第29話 奴隷、過去の自分に戻る
フィーエルが立っている姿は、昔を思い起こさせ、まだ俺がアルス・ディットランドなんだと錯覚させるほどだった。
泣き虫なところは相変わらずで、当時から成長していない姿は、人間とは時間の流れが違うエルフ特有のものだ。だが、それが逆に、俺の感覚を麻痺させた。
「アルスさまです……」
「だから違うと今さっき――――」
次の瞬間、駆け寄ってきたフィーエルが俺の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくりだした。
「おい……」
「どうして……嘘をつかれるのですか……」
フィーエルの嗚咽と言葉に、胸が痛くて張り裂けそうになる。
俺が死者蘇生魔法を研究しているのを知っていたのは、フィーエルとダラス、それに弟のイルスくらいのものだ。その過程で、転生魔法を生み出したのも知っていた。
俺が最期に転生魔法を使う時にも側にいた一人であり、失敗した時は忘れてくれと伝えていた。しかし、王宮には現在、アルス・ディットランドがいる。それなのに、どうして俺をアルスと認識するのかが不明だ。エルフは心の機微に敏感だとはいうが、それだけでは説得力に欠ける。
それに、ここで全てを話せば、必ずフィーエルを巻き込むことになる。
それだけはどうしても阻止したい。
このままカーリッツ王国を離れ、故郷の神樹の森へ帰らせたほうがフィーエルのためになる。
「どうして、俺がアルスだと思うんだ?」と俺はフィーエルの頬を流れる雫を、指で拭いながら尋ねた。
「誰も私の名を呼んでいないのに、あなたは、私の名を呼びました。それに私の立場のことも」
「……それは、ハーヴェイのパーティーに出席したからな、その時にお前の名を聞いたんだよ」
「……なら、どうしてアルスさまのオリジナル魔法である、特異魔法を使えるんですか」とフィーエルはまだ涙が溜まっている瞳で、俺を睨みつけてきた。
そういえば、フィーエルに一度だけ見せたことがある魔法だった。と俺は失敗したことを直感した。知らなくとも、フィーエルなら今の魔法が、複数属性によるものだとすぐに理解できたはずだ。そんな規模の魔法を扱える者が、世界に知られず存在できるはずもない。
俺は答えに詰まり、しばし無言の時間を貫いた。
「…………どうして何も、おっしゃってくださらないのですか……どうして……もう一度、フィーエルと、呼んでくださらないのですか……わたしのために、あそこまで本気になって怒ってくださるのは、アルスさまだけなのに……」
フィーエルは再び大粒の涙をこぼすと、その場にへたり込む。
さっきまで空に残っていた光球も姿を消し、完全に闇夜が俺たち二人を包み込んだ。
――――俺は、どうすればいい……。
アルスから逃げてきたフィーエルを、再び泣かせている俺は、一体なんなんだ……。
何が正しく、何が間違いかわからない……。
自問自答を繰り返した俺は、一つの結論に達した。
それは――――。
「俺はユーレシア王国のウォルス・サイだ。それを理解したうえで、話を聞いてくれるか――――フィーエル」
◆ ◇ ◆
雲の隙間から顔を覗かせた星々が、夜空を輝かせるように、俺たちの目の前に広がる漆黒の大河にも、俺が作り出した小指の先ほどの、淡く光る光球が無数に散らばり、俺たちの周りを優しく照らしていた。
「夢を、見ているようです……」
もうすっかり泣き止んだフィーエルは川べりに座り、その光球を懐かしそうに見つめていた。
魔法師団に入団した当初、なかなか人間社会に馴染めなかったフィーエルを呼び、こうして夜空に解き放ったのを思い出す。
「フィーエル、聞きたいことがある。王宮にいるほうの俺は何者だ」
「アルスさま……です。たぶん……」
イマイチよくわからない答えに、俺はフィーエルに顔を向けた。そこには、さきほどまでの表情とは違い、苦悶に満ちた、自分でも納得していないフィーエルがいた。
「どういうことだ? 十七年前、俺が転生魔法を使ってから、俺の身に何が起こったんだ?」
「転生魔法は失敗したんです」とフィーエルは言うと俺に向き直る。その表情は真剣そのもので、冗談で言っているのではないことはわかった。
「あの日、転生魔法を使ったアルスさまは、お亡くなりになられたため、国葬の準備に取り掛かったのですが、翌日の朝、私たちの前にひょっこり現れたんです。そして、『転生魔法は失敗したが、俺は生き返った』って言ったんです」
「生き返っただと!?」
「……はい。死者蘇生魔法とは違うが、転生魔法が偶然そういう方向に働いたと言っていました」
転生魔法がそんな風に働くなんてことはありえない。だが、ゴブリンで試した魔法でも、時間回帰に関する魔法が想定外の働きをしていた。もしかすると、俺が理解できていない部分で、想定外の現象が起きたとでもいうのだろうか……。
「確認しておくが、本当にそれは俺なんだな?」
「おそらくは……」
「さっきから、その返答はなんなんだ。さっぱりわからないぞ」
「それが……生き返ったアルスさまは、以前のアルスさまとは人が変わられたようで……。ですが、記憶も頭脳明晰なところはそのままなんです。ですから、ダラスさまも、イルスさまも、本人で間違いないだろうと……でも私は、本当のアルスさまはきっと、転生できていると……でも、生き返ったアルスさまも本人なわけで……」
煮え切らない答えに、俺の判断も着地点を失ったように答えを見いだせない。
記憶や判断力はそのままで、他人の人格が宿る、なんてことはあり得るのか?
