2話 おっさん、呪われたフェンリルと出会う
「はぁ……」
ギルドを出たところで、深いため息が零れ落ちた。
重たい足がここから離れたくないと主張している。
(……いや、だめだ。いい加減、現実を見て頭を切り替えるんだ)
「まずはそうだな。部屋に戻って出て行く準備をするか」
わざと明るい声を出し、自分に喝を入れる。
たいした荷物はないし、まだ午前中だ。
急げば昼前には街を出て行けるだろう。
こうなってしまった今、だらだらと留まっていても仕方がない。
俺が間借りをしているのはギルドが運営しているソロ冒険者用の宿舎だ。
俺はあの部屋にいる資格を失った。
どのみち、すぐ出て行かなくてはならなかった。
この街は大きな都市なので家賃や物価も高い。
ライセンスを失った俺がここで生活していくのは困難だ。
宿舎へ戻ろう。
肩にずっしりと圧し掛かるリュックを背負い直して歩き出した時――。
ダンジョンへ続く大通りのほうから、見慣れた一行が歩いてくるのに気づいた。
(あれは……)
俺が半年前、首になった勇者パーティーだ。
(しばらくダンジョンにこもってレベリングをすると言っていたが、アイテムの補給に戻ってきたのか……?)
俺より二十歳近く若い彼らは成長も早い。
ともに旅をしていた頃、そのことによく驚かされたものだ。
懐かしさが込み上げてくる。
今日街を出て行ったら二度と会うこともないだろう。
彼らと顔を合わせるのは多少気まずい。
だがせっかくだしと、俺は片手をあげて合図を送った。
「やあ、久しぶりだな」
「ダグラスのおっさん……」
勇者アランが表情を強張らせて俺の名前を呟いた。
隣にいた賢者エドモンドと
紅一点の魔法使いファニーだけが、俺に向かって微笑みかけてくれた。
「お久しぶりです、ダグラスさん。街中でばったり会うなんて、奇遇ですね!」
返事をしようとしたところで、エドモンドがファニーを庇うように前へと出てきた。
「偶然ではなく、待ち伏せしていたのでしょう」
「え……?」
「ダグラスさん、何度頼まれても答えは同じですよ。あなたをパーティーに戻すことはできない。いい加減、諦めてくれませんか。まったく……。付きまとわれるほうの身にもなって欲しいものです」
「ああ、いや、違うんだ。そういうつもりじゃない」
誤解されてしまったことに気づき、慌てて首を振る。
(しかし『付きまとう』か……)
たしかに首になった直後、菓子折りを持って、考え直してくれないかと頼みにいったことがあるがその一回きりだ。
そんなふうに思われてしまったのは、当時の俺の態度がよっぽど未練がましかったのだろう。
今もやはり声をかけるべきではなかったのかもしれない。
そう考えながら、俺はつとめて明るい笑顔を浮かべた。
「俺は今日、この街を出て行くことに決めた。そうしたらちょうどおまえたちの姿が見えたんでな。最後に挨拶をしておこうと思ったんだ」
「街を出て行く?」
エドモンドがチラッと俺の全身を眺めた。
その途端、迷惑そうだった表情が突然和らいだ。
しかもうっすらと笑みまで浮かべている。
だがなぜか俺はさっきよりもっとエドモンドを遠く感じた。
彼の微笑みはどこか冷ややかだった。
「冒険者にとってこれほどいい街はなかなかないと思いますが。何がよっぽどの事情があるんですか?」
「ま、まあな……」
「そうですか。ところで武器はどうされたんです?」
「武器は……」
「ああ、これはすみません。なんだか答えづらい質問だったみたいですね」
口元に手を当てたエドモンドがクスクス笑う。
「プッ……ハハッ。わかってるくせに、ひっでーなエドモンドは。あんまおっさんを苛めんなよ。なあおっさん、どうせライセンス取り上げられたんだろ?」
エドモンドは堪えきれないというように腹を抱えて笑い出し、ファニーはオロオロとしている。
