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■ 殿様の蝦夷趣味
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肥前平戸藩主松浦壱岐守清(1760~1841)は学問好きで、安永4年(1775)に16歳で家督を相続して第9代藩主となると、同8年平戸城内に「楽歳堂」、江戸藩邸内に「感恩斎」を設置して、書籍や地図、絵画や工芸品などの収集に努めました。彼は文化3年(1806)に47歳で隠居し、号を「静山」として、天保12年(1841)82歳で亡くなるまで、江戸本所(現在の東京都墨田区)の別邸で長い余生を過ごしました。文政4年(1821)から書き始めた随筆『甲子夜話』は全278巻におよんでいて、高い教養と飽くなき好奇心に支えられ、多くの人びとと交流した静山が、生涯にわたって見聞きしたさまざまな内容の記事が収録されています。
松浦静山が生きた18世紀後半から19世紀前半は「蝦夷ブーム」と呼ぶべき時代でした。長崎貿易の最重要輸出品であった「俵物」(干鮑・煎海鼠・鱶鰭〈フカヒレ〉)や昆布、商品作物の生産に欠かせない肥料原料となった鰊(ニシン)など蝦夷地の海産物に対する需要が大きくなっていきました。また、千島列島や樺太への進出著しいロシアに対する防備が必要とされました。こうして、蝦夷地や北方への探検が進められ、多くの人びとが蝦夷地に行き、蝦夷地に関する多くの書籍や絵画が掛かれ、アイヌの人びとのすぐれた工芸品が蝦夷土産として人気を集めました。
松浦静山も蝦夷地に対してひときわ高い関心を持ち、さまざまな情報や文物を収集しました。それは藩主としての政治的関心に加え、当時の知識人に共通する蝦夷趣味の表れでもありました。
長崎県平戸市の松浦史料博物館には、蝦夷地に関する文献や絵画、アイヌの人びとの生活道具が所蔵されています。そのうち、天明5年(1785)に静山が収集したアイヌの人びとの弓・矢・箆(ヘラ、機織りの歳に横糸を打ち込む道具)は、日本国内に現存が確認される、年代が明確な最古のアイヌ資料(出土品を除く)と言われています。また、藩主時代の寛政元年(1789)に起こったクナシリ・メナシの蜂起に関する記録を収集し、蜂起を収束して服属したアイヌの首長たちを松前藩の家老で絵師の蠣崎波響が描いた「夷酋列像」を模写させています(「蝦夷図像」)。静山は松前藩主松前道広と親交厚く、道広や松前藩関係者を通じて、アイヌ資料を収集したと考えられます。
『甲子夜話』にも、静山のアイヌ資料の収集記録や、蝦夷地・アイヌの人びとについて多くの人びとから集めた情報が収録されています。三編巻五十七には、天保2年(1831)、静山が引退していた北方探検家の最上徳内(1754~1836)と会見して、蝦夷地や樺太、山丹(黒竜江=アムール川下流域)の人びとの風俗について、一問一答を行った記録が掲載されています。その中には、「男女の交り如何」や「(夫の留守中に「姦」があった)其ときは何かがする」という質問もあります。当時72歳の静山が78歳の徳内に、興味津々といった感じで、アイヌの人びとの男女関係について尋ねているのですね。殿様の「蝦夷趣味」は老いてもなおとどまるところをしらないといったところでしょうか。
(参考文献)大塚和義「松浦史料博物館所蔵のアイヌ民具」(『平戸市史研究』第2号)
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