鳥居啓子(とりい・けいこ) テキサス大学オースティン校冠教授 名古屋大学客員教授
1993年、筑波大学大学院生物科学研究科博士課程修了。日本学術振興会特別研究員、イエール大学博士研究員、ミシガン大学博士研究員などを経て、2009年ワシントン大学教授、11年ハワード・ヒューズ医学研究所正研究員。19年からテキサス大学オースティン校ジョンソン&ジョンソンセンテニアル冠教授。井上学術賞、猿橋賞、米国植物生物学会ASPBフェロー賞など受賞。専門は植物発生遺伝学。
デトロイトの労働者階級の家で生まれ育った研究者の偉業
2019年の暮れ、中国・武漢で発生した未知の肺炎。中国の研究者たちは原因となる新型コロナウイルスを同定し、2020年1月10日にRNAゲノム配列を公開した。
ウイルスゲノム配列が全世界に公開されたことにより、研究者たちは迅速に動いた。1月20日には、マクレラン研究室のワン研究員が2か所をプロリンに置換した安定化バージョンの新型コロナウイルス突起たんぱく質の遺伝子をクローニング。博士課程のダニエル・ラップ大学院生が、昼夜問わず実験して、わずか10日間で安定化させた突起たんぱく質を精製。同夜、クライオ電子顕微鏡で構造を解明した(前稿参照)。2月10日には、論文をサイエンス誌に投稿。実験を始めてからわずか3週間という超スピードであった。
論文は、投稿7日後に受理され、その2日後にオンライン版が発表された。サイエンス誌のようなトップジャーナルで、投稿後1週間ちょっとで公開された論文を私は知らない。ちなみに、この論文は2021年2月1日現在、3494回も引用されている(Google Scholar調べ)。
こんな電光石火で新型コロナウイルスの突起たんぱく質の構造解明と安定化が可能だったのは、すでに、何年も前からマクレラン博士の研究室にはMERSとSARSという2種類のコロナウイルスで積み上げた知見があったからである。その地道な苦労なくして、新型コロナウイルスの「融合前の型」の突起たんぱく質をワクチンに利用することはできなかっただろう。
白人アメリカ人の科学者としては珍しく、マクレラン博士は"First Generation(第一世代)"である。第一世代とは、両親が大学を卒業していない(=高卒などの)家庭に生まれ育った学士や博士たちのことだ。日本の自動車産業がアメリカに進出し貿易摩擦が起きた1980年代。マクレラン博士は、日本車ブームで沈む米国の工業都市デトロイトの労働者階級の家に生まれた。
父親は近所のスーパーで働く。ただ、両親ともに「教育こそが子供の人生に最も大事」と強い信念を持っており、勉強を何よりも応援してくれたそうだ。そんな家庭に育ったマクラレン博士は、地元デトロイトにある公立大学(ウェイン州立大)に成績優秀者として奨学生の身分で進学した(ちなみに、デトロイトの近郊には、全米でも屈指の名門校ミシガン大学がある。だが、高額な学費を負担できず諦めたそうだ)。
大学では化学を専攻。両親の期待に応え、将来は医者になろうと思っていたそうだ(注:日本とは異なり、アメリカの医学部は大学院である。そのため、医師になるには、まず、学部で生物学や化学などを専攻し、学士号を取得した後に医学部を受験することになる)。しかし、生化学の授業で見たたんぱく質の構造モデルの美しさの虜になり「構造生物学」という基礎研究分野に進むことに。博士課程はジョンズ・ホプキンズ大学医学部でヒトの発生に関わるたんぱく質の構造を解析した。「研究の面白さは?」と尋ねると「あるたんぱく質の構造を解いた時、世界でこの構造を知っているのは自分だけ。その感動は言葉にできないほど素晴らしい」という答えが返ってきた。
ただ、やはり、両親や多くの人の健康に貢献したい、という気持ちが強くなっていった。そこで博士号取得後、ポスドクとしてNIHで構造生物学の視点でワクチンのデザインに関わることに。その後、独立研究者として、一貫してウイルスの突起たんぱく質の構造の解明と、そのワクチンへの応用を目指した研究を続けてきた。2018年に、米ダートマス大学医学部からテキサス大学オースティン校分子生物科学科に引き抜かれ移籍している。
新型コロナワクチンの恩恵は、最終的には地球上の数億、いや数十億の人々が享受するだろう。「医者にはならなかったけれど、あなたの基礎研究が、一人の医師よりずっと多くの人々を救うであろうことを、ご両親はどう思っているかしら」という私の質問に、マクレラン博士は顔を綻ばせこう答えた。「実は、つい先日、高齢の母が近所の病院で新型コロナウイルスワクチンを接種したんです。注射してくれた看護師さんに、泣きながら『うちの息子が貢献したワクチンなんです!』と語ったそうで。ちょっと恥ずかしいけれど、すごく嬉しい。ずっと応援してくれた母なので」。
ウイルスという目に見えない小さな構造体。その表面のたんぱく質を理解し、形を安定化させるという基礎研究。それがパンデミック収束の鍵となるかもしれない。私自身、一介の基礎生命科学研究者として、基礎研究の小さな一歩一歩が大きな力となることを目の当たりにし、基礎研究のパワーを改めて実感している。
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