アランは気まずそうに視線を背けたままだ。
俺は苦笑いを返すことしかできなかった。
「そんで冒険者やめさせられて、今はなにやってんの?」
「あの大荷物を見てごらんなさい。ポーションの瓶がはみ出していますよ」
ダリオとエドモンドはふたりだけで会話を続けていく。
若者の会話のペースは速い。
俺は下手くそな愛想笑いを張り付けたまま、彼らのやり取りを聞いているしかなかった。
パーティーにいる頃もだいたいこんな感じだった。
それを今さら思い出した。
「うわっ、まじか。てことはまさかポーション商人になったの!? おっさん、とことん落ちぶれたなー!」
「あ……。そうだ。おまえたちポーション使うか? 買いすぎたから、よければ譲るが……」
ようやくなんとか言葉を返せた。
ところが俺が話すとダリオとエドモンドは白けた顔でため息を吐いた。
「いやいや。俺たちのHPだとポーションじゃ追いつかないから」
「私たちにとってはゴミですよ」
「ああ、それもそうだな……」
「ダグラスさんのHPはあれからまた減ったんですか?」
「ハハッ。あれ以上減ったら、おっさん死んじゃうって――……」
「おい、もういいよ!」
突然、大きな声をあげたのはアランだ。
その場にいた全員が驚いて息を呑んだ。
俺など肩がビクッと揺れてしまった。
アランは勇者という立場のわりに物静かで、感情をあまり表に出さないタイプの青年だ。
声を荒げるなんてかなり珍しい。
もしかして俺を庇ってくれたのだろうか。
冷え切っていた心にアランの気遣いがしみる。
「いつまでも馬鹿話してんなって。ダグラスのおっさん。悪いけど、俺たち急ぐから」
「あ、そうか、そうだな。立ち話に付き合わせて悪かった。旅先からおまえたちの活躍を祈っているよ」
アランは軽く手を上げて、俺の脇を通りすぎていった。
彼の仲間たちもそれに続く。
俺は遠ざかっていくアランたちの姿を見送った。
しかし彼らがこちらを振り返ることはなかった。
◇◇◇
――大都市バルザックを出てから半月。
俺は当てのない旅を続けている。
最初は故郷へ戻ろうかとも思った。
だが、うちは片親でそのおふくろも三年前に亡くなっている。
俺に訪ねる相手はいない。
まあ気の向くまま流れてみるのも悪くないだろう。
自分をそう元気づけ、俺は流れ者となった。
訪れた先の町や村で、ライセンスがなくても受けられる日銭稼ぎの仕事をして、路銀がたまったら次の町へ移動する。
それが今の俺のスタイルだ。
ただ時々もぐりの紹介屋に当たってしまい、報酬を騙し取られたりすることも少なくはなかった。
そういえばかつて勇者グループに属しているときもよくみんなからからかわれたものだが、俺はいかにもカモにされやすいタイプだとか……。
すぐに人を信じたり、正直に心を開くのが浅はかすぎるのだと言われた。
なんともやるせない。
正直はいけないことなのだろうか。
いや……そんなことはないよな……。
馬鹿正直なのだけが取り柄だから、そう信じたかった。
日銭稼ぎの仕事は決まって、安く、汚く、きつく、危険だ。
ただそれでも文句は言っていられない。
大都市のギルドでは仕事も回してもらえなかった役立たずのおっさんでも、小さな町ではまだ需要があるらしく、本当にありがたい。
魔王が復活してから三年。
魔族や魔物たちは以前より力をつけ、人々を脅かす存在になっている。
大陸全域で悪しき者たちの蛮行が増えたため、魔物狩りに関する仕事を紹介されることが多かった。
しかしスキルは使えないと話すと、途端に情報屋の態度は横柄になった。
『だったら魔物除けに使うトッテン草を集めて来るか、魔物の遺体処理ぐらいしか仕事を紹介できねえな』などと言われ、それを引き受ける。
乾燥させる前のトッテン草の匂いには幻覚を起こす効果があり、フラフラになりながら必死に草を集めた。
