5話 おっさん、哀しき獣の咆哮を聞く
すっかり空になった鍋とふくらんだ腹。
俺はふうっと息を吐いて、隣の少女に視線を向けた。
「腹は満たされたか?」
「うん」
「そうかそうか」
「あ……あのね……」
「ん? なんだ?」
俺が尋ねると黙ってしまう。
なんだろう。
何か言いたいことがあるんだよな?
そう思って待っていると、少女はコートの裾を両手でキュッと掴んだまま俯いてしまった。
「どうした?何か言いたいことがあったんじゃないのか?」
「……なんでもない」
「……?」
俺は首を傾げながら少し困ってしまった。
どうやってこの子とコミュニケーションを取ったらいいのか、まだいまいちわからない。
(あ!? もしかして本当はまずかったのか……!?)
「すまない。口に合わなかったか? それとも嫌いなものでも入っていたか?」
「ち、違う……。ごめんなさい……。おいしかったって言いたかっただけ……でも、なんて伝えたらいいかわからなくて……」
少女がたどたどしい口調でそう伝えてきた。
「……! そ、そうか……」
おいしいと言ってもらえるのはうれしい。
一生懸命伝えられた言葉に励まされ、次の食事も美味いものを用意してやりたいと思った。
(この子が好きな食べ物はなんだろう)
尋ねようとした俺はハッとした。
そういえばまだ名前すら聞いていない。
「自己紹介がまだだったな。俺はダグラス。ダグラス・フォードだ。おまえの名を教えてくれるか?」
「……私はラビ」
「ラビか」
うさぎのラビットからとった名なのだろうか。
たしかに時折見える少女の瞳はクリッとしていて、ウサギに似ている。
使った鍋や匙を水魔法で洗いながらそんなことを考えていたとき――。
不意に闇の中から、地を這うような唸り声が聞こえてきた。
(……獣の鳴き声?)
ラビが不安がって、俺にしがみついてくる。
『グルルル……』
茂みの中、光る無数の目が現れた。
それに気づいた瞬間、俺は小柄なラビを抱き上げた。
辺りを取り囲まれているようだ。
数は10匹といったところか。
気配からして強い敵意を感じる。
(何よりもまずラビを守らねば……)
それにしても獣除けのために火を焚いているのに、なぜこんな事態になったのか。
何度も野宿をしてきたが、こんなことは初めてだ。
(獣10匹か)
今の俺ならば難なく倒せるはずだ。
とはいえむやみに生物を傷つけたくはない。
だとすれば、ここは引くべきところだろうが……。
いや、だめだ。
夜の森の中、ラビを連れて逃げ回って怪我でもさせたらどうするんだ。
迷う俺に向かって、茂みの中から犬が飛びかかってきた。
「……!」
ラビを抱いたままサッと躱す。
間髪を入れずに二頭目、三頭目が続いた。
避けていては埒が明かない。
(動物相手に戦闘をするのは心が痛むが……)
《絶対零度の聖域を守りし女神、我に凍てつく口づけを――氷魔法ヘル!》
氷の刃が犬の腹を切りつける。
致命傷にはならない程度の傷を与えて、撤退させるつもりだった。
しかし犬たちは一瞬よろめいただけで、すぐにまた襲い掛かってきた。
何かがおかしい。
違和感を覚えたが、考えている暇はない。
俺は再び氷魔法を詠唱し、犬の足を攻撃した。
(これで動きを封じることができれば)
ラビを抱え直しながらそう願ったけれど、一瞬ぐらついたぐらいで足止めにもならなかった。
しかも痛みを覚えている気配がなぜかない。
やはりこの犬たちは何かおかしい。
この状況で撤退をさせるのは不可能だ。
戦闘を長引かせるとラビに危険が及んでしまう。
(仕方がない……)
腹をくくった俺は犬たちを仕留めるため、心臓を狙い打った。
せめて一息で仕留めてやりたい。
照準はぶれず、氷の刃が突き刺さる。
ところが……。
「な……!?」
真っ赤な血をダラダラと垂れ流した犬は血だまりの中、立ち上がる。
あれだけ血を流してまともに動けるわけがない。
(まさか……)
嫌な予感を覚えながら、再度、氷魔法を放つ。
矢のような氷が心臓を再び貫いて、犬たちがその場に倒れ込む。
だが思ったとおり、数秒もしないですべての犬が体を起こした。
氷魔法の貫通した心臓には、ぽっかりとした丸い穴が空いている。
