3話 おっさん、力を取り戻す
(『変貌の呪詛』がかけられているということは……)
「……おまえ、人間なんだな」
『クゥン……』
フェンリルの口から哀れな鳴き声が零れた。
青々とした双眸が悲しみで揺れている。
自分の意に反して獣に変えられてしまった苦しみは想像を絶する。
俺はやるせない気持ちに襲われて、強く拳を握りしめた。
胸が抉られるように痛む。
いったい誰が何のためにしたことなのか。
いや理由なんてどうでもいい。
こんなことは何があっても許されない。
人を獣に変えるなど……。
(呪いを解いてやらねば……)
呪詛解除のスキルなら知っている。
ここまで悪質なものではないが、過去に数回、呪詛を解いた経験もある。
もっともそれは全盛期の話。
いまの俺の力は、あのときの一割以下だ……。
(くそ……。弱気になっている場合か)
スキルを使用する技術に年齢は関係ない。
スキルマスターである大賢者には、俺よりもっと年上のよぼよぼの爺さんだっていっぱいいるぐらいだ。
重要なのは技術と知識、そしてMP。
ただ俺の場合はもうひとつ問題点があった。
『呪詛解除』は強力なスキルだ。
俺の残りわずかなHPなど一瞬で消滅するだろう。
(命がけの人助けか……)
口元を歪めて不器用に笑う。
(悪くはない死に方じゃないか)
目的もなく空しく生きて、心を枯れさせていく。
それよりずっとまともな命の遣い方だと思った。
そうだ。
誰かのために死ねるなら本望だ。
「今からおまえにかけられた呪詛を解く。そのまま大人しくしていろ」
ギョッとしたようにフェンリルが顔を上げた。
呪いが解けるのかと尋ねたいのだろう。
物言いたげにハクハクと口元を動かす。
「大丈夫だ。俺が必ず助けてやる」
独り言のように呟いて、両足を広げる。
両手を突き出して、大きく深呼吸をした。
心は穏やかだ。
これならいける。
《瞬く希望の粒子ここに集え、いま我が命じる――呪詛解除!》
俺の両手から白い光が放たれる。
詠唱は成功した。
それと同時に体から力が抜けていくのを感じた。
ステータスを確認しなくてもわかる。
自分のHPがどんどん減っていく感覚。
魂がこの身を離れようとしているのだ。
(ああ……。死がやって来る)
地面に倒れ込みながら、放った光がフェンリルに届くのを見た。
これでもう大丈夫だ。
ホッとして、体の力を抜く。
本当は傷もスキルで治してやりたかったが、もうHPはすっからかんだ。
冷たい土の感触を頬に感じながら、目を閉じようとした。
ところが……。
「え……」
ズンと空気が振動して、スキルが弾かれる。
目に見えない何かにぶつかったのだ。
(ガードされた……? いや違う……)
弾かれたスキルが転がっている俺の元へ跳ね返ってくる。
その直後、さらに予想外の出来事が起きた。
「……っ!?」
体が突然、軽くなるのを感じた。
年中苦しめられていた腰や肩の痛みが一瞬で消え失せる。
まるで二十代の頃のように、内側からエネルギーが漲ってきた。
(……なんなんだこれは)
困惑しながら起き上がる。
(死んで痛みから解放されたのか……?)
大真面目にそう思った。
だが幽体離脱しているわけでもないし、俺の体は俺の思いどおり動く。
自分の両手を見下ろして、グーパーと広げてみる。
(透けてもいない……。やっぱり生きてるよな……?)
「まったくわけがわからない……」
独り言を呟いた俺を、フェンリルが心配そうに見上げてくる。
俺は混乱したまま、肩を竦めてみせた。
しかしどうして……。
HPは尽きたはずなのに……。
混乱しながらステータスを確認した俺は、ギョッとして息を呑んだ。
――――――――――――――――――
名前:ダグラス・フォード
性別:男
種族:人間
職業:*****
レベル:68(NEXT1011)
HP:60900
MP:56432
――――――――――――――――――
「HP60900だって……!?」
俺の今のHPは2500のはずだ。
そのうえMPまで10倍近く増えている。
(本当にどうなっているんだ……)
深呼吸して、頭の中を整理してみる。
解除スキルは間違いなく放たれた。
しかしフェンリルに当たった瞬間、それは弾かれ、俺の元へ舞い戻ってきた。
解除スキルは俺にぶつかり、そのまま消えた。
結果、俺の体は軽くなり、これまで抱えていた身体の不調すら一切感じなくなった。
(まさか……)
「……俺も呪われていたのか?」
スキルを使うごとに減っていったHP。
まったく伸びなくなったMP。
腰痛や肩こり。
常に気だるく鉛のように重い体。
老化が原因だと思っていたそれらの症状が、もし呪詛によるものだったとしたら……。
(跳ね返ってきた解除スキルを受けたことで、それらが消え失せたってことか)
一応の辻褄は合っている。
というか他に説明のつけようがない。
しかもさっき確認したステータスは、俺の現在のレベル68に見合った数値だ。
(……自分が呪われていることにも気づかないなんて)
どれだけマヌケなのか。
しかし呪われていたのに状態異常がついていなかったのは不自然だ。
だいたいいったい誰が俺に呪いなんてかけたのか。
……いや、それはあとで考えればいい。
今はそれよりフェンリルのことをなんとかしてやりたい。
ただ困ったことに、状況は俺が思っていたよりもずっと厄介だった。
呪詛解除のスキル詠唱は失敗しなかった。
それでも弾かれてしまったということは……。
「『禁忌の呪詛』か……」
呟いた声が自然と重くなった。
『禁忌の呪詛』は、最高位の呪詛だ。
そしてそれは、呪いをかけた術者本人にしか解除ができない。
つまり俺では、獣から人間に戻してやれないということだ。
けれどどうしても諦めきれなかった。
(助けると約束したんだ)
何か。なんでもいい。
この者を救う方法はないのか。
考えろ。考えろ。考えろ。
自分を駆り立て頭を動かす。
これまでの経験、記憶、知識をフル動員して、必死に可能性を探した。
『禁忌の呪詛』をかけた術者を捜し出すのはどうだ?
……いや、それは現実的ではないな。
相手は呪いをかけるような人間だ。
頼んだところで術を解いてくれるとは思えない。
しかもその者を見つけ出すまで、獣の姿のままでいさせることになってしまう。
術者しか解除できない呪詛を、この場で俺が解く方法。
それを見つけなければだめだ。
(……待てよ)
術者しか解けない呪いを俺が解くのなら……。
「俺が術者になればいいんだ」
『ハフッ……』
俺が突然声を上げたせいで、驚いたフェンリルが妙な吠え声を発した。
「突破口が見つかったかもしれないぞ」
耳をぺたんと伏せさせたフェンリルが、申し訳なさそうな鳴き声をこぼす。
そのいじらしい態度を見て胸が痛んだ。
やはりなんとしてでも助けてやりたい。
俺は『トレーススキル』を持っている。
『トレーススキル』とは、声と外見を知っている相手に変化できる変身スキルだ。
しかし俺は術者を知らない。
そこで『情報共有スキル』が役に立つ。
『情報共有スキル』を使って、その者を知っている人間の脳から情報を引き出すことで、どんな人物かを知り得るのだ。
『情報共有スキル』を発動したまま『トレーススキル』で術者に変身する。
そして最後に『トレーススキル』を発動したまま『呪詛解除』を行う。
これでフェンリルの呪いを解いてやれるはずだ。
ただしそれはあくまで理論上の話である。
スキル発動中に別のスキルを使う『スキルの二重遣い』。
そんな離れ業をやってのける人間は、俺の知っている限り一人しかいない。
勇者アラン。
彼はその特別な能力を買われて、国王から勇者の称号を授かったくらいだ。
『スキルの二重遣い』はそれほど特殊な能力なのである。
しかもアランでさえ、併用できるスキルは通常スキルに限られていた。
最悪なことに『情報共有スキル』と『トレーススキル』は、通常スキルよりランクが上の専門スキルにカテゴライズされる。
そのうえ『呪詛解除』は解除したい呪詛に合わせて難易度が変わる。
『禁忌の呪詛』を解除するには、『特殊呪詛解除』という最高位スキルが必要だった。
アランたちと俺の間に能力差が出はじめた頃。
俺はなんとかその差を埋めたくて、スキルにまつわる知識を必死で学んだ。
戦闘でついていけないのなら、知識で役立とうと思ったのだ。
それゆえ俺はすべての知識に精通していた。
発動方法と呪文も頭の中に叩き込まれている。
だが知っているから使えるというわけではない。
(さっきまでの俺は通常スキルをひとつ使うだけでもやっとだったしな……)
そもそもMPだって全然足りていなかった。
けれど今は違う。
MP56432。
そしてこの軽い体。
わきあがってくるエネルギー。
試してみる価値はある。
「通常の方法では呪いを解けなかった。だから今度は別の方法をやってみたい。ただそのためにおまえの頭の中を覗かせてもらうことになる。もう一度、俺にチャンスをくれるか?」
青い目がじっと俺を見つめてくる。
フェンリルが頷くように鼻を動かした。
出会ったばかりの俺のことを信頼してくれているのだ。
フェンリルの気持ちが伝わって来て胸が熱くなった。
なんとしてでも成し遂げたい。
そう強く思いながら、俺はフェンリルに向かって右手を伸ばした。
「おまえに呪いをかけた者の姿をイメージしてくれ」
頭を覆うように手のひらを広げて、『情報共有スキル』の呪文を詠唱する。
《知の扉、心の扉、開かれ繋がり我とひとつに――情報共有!》
脳の中にある男の情報が雪崩のように押し寄せてくる。
しゃがれた声。落ちくぼんだ瞼。冷たい眼差し。薄く歪んだ唇。そこの知れない濁った灰色の瞳。
俺とそう年は変わらなそうな男だ。
細身で背が高く酷薄な印象を受ける。
黒いローブをかぶり杖を手にしていることから黒魔導士なのだとわかった。
(この男が呪詛をかけたのか……!)
相手を知ったことで怒りが増す。
吐き気がするほど嫌悪感を覚えたが、目的を忘れてはいけない。
詠唱を始めよう。
《……形あるものの理、解き放たれよ》
大きく息を吸って、心を落ち着かせる。
《我、再構築を命じる――トレース!》
指先に電流のようなものが流れる。
細胞が骨が肉が変形していき――。
『ウーッ……! グルルルルッ……!』
フェンリルが唸り声をあげながら、怯えたように後退する。
(うまくいったのか……?)
両手を広げて、自分の体を見下ろすと……。
ごつごつした剣ダコだらけの俺の手が、男のものとは思えない美しい手に変わっていた。
身にまとっているのは黒いローブ。
心拍数が早くなる。
慌ててペタペタと自分の顔を触った。
「……!」
鼻の形が違う。
唇も頬も肌の手触りも。
(これは俺ではない……!)
どうやら最初の難関は突破できたようだ。
しかも俺はちっともへばっていない。
それどころか爆発するようにエネルギーが溢れてくる。
目眩もしないし、むしろ漲る力を感じた。
(いける!)
そう直感した俺は『呪い解除スキル』の呪文を即座に詠唱した。
《瞬く希望の粒子ここに集え、いま我が命じる――呪詛解除!!!!》
その瞬間、フェンリルの体を眩い光が包み込んだ。
「くっ……!」
眩しすぎて目を開けていられない。
(頼む……! 成功していてくれ……!)
縋るような気持ちで何度も目をこすった。
光は星屑のようにキラキラと瞬き、少しずつ散っていく。
(どうだ……!?)
霧散する光の中に、小さな影が見えた。
俺は思わず息を呑む。
するとそこには……。
「あ……」
十に満たないぐらいの幼い少女が、地面に座り込んでいた。
少女は自分になにが起きたのかすぐには理解できなかったらしい。きょとんとして、不思議そうに首を傾げている。
その青い目の与える無垢な印象は、フェンリルの澄んだ瞳からも感じられたものだ。
(……うまくいった!)
ホッと肩を落とした直後、俺は慌てて立ち上がった。
急いでコートを脱ぎ、寒そうな肩に掛けてやる。
少女は服を着ていない。
そりゃあそうだ。
さっきまでフェンリルだったのだから。
「着古したもので悪いな。ダボダボだろうが、とりあえずそれで我慢してくれ」
少女が真面目な顔で首を縦に振る。
次は回復だ。
少女に向かって手を伸ばし、回復スキルの呪文を詠唱する。
《生命守りし優しき女神、癒しの光を――完全回復》
すぐさま少女の体についていた傷はすべて消えてなくなった。
「痛いところはないか?」
またこくりと頷いた。
「声は? 話せるか?」
少女は喉に手を当てて、苦しそうに眉根を寄せた。
「あ……あー……う。……は、話せる……」
言葉の遣い方を思い出すように、何度か発声したあと、たどたどしい声でそう言った。
少女の声はとても小さく、かすかに震えていた。
それでも言葉を交わせるようになって、ホッとした。
自分のHPを改めて確認してみると――。
『HP:60900』
やはり減っていない。
(あれだけのスキルを使ったというのに……)
今まででは考えられないことだ。
俺は困惑しながらトレーススキルを解いて、元の自分に戻った。
その直後。
「ん?」
少女が俺のズボンを掴んで、こちらをじっと見上げてきた。
言いづらそうにもごもごと口を動かす。
何か言いたいことがあるらしい。
「どうした?」
「……」
(……今の聞き方はぶっきらぼう過ぎたか?)
子供と話すのに慣れていないせいで、勝手がわからない。
とりあえず少女の前に屈んでみる。
(急かさないほうがいいよな……?)
「……」
「……」
お互いの間になんともいえない空気が流れる。
少女が自分のペースで話すのを待っていると……。
「……た、助けてくれて……ありがとう……」
「……!」
精一杯の勇気を振り絞って言葉にしてくれたのだろう。
少女の真っ赤な顔を見ていたら、不覚にも泣きそうになった。