しかもトッテン草の見せる幻覚は、人の心に巣食う恐れを具現化させる。
俺は幻で現れたかつての仲間たちにライセンスカードを取り上げられ、足手まといだと罵られながら、草を抜くことが多かった。
そうして自分が人の役に立てないことを、何よりも恐怖していたのだとそれによって初めて気づかされたのだった。
魔物の遺体処理のほうも大変だ。
遺体を処理すると必ず全身が、ネバネバした粘液まみれになる。
しかも生臭いにおいは体を洗ってもなかなか落ちなかった。
そのせいで宿屋を追い出され、野宿することも日常茶飯事だ。
多分スキルを使えばもっと金になる仕事を受けられただろうが、俺の場合、スキルの使用は寿命を縮めることと同義だ。
かつては冒険者として戦って死ねるなら本望だと強がり、HPが減り出してからもスキルを使い続けていた。
スキルを使わない冒険者なんて、都会では一瞬でお払い箱になってしまうのがわかっていたからだ。
でも今俺は明らかに死を恐れていた。
命をかけてでも貫きたいものを失ったくせに、それでも生にしがみついているのが今の俺だ。
毎晩、安宿で目を閉じるたびに思う。
俺は冒険者ライセンスとともに、矜持まで失ったのだなと……。
夜は惨めで空しい気持ちを膨張させる。
堪えきれず口元に腕を押しつけて、声を殺し泣いた夜が何度となくあった。
十五の頃、引き留める母に後ろ髪を引かれつつも故郷を出たのは、人のために生きたかったからだ。
とにかく正しい行いがしたかった。
そのために冒険者になったのに。
今の俺は孤独で、心には何も残っていない。
俺の人生とはいったいなんだったのだろうか。
冒険者ライセンスを剥奪される前の生活が脳裏に過る。
死んでもいいと思えるものがあったあの頃の俺は幸せだった。
たとえそれがくだらない意地だったとしても――……。
◇◇◇
――国境に広がるその森に辿り着いたのは、流れ者になって三月が経とうという頃だ。
「すっかり遅くなってしまったな……」
本来はもっと早い時間にここへ到着しているはずだったのだが。
しかしもう日暮れ間際。
今朝、偶然出会った婆さんの手伝いをしてきたため、泊まった村を出るのが予定より遅れてしまったのだ。
腰の曲がった婆さんが水の入った桶を辛そうに運んでいたら、見て見ぬふりはできない。
この森を抜ければ国境検問所がある。
なんとか検問所が閉まる前に到着したい。
一晩森で明かすのは、危険が伴うしかなり疲れる。
宿のベッドで寝ても体力が全回復しないおっさんとしては、できるだけ無駄な疲労をためたくない。
「よし。あと少しがんばろう」
独り言で自分を励まし、早足で森の中の道を進んでいく。
空気の中に異様な臭いが混ざったのは、森を中ほどまで進んだ時だった。
「これは……」
生臭い血と獣の臭いだ。
俺は森の中を覗き込んだ。
獣の姿は見えない。
視線を行く先の道に戻す。
だが……。
(無視できないな……)
検問所のベッドで眠ることは諦め、俺は森の中へ踏み込んでいった。
枯れ木や土を踏みしめて歩く。
『クゥ……ン……。……クー……』
(……傍にいる)
声はか細い。
どうやらかなり弱っているみたいだ。
負傷しているのだろうか。
息を詰めて鬱蒼と生い茂る草むらをかき分けた瞬間――。
「……!」
草木に囲まれ、ぽっかりと空いた空間に黄金色の毛を持つ巨大な獣が横たわっている。
ハァハァと荒い呼吸を繰り返す口からは鋭い牙が覗いている。
狼のような姿をしているが、体がけた違いに大きい。
何より体から流れている紫色の血は魔物の証。
(……フェンリルか)
ごくりと唾を飲みこむ。
話には聞いたことがあるが、実物を見るのは初めてだ。
魔族の中でも希少種であるフェンリルは、めったに人間の領土にやってこないと聞いたことがあるが……。
