9話 おっさんと少女、入浴と前髪
「あら、ダグラスさん? あなた旅の途中だったんじゃ……」
買い出しを終え、雑貨店を出たところで声をかけられる。
振り返ると白髪頭をスカーフに包んだ婆さんの姿があった。
曲がった腰を杖で支えながら、こちらに向かって手を振っている。
(あの婆さんは……)
昨日の朝この村を出発するときに、俺が水の入った桶を運んでやった婆さんだ。
「やあ」
俺はラビを連れて傍へ寄っていった。
ラビは人見知りをするらしく、恥ずかしがって俺の後ろに隠れてしまったが。
「この村に戻って来ていたのねえ」
「そうなんだ。わけがあって引き返すことにしたんで、もう一晩お世話になるよ」
「まあまあ、それはよかったわぁ。あのときのお礼をちゃんとしていなかったでしょう? 是非、今晩の夕食はうちへ食べに来てちょうだいな。もちろんそちらのおチビちゃんも一緒に」
「いや、しかし……」
「ごちそうでもない田舎料理だから、どうか遠慮はしないで」
お礼をして欲しくて手を貸したわけではない。
(だが無下に断るのもな)
婆さんが是非にと繰り返すので、結局俺はラビを連れて夕方伺うことにした。
でもまずは宿の確保だ。
『農夫と鹿亭』という名の酒場宿は、通りを挟んで雑貨店の向かいにある。婆さんとは一旦別れて、宿屋へと向かう。
扉を開くと上についているベルがカランコロンと音をたてた。
食堂の掃除をしていた宿の女将が顔を上げる。
明るいオレンジ色の髪を高い位置でくくった女将は、背が高く、がっしりした体型の女性だ。
早口でまくしたてるように喋る、かなりせっかちな人である。
俺を見ると、きつめの顔におやっという表情を浮かべた。
「いらっしゃい。もう1泊していくのかい? ん? なんだい、その子は? あんた子連れじゃなかったろ」
「ああ、ちょっと事情があって……」
俺がモゴモゴと伝えると、女将は片眉をあげた。
俺の後ろに隠れているラビに視線が向かう。
ラビが俺のズボンにギュッとしがみついてきた。
「……ふん。人さらいってわけではなさそうだから、理由は突っ込んで聞かないけど。子供でもベッドを使うなら料金は大人分いただくよ」
「ああ、わかった。それはもちろん払――……」
言葉の途中でまたすぐ女将が話はじめる。
「それにしてもずいぶん汚れた子だね。そのままじゃ寝かせられないよ。タライを裏庭に出してやるから、宿に入る前にちゃんと洗っとくれ」
女将の言葉にラビがビクッと肩を揺らす。
ただ俺が口を挟むより先に、女将は腰に手を当てて諭すように言った。
「別に意地悪で言ってるわけじゃないんだから、ビクつくことはないよ。洗えば綺麗になるんだ。わかったね? わかったら返事をおし」
「う、うん……」
「声の小さい子だね。まあいい。言っとくが湯なんて用意できないからね。水は共同井戸から自分たちで運んでくるんだよ。わかったらさっさと動きな!」
嵐のように女将にまくしたてられ、言葉を挟み込む余地などまったくなかった。
共同井戸は村の真ん中にある。
そこからバケツに一杯水を汲んでくると、女将はすでにタライを用意してくれてあった。
ザバーッと水を流し込んでタライを満たした後は……。
(この水を湯に変えてやらねばな)
いくら春の午後とは言え、冷水で体を洗わせたくはない。
《火炎の聖霊、怒りの炎を我に貸し与えたまえ――火魔法サラマンダー》
俺は火魔法スキルを使って火の玉を作ると、それを水の中に沈めていった。
焼き石で湯を沸かす方法と同じだ。
3つ目の火の玉を落とした辺りで湯気が上がりはじめた。
手を入れて確認する。
ちょうどいい温かさだ。
「あんた、ちょっと! すごいじゃないの!! ボーッとした顔してるのに!!」
(顔はボーッとしてるって……)
俺は苦笑いを返した。
「よし、ラビ。まず髪から洗うか」
「……!?」
ラビがびっくりした顔で俺を見返してくる。
「え?」
何に驚いているのかわからず首を傾げると……。
「こら!! 女の子なんだから!! 気を使ってやるんだよ!」
女将に怒られギョッとする。
女の子だという認識はあったものの、いかんせんまだ子供だ。
(いやでもまあ、そうだな……)
「それじゃあラビ、この石鹸を使って体も髪も洗うんだ。手ぬぐいは濡れないよう庭の木にかけておくから、湯を出たら使え。着替えも同じ場所に置いておくな」
ラビの汚れ具合から考えると、タライの水はすぐに濁ってしまいそうだ。
それも逐一、変えてやるつもりでいたのだが、この場を離れたら難しい。
「悪いが女将、湯をかけるのだけ面倒をみてやってくれないだろうか?」
「まったく仕方ないね。1回流す程度じゃ汚れを落とし切れないだろ。どんどん湯を用意しとくれ」
「ああ、わかった」
確かに湯は足りなさそうだ。
しかしそうなると井戸と庭を往復しているほどの時間はない。
(む、そういえば今の俺は2種類のスキルでも併用できるのだったな)
だったら何も水を汲みに行くことはなかった。
《火炎の聖霊、怒りの炎を我に貸し与えたまえ――火魔法サラマンダー》
《空白の魂に愛求める水の聖霊よ、恵みの水を授けたまえ――水魔法ウンディーネ》
火魔法と水魔法のスキルを同時に発動する。
左手からあふれ出した水に向かい、右手から湧き上った炎がクルクルと渦を巻いてまとわりついていく。
じゃれ合うようにして水と火がひとつになると、熱気を感じさせるお湯へと変化した。
(よし、これをバケツに次々注いで……)
「……!? な、なんだいそれは……!? いったいどうなってるのさ!?」
女将は信じられないというように目を見開いている。
「ああ、これはスキルの二重遣いだ」
「スキルの二重遣い……!? そ、そんな信じられない……。二重にスキルを使えるなんて勇者様ぐらいじゃないのかい……? ハッ……! アンタまさか勇者様!? ……のわりに年を食ってるけど……」
(……国王が認めた勇者アランの二重スキル、か)
どんな田舎に行っても老若男女、知らぬ者はいない。
俺はアランと呪いのことを思い出し複雑な気持ちになったが、無理やり笑って平静を装った。
「はは……。俺は勇者ではないよ」
「じゃあいったいどうしてそんな離れ業を……」
「二重スキルは努力次第で習得できるようだな」
「努力って……そんな馬鹿な話あるもんか……。アンタ、実はとんでもない冒険者だったんじゃ……」
女将に詰め寄られたら俺は、困りながら頭をかいた。
「いや、俺は冒険者じゃない。たんなる流れ者さ」
◇◇◇
お湯をどんどんバケツに入れて、女将がそれでじゃばじゃばとラビを洗う。
もうお湯は足りると言われてからは、女将に任せて、食堂内で待たせてもらった。
それからしばらく。
得意げな顔の女将に連れてこられたラビを見て、俺は息を呑んだ。
「どうだい? だいぶましになっただろう」
埃や汚れでくすんでいた蜂蜜色の髪が、輝きを取り戻している。
汚れを落とした肌は、透きとおるように白くなった。
やはりワンピースの丈は少し長かったが、男用のダボダボなコートを着ている時よりもずっと見栄えがいい。
なによりも眉毛の辺りで切りそろえられた前髪。
短くなった分、大きな瞳がしっかり見えるようになって印象がだいぶ変わった。
(前髪だけでこんなに違うものなんだな……)
仕草は同じでも、だいぶ明るく見える。
前髪の隙間からものを覗き見ていたときとは、ラビの心持ちも変わるはずだ。
(視野が広がると気分もいいもんな)
「前髪が長すぎてどうしようもなかったからね、切ってやったのさ。もちろんこの子にも許可を取ったよ。ね、あんたも気にいっただろう」
「うん……」
ラビは恥ずかしそうに短くなった前髪を押さえているものの、女将の言うとおり嫌がっている感じはしない。
「子供らしくてかわいいんじゃないか」
ラビの頬が赤く染まる。
褒められて照れくさいのだろう。
(これならラビの感情がわかりやすいな)
俺が女将にお礼を伝えると、ラビも同じようにお辞儀をした。
ラビが体を洗い終えたあとは、俺の番だ。
タライを借りて、せっせと汗や汚れを落としていく。
昨日の下着やら靴下などもその時まとめて洗った。
本来は自然乾燥が一番だが、午後のこの時間に干しても間に合わない。
着替えを終えたあとで風魔法を使い、サッと乾かしてしまった。
もろもろ済ませて一息ついた頃、赤い夕陽が村を包み込みはじめた。
ちょうどいい時間だ。
俺はラビを連れて宿屋を出た。
婆さんは俺たちを野菜たっぷりのスープと鹿肉で作ったベーコン、柔らかいパンにワインでもてなしてくれた。
ラビにはワインの代わりに牛のミルクを。
家の裏手で飼っている牛からしぼってきたばかりだという。
ラビは口の周りを白くしながら、おいしそうにゴクゴク飲んでいる。
「娘さんを迎えに行く旅だったのねえ」
スープのお代わりを差し出しながら、婆さんが優しく微笑む。
宿屋の部屋でしばらく親子のフリをしようとラビに伝えておいたので、俺は頷き返した。
嘘をついている後ろめたさで、視線がどうしても泳いでしまう。
「お父さんとふたりで旅をするのは楽しいでしょう?」
婆さんはラビにもそう声をかけた。
「お父さん……」
そう呟いたきりラビが黙り込んでしまう。
俯いているけれど前髪が短くなったから表情は見える。
(見えるが……今ラビはいったい何を思っているのだろう……)
目を伏せて、心なし口元を綻ばせて……。
まるでスープの温かさが体に染み込んでいくのを噛みしめるかのような、そんな顔つきだ。
(父親のことを懐かしんでいるのか? 『家族はない』と言っていたが……。もう亡くなっているのだろうか……)
なんとなく触れられたくないだろうと思い、踏み込んで尋ねることはいまだにしていない。
どのぐらいの距離感でラビと向き合っていくべきか。
バルザックの街で別れるとしても、数ヶ月は一緒に旅をするのだから、まるっきり他人の距離というのも寂しい話だ。
(少しずつ歩み寄っていければいいんだがな)
俺は心の中でそんなふうに願ったのだった。