by ぼそっと池井多
先日「やっぱり今日もひきこもる私(345)」でもお知らせしたように、昨日2月7日は庵-IORI- において
「ひきこもりは地域に支えられたいのか」
というテーブルのオーナー兼ファシリテーターをさせていただいた。
庵-IORI- に参加した方が全員で55名であったそうだ。
その中でこのテーブルに来てくださった方が、その時々によって20名~24名ぐらいで変動していたから、参加者のうちほぼ半数が来てくださったことになり、それだけ関心の高さがうかがえた。
日本全国から参加する方々がいたのは、まさにオンライン開催の賜物だろう。
庵-IORI- はコロナ禍になる前にリアル開催していたころにも、地方からいらっしゃる方がいるにはいたが、どちらかというと例外的な存在であった。
それがコロナの時代となり、オンライン開催となると、地方からの参加がスタンダードになってきたのである。
そのことは、今回のようなテーマのときには殊にありがたく作用する。
やはり東京近辺のひきこもりと、地方にお住いのひきこもりでは、「地域」というものに対する捉え方が異なってくるからである。
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結論からいうと、
「ひきこもりは地域に支えられたいのか」
という問いに対する答えとしては「ノー」という人も「イエス」という人もいた。統計を取ったわけではないが、発言した方々の中では、「ノー」の方が多かった気がする。
しかし、そもそもこの問題は、イエス かノーかはっきり二分できるわけでもないことも確かだ。
結局、どういう支援ならば地域から享受したいか、あるいは、どういう条件なら地域の労働に参加したいか、など細かな条件によって回答が異なってくるという人が多かった。
当然だろう。
「どういう支援ならば」という点では、たとえば災害時などの支援は、やはり自分の住んでいる地域から享受したい、というものだ。
それは非常にうなずける。
「どういう条件ならば」という点では、たとえば12月9日にNHKから放送された「あさイチ」に取り上げられた「地域の里山の整備」といった仕事の場合、時給換算してかなり高額な報酬が得られるなら受けてもいい、というものである。
しかし現実的には、行政から発注する仕事で、労働市場の相場からケタ外れの時給は支払うわけにいかないだろうから、こういった答えは実質的な「ノー」であると考えられるだろう。
庵-IORI- の中で話された個人的な話は外へ持ち出せないので、その範囲内で記しておくと、東京のある区の社協は、そこに住むひきこもり当事者たちにたいへん好感されており、そういう支援態度だったら地域に支えられるのも悪くない、と発言する当事者もいた。
つまるところ、行政や社協にも「地域性」があるのだ。
ひきこもり当事者から高得点をつけられる社協もあれば、その逆もある、ということである。
けれども、高評価を受けた社協の場合は、そこの社協がよいということで、その区外からもそこへ支援を受けに来る当事者がいるという。
こうなると「地域で支える」というコンセプトからは外れてくるように思う。
結局、私が申し上げている「地域にこだわらず、自分の求める支援のところへ行く」という超地域的なネットワークの話になっているのである。
また、なぜその区の社協が当事者たちに好感されているかというと、社協がおこなっている支援そのものの内容というよりは、その区の当事者活動を社協が後押ししてくれているからだという。
となれば、これも私が申し上げている、
「行政がひきこもり支援をやりたいなら、まずはその地の当事者活動を後方支援すべし」
という方針にも適っている。
いっぽう、男性のひきこもり当事者からは、自分の地域から受けたい支援として性的な援助を望む声があった。
ひきこもりは対人関係をつくるハードルが高いから、セックスができる相手を得にくい。恋人をつくるにも、性風俗へ行くにも、それなりの勇気が要る。けれど、そういう勇気がないからひきこもっている。
身体障害者の方々のために射精補助をおこなっているNPOもあるのだから、精神的なハンディを背負っているひきこもり男性のためにもそれを考えてほしい。女性のひきこもりにも性欲を満たしたいニーズはあるはずだ。そういう相手は近くに住んでいるのが望ましいから、行政は地域のひきこもりなどから性的パートナーをあてがってほしい、という声であった。
しかし、これにはさすがに女性ひきこもり当事者や女性の親御さんの側から反対の声があがった。精神的な親密さをともなわず、接近の段階も経ないで、いきなりお互いの性的欲求だけを充足させる支援というのは、求めるものではないということであった。
これはひきこもり支援の問題というよりも、男女間のセクシュアリティの違いを際立たせる議論であったかもしれない。ともかく、「ひきこもりは地域に支えられたいのか」という問題提起から、かくも多岐にわたる話が出たのだった。