口からは涎と一緒に、ダラダラと赤い血が垂れ落ちた。
こんな状態で生きていられるわけがない。
(やはりそうか。こいつらは……)
「……アンデッドだ」
命を失ったあともひたすら獲物を求めてさまよう生ける屍。
成仏することもできず、永遠に飢え続ける哀しき存在。
アンデッドには恐怖心がない。
だから火を焚いていても襲い掛かってきたのだ。
(しかし、いったいなぜ大量の野犬がアンデッドになったのか……)
アンデッドが生まれる過程にはいくつかの条件が必要とされる。
強制的に命を奪われ、鎮魂の祈りさえ捧げられず放置された亡骸。
そこに殺されたものが持っていた「生きたい」という強い意志が強烈な想いとなって絡み合ったとき、アンデッドは誕生する。
つまり何者かがこの森で犬たちを殺しまくり、それは理不尽な死であった可能性が高いわけだ。
俺は思わず眉をひそめた。
心臓をくりぬかれてもなお、飢えて涎を垂らす犬たちの苦しみは、当然、俺にはわからない。
だが……。
「……」
理由もわからないのに可哀想だと感じることは俺のエゴだろう。
それでもなんとかしてやりたいと思ってしまった。
アンデッドを救う方法はただひとつ。
脳を破壊して死を与え、無限の渇きに終止符を打つしかない。
俺はやるせない気持ちを抱えながら、ラビの顔を自分の肩に押しつけた。
「ラビ、少し目をつぶっていろ。俺がいいというまで開けるな」
声から俺の気持ちを察したのか。
ラビは体を強張らせて頷いた。
「……成仏してくれな」
俺は独り言のように呟き、犬たちの頭をめがけて氷魔法を放った。
その直後。
『キャンッ……キャイインッッ……!!!』
いくつもの氷の刃が一斉に飛び出し、アンデッドの頭部を切り落とした。
ボト、ボトと音を立て、首を失った獣の死骸が地面に倒れていく。
突然ぽっかりと訪れる静寂。
ムアッとした濃い臭気を嗅ぎながら、俺は拳を握りしめたのだった。
◇◇◇
「……――このものたちに安らかな眠りを与えたまえ」
鎮魂の言葉を口の中で呟き目を閉じる。
隣にしゃがんだラビも俺に倣って、胸の前で祈りのポーズを取った。
これですべて終わったはずなのに。
ゆっくりと立ち上がった俺は、目の前に並んだいくつもの墓を見ながらなかなか動けずにいた。
「……?」
ラビが心配そうに見上げてくる。
「ああ、すまない。小さな子供の前で情けない顔を見せてしまったな……」
頭をかきながら笑ってごまかそうとした。
だが青い真っ直ぐな目は、じっと俺を見つめ続けている。
適当に誤魔化そうとした自分が恥ずかしい。
子供の純粋さの前では、大人の卑怯な逃げなど通用しないのだ。
俺はその事実を思い知らされながら、ポツリポツリと胸の内を吐露した。
「……犬たちを救ってやりたいなんて思ったが、やはり俺の思い上がりだった気がしてな。命を奪って欲しいとあいつらが望んだわけじゃない。俺たちが逃げ出して、それで終わりにするべきだったのかもな」
ラビは困ったように唇を噛んだ。
当然だ。
これは答えのない嘆きなのだから。
「いや、なんでもない。聞いてくれてありがとう」
感謝の気持ちを伝えて会話を終わらせようとしたら、突然、クンとズボンの裾を引っ張られた。
「ラビ?」
「……」
まだ唇を噛んだままだが、ラビが何かを言いたがっているのはわかった。
「あ、あの……助けてあげられたと思う、私は……。だって……おなかが空くのって、すごく苦しいから……」
つっかえつっかえ、言葉を探して。
消えそうな声でラビが言う。
「ラビ……」
(俺を励ましてくれてるんだな……)
なんともいえない気持ちが胸をおおって、心が温かくなる。
「ありがとうな、ラビ」
俺が微笑みながらお礼を伝えると、ラビはまた唇をキュッと結んだまま頷き返してくれた。
(まさかこんな小さな女の子に励まされるとは)
少し驚いたけれど、でもラビに打ち明ける前よりずっと俺の心は軽くなっていた。
皆様の応援のおかげで日刊総合1位をいただくことができました。
本当にありがとうございます。
今後も楽しんでいただけるよう頑張ってまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします!