鉄道の夜」を今日再読します。
それにしてもあんな小さな実でランタンを作るのは難しそう。
古から日本人はことのほか器用だったから、なんでもなく作ったのでしょうね。この可愛いランタンにまだお目にかかったことがないです。
来年はNoraさんにも是非烏瓜のお花を見ていただきたいです。
秋に実が熟す頃、あった場所を見当つけておかれると、もしかしてそこの種から芽生えているかもしれませんね。
素敵な一文を拝見できて嬉しく、有難いことでした。リンクありがとうございました。
tonaさんのブログでカラスウリの花の写真を見て、真っ先に思い浮かんだのが、「銀河鉄道の夜」でした。
その妖しさといい、美しさといい、正にこの作品を象徴するかのような花だと思います。すばらしい花を教えていただきました。
賢治の作品はまるで植物図鑑のように植物がたくさん登場しますが、それらをよく知っているのとそうでないのとでは、作品の味わいがまったくちがうことを、あらためて、心の底から実感して、もっと植物のことをよく知りたいと思うようになりました。
こちらの方こそ、ほんとうにありがとうございます。
”「銀河鉄道の夜」のミステリー”シリーズ化、大変嬉しいです。
「銀河鉄道の夜」は大好きなのですが、ふと考えてみるとよくわかっていない言葉や表現がたくさんあります。
Noraさんのような読み方をすると、奥深い世界を垣間見れそうですね。今後のシリーズを楽しみにしています。
ちなみに僕自身の好きなところは、三次稿のラストの数行、
「ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集まって何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がするのでした。
琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。」
です。最終稿からは削られてしまっているので少々複雑な気分ですが。
「銀河鉄道の夜」、読めば読むほど妖しいところだらけで、最高ですよね。(笑)
すでに書き尽くされてるのでしょうけど、何か、むりやり見つけて書けたら、と思ってます。でも、このブログでは、2、3回でそのままになってる「シリーズ」が、多いからなあ。
たこすけさんがお書きになったところ、ほんとうにすばらしいです。
「何とも云へずかなしいやうな新しいやうな気がする」なんて、ちゃちゃっと書いたり削ったりしてしまうのだから恐れ入ります。
わたしがこどものころ、初めて読んだ古い岩波書店版では、ラストが二つ並べて書いてあったので、わけがわかりませんでしたが。
(たこすけさんがお書きになった箇所の後に、そのまま4次稿のラストが続く)
たこすけさんのコメントに3次稿などとあったので、思わず興奮して長くなってしまった。
想像つくと思いますが、バッハやブルックナーもそうですが、第〇次稿とかの話が大好きなのです。だから、賢治にも、なおさら魅かれたのかもしれません。
>わたしがこどものころ、初めて読んだ古い岩波書店版では、ラストが二つ並べて書いてあったので、わけがわかりませんでしたが。
僕はついこの間初めて、3次稿があそこで終わり、ということを知りました。4次稿に入らずにあそこでスパッと終わられると、すごく鮮やかな終わり方だなあとしみじみと感じました。
3次稿と4次稿とでは全く違う作品になっている感じすら受けますね。
そうそう。プレシオスの鎖のくだりから琴の星にいたる当初のエンディング、いまいちわけがわからないながらも、鮮烈で霊感に満ちていて、すごいですよね。
それに対して晩年に書かれた別のエンディング(4次稿)は、話としては筋が通ってわかりやすいですが、ちょっと常識的な感じがします。
賢治はまれにみる推敲魔ですが、「ペンネムネンネン・・」→「グスコーブドリ」みたいに(これはもう同じ作品とはいえないのかもしれませんが)いじればいじるほど「ふつう」になっていってしまう例は多いように思います。
あ、でも、以前書いた「チュウリップの幻術」みたいに、どんどん磨きがかかっていったのもあるから、一概には言えないかも。
その点、ブルックナーの9番やフーガの技法ととてもよく似ていると思います。
永遠の未完成作品。何だか空気感も似ているような気が・・・・。
賢治の生家の隣り村のお祭りで作られていました 賢治は子共だった頃に友達とそのお祭りにいって鴉瓜の燈火に出会ったようでした 賢治の仲よしの弟 清六さんが御存命
で90代になられていてお歳を理由にナイトスクープにはお顔が映らなくて 残念だった
のと燈火を御存知ではなっかたことを懐かしく思い出しました どなたかアップして下さると感激です おそらく30年近く前に放送されていました
> おそらく30年近く前に
清六さんがすでに90代になられていたというと、20年ほど前の番組ということになると思います。生家の隣り村のお祭りで作られていたとのこと、賢治さんの子供の頃の記憶が銀河鉄道の夜には反映されていたのですね。貴重な情報、ありがとうございます。
それにしても、烏瓜の燈火については昔から不思議に思っていた人がずいぶんいたんですね。印象が強烈な割には実態がなかなかつかみにくい言葉です。
清六さんもすでに亡くなり(清六さんは烏瓜の燈火に関してはご存じなかったとのことですが)、時がたってゆくにつれて昔の記憶はどんどん失われていくのでしょうね。そういう意味でもとても貴重な番組だと思います。
ほんとうに機会があれば観てみたいものです。