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■ ~おめでとう!Mine秋吉台ジオパーク!~平尾台と秋吉台を、比較してみました。
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平尾台や秋吉台の石灰岩をつくった“古サンゴ礁”の生きものたちを復元した、いのちのたび博物館エンバイラマ館「古生代のジオラマ」。
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北九州市は、日本ジオパーク認定に向け、ジオツアーやジオハイキングなどの活動を通じ、ジオパークについて、広く知っていただく活動を行っています。その活動の中でよく訪れる地として、平尾台があります。
平尾台は、2015年9月4日にジオパーク認定された秋吉台(祝!)(Mine秋吉台ジオパーク)とならび、日本を代表するカルスト台地として広く知られています。
最近、平尾台と秋吉台の違いをよく尋ねられます。
そこで、今回、Mine秋吉台の日本ジオパーク認定を祝し、恣意的ですが、少し比較をしてみました。
私は、小学校のころ、美祢市にある秋吉台の麓で育ち、その後、現在まで北九州市で多くの時間を過ごしています。専門は地質・古生物学(化石研究)ですが、その中でも、秋吉台の石灰岩に含まれるフズリナをこれまで研究してきました。フズリナは、顕微鏡を使ってやっと観察できる小さな微生物の化石(微化石)です。沖縄などでお土産として販売されている“星の砂”は有孔虫と呼ばれる微生物の殻が砂粒をつくったものですが、その古い仲間がフズリナと考えられています。
平尾台と秋吉台の違いは?
(1)台上の石灰岩から、フズリナのような化石が発見されるのが秋吉台。
台上の石灰岩中に化石が見られないのが平尾台。という違いを、まずあげることができます。この違いは、約1億年前の恐竜時代のマグマの影響を色濃く受けたかどうかを反映していて、マグマの熱の影響を強く受け、化石が焼失したのが平尾台、と考えられています。
この他にも、以下の違いを感じることがあります。
(2)台地としての広がりが大きいのが秋吉台(石灰岩分布域は約90平方キロメートル、太田正道、私信)、小さいのが平尾台(石灰岩分布域は約13平方キロメートル)。
(3)台地(台下集落から台上までの高さの違い)を強く意識するのが平尾台(平尾台入口から平尾台自然観察センターの標高差約312m)。台地としての高まりをあまり感じないのが秋吉台(秋芳洞観光センターから秋吉台科学博物館の標高差約154m)。
(4)景観の違い:平滑斜面が緩やかで、深いドリーネもあるが、広い平坦な高原状の広がりを感じるのが秋吉台。コンパクトではあるが起伏に富み、貫入岩類など、台地をつくる岩石の多様性を感じるのが平尾台。
(5)森が多いのが平尾台。少ないのが秋吉台。
(6)近・現代の生活のあと(農地利用の痕跡を含めた生活痕)が多いのが平尾台。少ないのが秋吉台。
(7)洞窟の数が多く規模が大きいのが秋吉台。数が少なく規模が小さいのが平尾台(注!面白さは別として)。
(8)台上に露出する石灰岩の様子の違い(石灰岩柱、ビナクル、ラピエなどの名で知られる露出石灰岩の形態の違い)。羊を連想させる丸く、牧歌的印象があるのが平尾台(石の表面がザラザラした結晶質石灰岩“大理石”からなる)。稜線が尖っていてシャープな印象を持つのが秋吉台(再結晶化していない、表面がトゲトゲした石灰岩)。
これは台地の直接的な違いではないのですが、両地を訪れると地元の人の方言(山口弁?と北九州弁?)が違うので、まったく違ったカルスト台地に来たことを実感させます。
では、似ているところは?
もちろん
(あ)カルスト地形が見られることです。
これ以外にも、
(い)地質学的重要性から、国指定天然記念物や国の特別天然記念物に指定されている点(もちろん両者とも地質100選に認定されている)。加えて、国定公園として自然が保護、保全されている点。
(う)両地域の石灰岩が、暖かい広い海の中にある海山で成長した“古サンゴ礁”に暮らす生きものたちが作ったと考えられている点。
(え)洞窟が発達し、洞窟堆積物からナウマンゾウをはじめとした多様な化石が発見されているなど洞窟学のメッカである点。
(お)太古の昔から人々の暮らしの場(縄文時代の遺物の存在など)となっていた点。
(か)野焼きや山焼きが行われるなど、住民の協力のもと自然環境が保全されている点。
(き)根菜系(平尾ごぼう、美東ごぼう)のドリーネ耕作が行われていた(orいる)点。
(く)秋、ススキの揺らぐ景色や石灰岩を好む植物が見られる点。
(け)草原の生きもの(キツネやタヌキなどの哺乳類をはじめ、キジなどの鳥類やチョウをはじめとした昆虫など)が暮らしている点。
(こ)洞窟を好むコウモリや昆虫などが観察できる点。
(さ)近くで銅や水晶などの鉱物が採掘されていた(花崗岩類との関連性が見られる)点。
(し)セメントの原材料などのために石灰石が採掘されている点。
などがあげられます。
まだまだ私が気づかない、平尾台と秋吉台の相違点があるかもしれません。
皆さんと一緒に、北九州ジオパーク活動を通じて、両台地の魅力に迫っていければと思っています。
(自然史課学芸員 太田 泰弘)
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■ カワウソの解剖から始まった!? 日本初の人体解剖
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山脇東洋解剖図
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明和8年(1771)、杉田玄白と前野良沢が罪人の腑分け(解剖)を見学したことをきっかけに、『解体新書』(1774)を刊行したことは有名です。今回は、その17年も前、日本で初めて人体解剖を行い、その様子を記録した山脇東洋についてご紹介します。
山脇東洋(1705~1763)は、古方派(『傷寒論』などの中国伝統医学の重要性を説く流派)の医師で、体の中の構造に高い関心を持っていました。当時、人体の解剖は許可されていなかったため、東洋はカワウソを解剖し、体の構造を調べていました。その結果、中国から伝わった五臓六腑図(体の中の様子を描いた図)に疑問を持つようになり、人間の体の中を見たいと望むようになりました。
宝暦4年(1754)、東洋が50歳の時、ついにその願いが叶います。公式の解剖として初めて許可が下り、京都の西郊で刑死体の解剖が行われました。ただし、当時の解剖において執刀は医者が行うことはできず、見学するのみでした。
東洋はこの時に見た体の中の様子を描かせ記録しています。西洋の本や『解体新書』のような参考となるものが一般的になる前のことですから、体の臓器を確認しながらの記録は大変な作業だったことでしょう。また、解剖に対する反論も多い時代だったといわれています。そんな中、宝暦9年(1759)に東洋は、この記録に小論文などを加えて『蔵志』として出版します。東洋の他にも古河藩医河口信任(1736~1811)が『解屍編』(1772)を刊行するなど、『解体新書』より前に体の中を観察しようという実証的な医学の流れがすでに生まれていたのです。その後、各地で解剖が行われるようになり、日本の医学は転換期を迎えます。
本日より開催の特別展「医は仁術」では、今回ご紹介した山脇東洋の解剖図の他にも、解剖を行っている様子や臓器の詳しい絵図などが展示されます。CTスキャンやエコー、カメラなどの機器がない時代、人体を研究した記録や、当時の人びとが抱いた体の構造への疑問や驚きをぜひご覧ください。
(歴史課学芸員 上野 晶子)
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