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昨年以来、行政がひきこもり支援を主導するようになってきた。
そうなると、どうしても「地域」で解決する発想になってしまう。
なぜならば、自治体など行政の単位というものは「地域」を成立の要件しているからだ。
「管轄地域がない地方自治体」というものは存在しない。
社会福祉協議会を初めとして、行政による福祉活動が準拠している社会福祉法という法律で、第1条の冒頭から「地域」や「地域福祉」といった概念が出てくるのは、そのような理由によるものだろう。
結局、行政にやらせるかぎりは、「地域で何とかしろ」という発想になるのである。
これまでの多くの福祉分野では、それでよかったのかもしれない。
たとえば高齢者福祉というものを考えてみよう。
おじいさん、おばあさんの世話をするのに、わざわざ電車に乗って遠くまで行くのは、自分の親族の面倒を見るなど、公共の福祉に頼らない場合に限られたのではないか。
行政によってケアをする場合は、どうしてもその地域に住んでいるおじいさん、おばあさんが対象となる。
しかし、おじいさん、おばあさんであることは、何も「恥」とはされない。
人は誰でも年を取るものだし、地域でおこなう高齢者福祉のお世話になるのは順番だ、といった考え方で住民たちの納得が得られる。
ところが、ひきこもりはそういうわけには行かない。
誰でもひきこもりになるわけではないし、しっかり働いている人たちが大多数の地域住民として暮らしている以上、働いていないひきこもりは「恥」とされ、劣位に置かれる。
また、ひきこもりになるのは順番ではない。
さらに、おじいさん、おばあさんは地域の人が怖くないだろうが、ひきこもりは地域の人がいちばん怖いのである。
ひきこもりという存在が地域で知られることは、馬鹿にされたり、軽蔑されたり、あるいは逆にわざとらしい憐れみをかけられたり、地域いじめの対象になったり、とにかくひきこもり当事者の側にとっては踏んだり蹴ったりなのだ。
もちろん、表面的には地域の人たちは「よい人」を演じるだろうし、事実そうである場合も多いだろう。
けれど問題は、ひきこもり当事者にとってはそう感じられない、ということなのだ。
「それは、ひきこもり当事者の側の認知や世界観がおかしい」
と言ったところで始まらない。
ひきこもりの支援を考えるならば、たとえ百歩譲ってひきこもりの側の認知や世界観がおかしくても、支援の受け手であるひきこもりの心性を基に支援のかたちを組み立てていかなくてはならないはずである。
したがって、やはり従来の「地域」「地域福祉」という概念を、そのままひきこもり支援にあてはめるわけには行かないのだ。
ひきこもりは、社会福祉法第1条の「地域福祉」と相性がわるい、という事実を、いいかげん認めなくてはならないだろう。
しかし、これには大きな抵抗が予想される。
なぜならば、先に述べたように、自治体や社協など行政的福祉の組織はあくまでも「地域」を基盤としており、その体制は「地域福祉」という概念から始まっているからである。
もし「地域」「地域福祉」という概念を再検討するとなると、抜本的な組織改革や新しいシステムの創設が求められる。
これがまた大変な仕事である。
私自身、働いていない人であり、働きたくない人でもあるから、お役人さま方にだけ大変な仕事で働け、というのは気が引ける。
しかし、どうしても行政がひきこもり支援をやっていくというなら、支援の受け手であるひきこもりの心性を無視して推し進めるわけにはいかないのではないか。
もし、受け手の心性を無視して推し進めるのであれば、それは暴力的支援になってしまう。
どうも今は、「地域」を基盤とする支援者側の都合だけで、「地域で支えるひきこもり」という運動が全国的に推し進められているきらいがある。
そこで私は、一人の当事者としてまことに微力ではあるけれども、「待った」の一言をかけたい。
そして、「地域」概念を再検討し、地理的な共通性からなるローカリティを、課題的な共通性からなるコミュニティやネットワークに読み替えることによって、ひきこもりが安心して暮らせる可能性を模索していきたい。
難しく聞こえるかもしれないが、それは決して不可能なことではない。
げんに機能している当事者活動、自助グループなどは、すべて「課題的な共通性からつながっているネットワーク」だと言える。
昨日、開催された庵-IORI- にしても、参加者の皆さんは全国あちこちの「地域」からアクセスしているのであり、地理的な共通性はないのに等しいが、
「この問題を考えよう」
という課題的な共通性によってつながったネットワークによって産出された、稔り多き議論だったのである。
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