(いや、今はそれよりも……)
フェンリルはそこらじゅうに傷を負っている。
金色の毛は紫色の血で染まっていた。
ハンターに射られたのか、尻にはまだ矢が刺さっている。
じくじくした傷口が痛ましい。
「これはいかん……」
丸くなって横たわっていたフェンリルは、荒い息を吐き出しながら顔を上げた。
『ウウウ……』
威嚇するように唸り声を上げると、口の両端から泡と血が溢れた。
「ああ、わかっている。怖いよな。でも落ち着いてくれ。俺は何もしない」
手のひらを見せて、腰を低く屈める。
「な? ほら武器は持っていない」
こちらに敵意はないと伝えるためだ。
フェンリルはまだ低い唸り声を止めてはくれない。
「とにかく出血を止めないと。矢が刺さったままだと治療も出来ないんだ」
一歩一歩ゆっくり踏み出す。
唸り声が小さくなった。
大丈夫だと繰り返しながら、そっと矢に触れた。
「悪いが痛むぞ。少しの間、我慢してくれ」
そう伝えてから、両手に力を込めて矢を引っ張った。
『ギャウンギャンッ……!!』
フェンリルは泣き叫ぶように吠え続け、尻尾を振り回した。
矢の返しが肉を裂くのだろう。
「ごめんな、痛いよな……っ」
踏ん張りながら励ますように声をかける。
「うぐッ……!」
尻尾が俺の腹に当たる。
激痛が走る。
ミシッと嫌な音もした。
あばらを一、二本やられたのかもしれない。
痛みを堪えるように深呼吸をする。
そのタイミングで手の皮が剥けていることに気づいた。
血も出ている。
(滑ると思ったらこのせいか……)
背負っていたリュックの中から短刀を取り出し、服の袖を切って手のひらに巻きつける。
(これでよし。さあもう1度だ)
「ふ、ぐッッッ!!!」
歯を食いしばり、息を止め、慎重に力を込めていった。
肉を抉るような手ごたえたがある。
それが辛い。
「あと少し。あと少しだ……」
フェンリルに言い聞かせているのか、おのれに言い聞かせているのか。
自分でも区別がつかなくなってきた。
額から汗がぽたぽたと落ちる。
矢の先端が見えた!
ぬるつく感触とともに、ようやく抜き取ることができた。
「はぁはぁ……。よし……よく耐えたな……」
息切れをしながらフェンリルに伝える。
全力で踏ん張ったぐらいでこのありさまだ。
フェンリルは矢の抜けた傷口をぺろぺろと舐めはじめた。
(……ん? ……何か腹のところに大きな痣が……)
フェンリルが体勢を変えたため、それに気づいた。
目を細めて覗き込んだ俺は、ハッと息を呑んだ。
……違う。
痣ではない。
腹部をおおうように描かれている紺色の呪文――……。
(……あれは呪印だ)
「……いったいなんで呪詛なんてかけられたんだ」
俺の呟きを聞いたフェンリルは、ピクッと耳を動かして顔を上げた。
まるで言葉がわかるみたいだ。
「少し見せてくれるか?」
肯定するようにフェンリルが目を伏せる。
呪詛とは相手を苦しめるために行われる禁術スキルのひとつだ。
呪印の種類によって発生する症状は様々だが、ひどい苦しみをもたらす点だけは一致している。
そもそも呪詛とは、苦しみ抜いた果てに殺すことを目的として使用されるものなのだ。
対象が人間であれ動物であれ、呪詛をかけるなんてひどすぎる。
「かわいそうに……」
痛めたあばらを庇いつつ、獣の傍らに膝をつく。
フェンリルは暴れずにじっとしている。
「すぐに済むからな」
俺はそう言い聞かせながら、血でかたまった毛をそっと持ち上げた。
腹部が露わになる。
「……! そ、そんな。……なんてことだ」
動揺して声が震える。
刻まれた呪印の意味を読み取った俺は愕然とした。
なぜなら……。
『変貌の呪い』。
フェンリルには、人間を動物に変える呪詛がかけられていたのだ。
つまり目の前にいるこのフェンリルは人間だ。