第136話 奴隷、契約を全うする
心臓から押し出される不快な振動が、腕を通して伝わってくる。
ドス黒い血液が肘から地面へ落ちてゆくと、頭上にあった特異魔法が霧散しはじめた。
「……いい判断だ…………」
アルスの気配が、先ほどまでとガラリと変わる。
殺気が綺麗に消え去り、魔力も枯渇しかかっているのだろう。
「……どうして……この世界に、転生したのが私だけじゃなかったのだろうな……」
虚ろな瞳で俺を見下ろしながら、アルスは絞り出すように最期の言葉を吐き出す。
それに込められた想いは、俺に同情しているような、自分に問いかけているような、曖昧だが、敵意を向けているようには聞こえない。
「……後悔しているのか」
「…………馬鹿を言うな……だが、貴様が羨ましいのは、あるかもしれんな……順調に理想を突き進む貴様が……」
アルスは大量に吐血し、次第に呼吸が荒くなってゆく。
無茶な魔法を行使しようとした反動と、俺が与えた傷なら当然の結果だろう。
「しかし、こうなることは……なんとなくわかっていたさ……禁忌を犯した報いだ……」
「禁忌について知っているのか!?」
あれは
他の四大竜、
「……貴様も、その禁忌に足を踏み入れたのだぞ……覚悟して……おくこと……だ」
アルスはそれだけ言って前のめりに倒れ、俺にもたれかかってくる。
既に呼吸は確認できない。
瞳からは光が失われ、脈も完全に止まっている。
聞きたいことはまだまだあったが、聞けなかったことが悔やまれる。
セレティアに使った死者蘇生魔法をアルスに使ったとしても、間違いなく成功しないだろう。
鎧の隙間から胸の血契呪に目をやると、血があふれ出している。
死者蘇生魔法が一応の成功を収めたのも、この血契呪による、セレティアと俺を繋いだ魂の縛りと、フィーエルの助けがあってこそのものだ。
「ウォルスさん……」
背後から、消え入りそうな声でフィーエルが名を呼ぶ。
振り返った先の、フィーエルの顔色は驚くほど悪い。
白い肌からさらに血の気がなくなっており、立っているのがやっとといった感じだ。
その肩に座っているアイネスは、心配そうにフィーエルの顔を覗き込んでいる。
この状況で普段どおりでいるのはまず無理だろう、と俺は何も言わず、フィーエルの言葉に耳を傾けるだけにした。
「……その、イルスさまの、あとの処置はわたしがしますので、ウォルスさんはセレティアさまの下へ行ってあげてください。目を覚ました時に側にいるのは、ウォルスさんが適任かと思います……」
目の前のアルスとは、俺の知らない二人の時間があったはずだ。
フィーエルが何を思うのかはわからないが、ここは二人きりにしてやるべきだろう。
俺の意思を読み取ったのか、アイネスもフィーエルの肩から俺の肩へと移ってきた。
「――――色々と悪いわね」
この短い言葉には、本当にいくつもの意味があるのだろう。
だが、あえて考えることも、返事をすることもなく黙ってその場をフィーエルに譲り、セレティアの下へと向かった。
「ちゃんと生き返ってるわよ」
「そのようだな」
呼吸は安定し、一度死んだというのが信じられないくらい血色はよく、いい表情で眠っている。
それを見て、急に体の力が抜けてきた。
「血契呪で死なずに済んでホッとした?」
「……ああそうだな」
アイネスに言われて、安堵した理由が違うことに気づかされる。
自分の命が助かって力が抜けたのではないことに。
セレティアと長くいて情が湧いたのか、それとも、俺の中で……。
「どうしたのよ、急に考え込んじゃって――――まあ自分を殺しちゃったから、何とも言えない心境にはなるでしょうけど」とアイネスは俺の肩をパンパンと叩く。
自分を殺したことに関しては、特に何も感じない。
まだ実感が湧かないだけなのか、自分と認識していないだけなのか。
それよりも、フィーエルがショックを受けていないか、アルスが残した言葉がどういうことなのか、そちらのほうが気になるくらいだ。
「アルスが気になる言葉を残したんだが――――俺も禁忌に足を踏み入れたとか言ってたな」
アイネスの表情が突然固くなる。
さっきまで冗談を言っていたとは思えないほど深刻な表情で、ぶつぶつと独り言を口にする。
「それは帰って、落ち着いてから話そうかしら……」
アイネスもまだ整理がついていないらしく、「ああああ、どうしてこうなっちゃうのかしら」と頭を両手で掻きむしっている。
「セレティアはまだ目覚めそうにないし、俺は一足先にセレティアをユーレシア王国に連れて帰ろうと思う。アイネスはフィーエルの側にいてやってくれ」
フィーエルに向けられたアイネスの視線は、どこか寂しそうで、アルスにも向けられているようにも感じられる。
「そうね、あの娘、フェスタリーゼには適当に、それっぽい理由を作ってアンタから説明しておくのよ」
一番厄介な仕事ではあるが、これは俺が引き受けなくてはいけないものだろうし、何より、全ての面で俺に責任がある。
ユーレシア王国では、セレティアとイルスがいなくなって、大変な騒ぎになっているはずだ。
カーリッツ王国は国王と英雄を同時に二人失い、セレティアだけ無事に帰り、二人のことは知らぬ存ぜぬを通せば、いらぬ争いを起こす原因にもなるのはわかりきっている。
「それは任せておいてくれ。フィーエルとアイネスは気を失い、何も見てないことにでもしておいてくれればいい」
そちらのほうが、俺にとって都合がいい理由を捏造することができる。
とりあえず、これで事実関係を探られても大丈夫だろう、と思ったのだが、アイネスは自分が気を失っていたというのが納得がいかないらしく、俺を睨みつけてきた。
「わかったわかった、アイネスは気を失ったフィーエルとセレティアを救助、隔離していたために何も見ていないということにしておけばいい」
「それなら、まあいいわ。上位精霊であるアタシが気絶なんて、ぜーったいありえないんだから!」
物理的にありえないのか、プライド的にありえないのかは……聞くまでもない。
アイネスは上機嫌になってフィーエルの下へと飛んでゆく。
その後姿を見送った俺は、セレティアを抱きかかえ、王都をあとにした。