第105話 奴隷、あの娘に遭う
イルスの言葉に、後ろに控えていた護衛が殺気立つが、イルスは右手を軽くあげてそれを制した。
「私に危害を加えるつもりなら、無効魔法など使う意味はないはずだからね。ウォルス、そんなに警戒することはないだろう。いったい、何の意図があって、こんな真似をしたのかな」
わかったうえで訊いているのか、その判断がつかない。
イルスは全く敵意を見せず、頂から俺を見下ろすように、静かな圧力でもって質問してきた。
「失礼いたしました、つい癖が出たようです。申し訳ございません」
「癖だと?……」
「……噂なのですが、周辺国では人間ではない何かが、国の中枢にまで浸食しているという話が広まっておりまして。それには、この水属性無効魔法が有効といういことで、体に触れるときは、無意識にする癖が……」
「では、私は問題なかったということかな」
「……はい」
イルスは怒りも笑いも見せず、無感情な表情を向けてくる。
全く感情が読めない人形のようだ。
敵意はないが、味方とも思えない表情に、このままイルスを野放しにしておいてはいけない、という危機感が募ってくる。
同時に、イルスとの小さい頃からの出来事が、走馬灯のように頭の中を思い起こされる。
物心がついて、初めて俺の魔法を見て驚き、輝く瞳で俺を見つめてきたイルス。
自分の魔法が俺の足元にも及ばないことを知り、影で俺を支えることに徹した。
そのせいか、いつしか見えない壁ができていたが、それでも兄弟という強い絆で結ばれているのを感じていた。
しかし、たとえ血を分けた兄弟であっても、今のイルスは危険だと、俺の直感が警告するのをやめない。
魔法が俺の知らないレベルにまで到達しているようだが、この距離なら物理的な俺の攻撃は確実に防げない。
――――この場で殺ってしまったほうが、自分のため、強いてはユーレシア王国のためになる、このまま放置していては、必ず脅威となる。そう結論づけた時、血契呪が俺の体を支配した。
「ウォルス、イルス王に失礼でしょう」
「…………申し訳ございません」
セレティアから強い意志が伝わり、俺の体を強制的にこわばらせる。
俺が何をしようとしたかはわからないだろうが、セレティアは今の状況を無難に終わらせることを望んでいるようだ。
確かに、ここでイルスを殺れば、目の前にある不安を摘むことはできるが、その後がどういう道をたどるかは予想がつかない。
「いやいや、この魔法に気づける者はそういない。現に、後ろにいる者は誰一人として気づいていなかった。主君のために、ここまでできる者は貴重だ」
そう言ってイルスは俺の肩を軽く叩く。
「今度からは気をつけることだ。私だったからこの程度で済むが、場合によれば、国を相手にすることになっただろう」
「以後気をつけます」
「ははは、そう気にすることはない。君なら、その辺の国なら相手にできそうだしね」
イルスはそう言って大きな口を開けて笑う。
その余裕が、カーリッツ王国は無理だと言わんばかりの重みを与える。
「では、わたしたちはこれにて失礼させていただきます」
「ああ、また会えるのを楽しみにしているよ」
◆ ◇ ◆
何事もなく部屋を出てきたが、足が重く、自分の足ではないような感覚が襲ってくる。
今回は完全に俺の完敗だ。
俺の予想を超えるものを見せつけられ、まだ頭の整理がつかない……。
「ウォルス、大丈夫? さっきは冷や冷やしたわよ」
「すまない……アルスならいざしらず、魔法師として有名ではないイルス王に、まさかこの魔法が見破られるとは思わなかった……俺の失態だ」
「でも、錬金人形じゃないってわかったんだし、よかったじゃない」
「まあな……」
セレティアとベネトナシュは、錬金人形じゃなかったことに安堵しているようだが、正直、俺には錬金人形以上の衝撃だった。
どうしてイルスに見破られたのか、あの、上から押さえつけられるような威圧感、以前にはなかったものが腑に落ちない。
この世界は並行世界で、今のイルスがこの世界での本来のイルスで、俺の記憶にあるイルスが元々存在しない幻想なのかもしれない。
そうなれば、俺の記憶にあるイルスとは別人ということになる。
だが、今まで俺に親しい人間で、ここまで全てが違っていた者はいない。
別人だとは思いたくはないが……。
「セレティア様、このあとのご予定はどういたしましょう? 特に決めておられないのなら、一度、ユーレシア王国にお戻りになられてはどうかと。陛下が心配されておりましたので」
ベネトナシュは歩きながらセレティアに今後の予定を聞き、セレティアはその話に頷いている。
廊下にミリアはおらず、このまま帰れということかと考えていると、廊下の突き当りにミリアが姿を現した。しかし、ミリア一人ではなく、その背後に二人の影が見える。
「あれは、ダラスと……フェスタリーゼじゃないか……」
「本当ね、今度は何を言われるのかしら」
会ったこともないベネトナシュは、事の成行を黙って見守るように後ろに下がった。
近づいてくるダラスは普通の態度だが、フェスタリーゼは明らかに不服そうな顔でこちらを睨んでいる。
会いたくないのはこちらも同じだ、と思わず言ってしまいそうなほどだ。
「本当にいるなんて、どういう神経があればここへ来られるのかしら」とフェスタリーゼは顔を合わせて早々、吐き捨てるように言ってきた。
「次は軍を動かすと言っていたはずだが、見当たらないな」と俺も負けじと挑発するように言い放つ。
「フェスタリーゼ様、おやめください。このようなことをおっしゃるために来たのではありません」とダラスがフェスタリーゼを諌め、「ウォルス、あなたも安い挑発に乗らないの」と俺までセレティアに注意された。
「――――で、俺たちに何か用がでもあるのか」
「セレティア殿下がこちらにいると伺ったのでな、私とフェスタリーゼ様も謝罪をしたく――」
「ダラス! 私がどうして謝らないといけないのよ。私はまだこいつを信用してないのよ。あなたが謝りたいのなら、勝手にすればいいの。私はそれを見届けにきただけよ」
フェスタリーゼはツンツンした態度で、ダラスの後ろに隠れて俺の視線上から逃げる。
そんなフェスタリーゼの態度に、ダラスはシワが増えた眉間にさらにシワを作り、大きなため息を吐いた。
「申し訳ない。フェスタリーゼ様は素直になられるのが苦手なのだ」とダラスはフェスタリーゼに聞こえない程度の声で言う。「何でも、ハーヴェイ様は最初からカーリッツ王国から逃げる手助けをされたとか。きっと邪教と関係がないとわかっておられたのだろう。それに比べ、私はとんでもないことをしてしまった。謝罪をしても許されるとは思っておらん」
ハーヴェイが何を言ったのかは知らないが、自分に都合がいいように、事実を捻じ曲げて伝えているのだけは確かなようだ。
追放されたと言ってやりたいが、ここはそれを呑み込んで、この状況を利用することに頭を切り替えた。