それとも、転生魔法失敗の余波で、俺の人格に支障がきたしたのか?
それ以前に、失敗しているのなら、俺が存在する理由がおかしい……分離なんてことは魂が分かれることに等しく、考えるだけ無駄だ。
「誰かに操られているとか、何か感じるものはなかったのか?」
「……そうですね……」とフィーエルは少し考えるように目を瞑り、しばらく動かなくなった。そして、何かを思い出したかのように、すっと瞼を開けると、「周りに冷たく当たることが多くなったのですが、時折、ひどく寂しそうな目を向けるんです。それに、ご自分がお嫌いになったかのように、鏡をあまり見なくなってしまわれました」と寂しそうに語った。
フィーエルの言葉どおりなら、誰かに操られているとは考えづらい。
アルスにはしっかり感情もあって、自分の意思で行動しているのは間違いないからだ。
「そのアルスは、魔法は使えるのか? 俺は自分の魔法力に耐えられずに命を削ったんだぞ。今のアルスが生き返ったとしても、十七年も無事なのが理解できない」と俺は力を込めて言った。
「大規模魔法は控えているのでわかりませんが、一般的な魔法は普通に使っておられました。一度肉体が死んで、新たに細胞を活性化させたせいだとおっしゃっていましたが……」
死ぬ間際の俺は、転生魔法に全ての魔法力を回していた。あの状態を生き延びたとしても、魔法を使える状態に戻れるとは思えない。アルスが何者なのか、まだ俺に確信はない。だが、俺の常識を超えた存在になっているのは脅威だ。
だがこれで一つわかったことがある。
今、王宮にいるアルス・ディットランドは簡単に殺れないということだ。
俺の想像を超えて生きているうえに、どこまで魔法を使えるのかも不明。
自慢じゃないが、魔法師としてのアルスが相手なら、今の俺が戦っても一筋縄ではいかないだろう。甚大な被害が出るのは間違いなく、そのせいで国が傾きかねない。
「どうかされたのですか?」
フィーエルが、また泣きそうな顔になって、覗き込んできた。
また泣かれると敵わないが、これだけは言っておかなければいけない、と俺はフィーエルが泣くのを覚悟して口を開いた。
「アルスがイルスの裏に隠れて、民を苦しめるような重税をかけているという話を聞いた。それに、フィーエルを殺そうとまでした奴を、俺は許すつもりはない。この手で始末をつける気だ」
俺の言葉を聞いたフィーエルは、息を呑んだが、すぐに懇願するように、「私のことなんていいですから。それに……王宮にいるのも、アルスさまだと思うんです……私は、アルスさまが傷つく姿は見たくありません」と言うと、俺を真剣な眼差しで見つめてきた。
フィーエルはそのアルスに殺されかけたというのに、それでもかばうのに必死らしい。
その姿に妬けるような、アルスは俺なんだという思いがあふれたが、俺はそれを表に出さずに話を続けた。
「俺は今、邪教殲滅の依頼を受けていてな、その関連の話で、死人と会ったという情報があったんだよ。もし本当にそうなら、アルスの件も邪教と関係があるんじゃないか、と俺は思っている。もし関係があれば、イルスの身に危険が及ぶかもしれないし、嫌でもアルスを殺らないといけなくなると思う」
フィーエルの顔からどんどん温度がなくなってゆき、視線を俺から大河へと向ける。
気まずい中、二人の間にしばし無言の時間が流れた。
――――どのくらいの時間が経ったのだろうか。
役目を終えた光球が、いくつか目の前で弾け始めると、隣に座るフィーエルの頭が、俺の腕にもたれかかってきた。
「……アルスさま、いえ、ウォルスさまは強い肉体を手に入れるという、当初の願いを成就されても国へお戻りになりませんでした。それどころか、他国のために、そこまで依頼にこだわるのは、またクラウン制度なのですか?」
「ああ、今は王女の護衛として働いている」
「……ウォルスさまが、ユーレシア王国の重職に就かれているのはわかりました。それでも、もう少し早くお戻りになってほしかったです」とフィーエルは少し怒った声で言う。
「アルスが生きているのなら、俺が戻ろうと誰も信じなかっただろう。それに今も戻ったわけじゃないんだ……」
誤解しているフィーエルに、何と答えればいいのかわからず、言葉に詰まっていると、フィーエルが不思議そうに俺を見つめてきた。
俺が奴隷だということを知れば、フィーエルはどんな顔をするのだろうか。
失望させたくない気持ちが強かったが、隠していては話が進められないため、俺は思い切ってその言葉を口にすることにした。
「俺は今、ユーレシア王国で奴隷の身なんだよ」
フィーエルは俺を見つめたまま固まり、ピクリとも動かなくなってしまった。
やはりこうなったか、と俺は深い溜め息を吐いた。