────ど、どうしよう!
「うわっ、委員長…………すごくかたいね。これ押して大丈夫なのかな…………もう少し力入れてみるけど、いい?」
「は、はひっ。お、おね、お願いします!」
奥沢さんとの距離が近い! というか、私の背中に触れちゃってる! 奥沢さんの手が! 私の背中を押しちゃってる! 柔らかいのに力強くて、それがなんだか頼もしい…………うぅ、ドキドキが止まらないよ。
「そんなに力まなくてもいいよ、ちゃんと優しくするからさ」
「や、優しく…………っ!?」
え、何を優しくするの? あっ、ストレッチの話をしているんだった。奥沢さんがこんなに近くにいるというだけで、頭が沸騰しそうになって思考が纏まらない。神経が全部背中に集まってしまったかのように、奥沢さんの掌を強く意識してしまう。
なんで、こんなことになってしまったんだろう。いや、この状況はすごく嬉しいけど。むしろ、これ以上ないほど喜んじゃってるけど。
あっ、変な汗出てないかな。汗臭い子だって思われたくないし…………大丈夫、だと思いたいけど。
ああもう! どうしてこんなに緊張しちゃうかな! 体から力が抜けないよ。奥沢さんがせっかく背中を押してくれてるのに、体が全く曲がらない。いつもはもっと、こう、上手く出来るのに。
そんなことを考えていると、後ろから奥沢さんの声が聞こえてくる。
「ダメだこれ。委員長、ちょっとごめんね」
「えっ、なに、どうし……た……の"っ"!?」
奥沢さんから与えられた力が急に強くなって。私の口から、女の子が出しちゃいけないような声が出た気がする。
体の一部に感じていた熱が、背中全体へと広がる。驚いて振り向こうとした私の視界に、奥沢さんの横顔が映り込んだ。その横顔をぼーっと見つめながら「やっぱり奥沢さん、綺麗な肌だな」なんて、思った。
いや、っていうか、そうじゃない。
えっ、なんで? どうして奥沢さんの横顔が、私の顔のすぐ隣に…………? えっ? なに? ドッキリ?
────少し遅れて。
奥沢さんが私の背中に覆いかぶさるような形で、体重を預けていることを理解した。つまり、今感じているぬくもりは全部、奥沢さんの体から放たれているもので。私を包み込むようにしているこの熱は、奥沢さんの体温そのもので。
えっ、奥沢さん?
奥沢さん!?
「えっ、なに!? なにを、えっ、なんで!?」
「ちゃんと体ほぐしとかないとダメだよ。怪我とかしたらよくないし、準備運動はちゃんとやろうね」
いやいや、ここまでする必要ないじゃん! 奥沢さん、真面目すぎるよ! もっとやって! あ、ちがう、そうじゃないでしょ!
視界の端に見えたクラスメイトたちはみんな手を止めて、私たちの方を凝視している。あっ、やっ、み、見られてる!
「あ、うぅ、お、奥沢さん、やめっ、こんなところで、こんな、恥ずかしいよ」
奥沢さんの腕の中から逃げ出そうとして、それを上から強く押さえられた。耳元に、吐息を感じる。
「動かないで」
「は、ひぃ」
奥沢さんって、こんなに真剣な声が出せるんだ。女の子らしい高い声なのに、すごく力強くて。耳元で囁かれただけで、体の力が全部抜けていってしまった。
奥沢さんが後ろから私の太ももに手を当てて、股関節をゆっくりと広げる。その手つきが本当に優しくて。解された私の身体は、あっという間に大きく股を開いてしまう。
そのままの体勢で、奥沢さんは後ろからゆっくりと体重をかけてくる。その力強さに押しつぶされそうになって、反射的に力の流れに抵抗しようとするけれど。奥沢さんを少しも押し返すことができなくて…………私は、ほとんど無抵抗のまま、ゆっくりと前屈の姿勢を取らされる。
体を組み伏せられて抵抗できないっていうのは、本当はすごく恐ろしいことだと思っていたけど。私が感じているのは、恐怖心じゃなくて。
その有無を言わせないやり方が、なぜか胸の奥を強く刺激してきた。今まで感じたこともないような切なさとトキメキが、次から次へと溢れてくる。
その得体の知れない感覚と、僅かに感じた痛みが合わさって。思わず、変な声が出てしまう。
「んっ、あっ、お、奥沢さん…………やっ」
「あれ、なんか急に力が抜けてきたね。これなら大丈夫そう、もうちょっとだけ押すよ」
「んぅ…………ぅ、やぁ、も、もう無理」
「あとちょっとだよ、頑張って」
体温と、声と、背中を押す力で。
頭の中がどんどん、煮えるように沸き立ってしまって。もう、自分が何をしているのかすら考えられなくて。
私はそのまま、前方へと体を投げ出した。
「おお、やればできるじゃん」
「あ、は、はいっ。あ、ありがとね…………じゃあ、私はもういいから────」
「うん、あと二回やったら終わりにしようか」
「えっ、あ、あと二回? えっ?」
「ほら、体起こして」
「えっ、えっ?」
「いくよ。はい、もう一度力抜いて────」
準備運動が終わる頃には。
私の身体は、すっかり骨抜きにされてしまっていた。もう、心臓の音がうるさすぎて、何がなんだか分からないよ。ああ、誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。ちょっと待って、今立てない。
うん、それにしても。
奥沢さんの体、すごく柔らかかったな…………。
☆ ☆ ☆
「で、奥沢さんに背中を押されて人には見せられないような顔をしていた委員長。結局のところ、仲良くなれそうなの?」
「はーー? 別にそんな顔してないんですけど? 私はふつうに準備運動していただけなんですけど? っていうか別に、奥沢さんとはなんともないんですけど…………いや、本当に何もないんだよね…………」
「あっ、なんかごめん」
無意識のうちに、残念そうな声を出してしまったのだろう。私を見てニヤニヤしていた友人は急に真顔になって、謝罪の言葉を口にした。いや、やめてください。なんか惨めな気持ちになるから。
実際、体の接触にドキドキしていたのは私だけで、奥沢さんはストレッチが終わった途端に離れていってしまった。うぅ、まぁ、なんだろう。たしかに他にもワイワイしながら似たような事をしているグループはいたし、普通の範囲をでない触れ合いなんだとは思うんだけど。
それでも、私の胸の奥は今でもドキドキと激しい鼓動を刻んでいて。そのリズムが、火照った体に心地よく響く。
ふー、顔が熱くて仕方がないよ。
もうほんと、これって実質友達だと思ってもいいんじゃないかな? だめ? だめかぁ…………。
うん、でも。体が触れることを許してくれるくらいには、気を許してくれたってことだよね。前はあんな風に、誰かに触れようとしなかったし。
やっぱり奥沢さん、変わったんだなぁ。
「いや、それにしても奥沢さんすごいな。あの人があんなに運動できるなんて思わなかったわ」
「ふふん、私は知ってたもんね」
「ああ、委員長は奥沢さんに助けてもらったんだっけ。正直、めちゃくちゃ話盛ってると思ってた」
「なにおう、私の…………じゃなかった、奥沢さんはすごいんだぞ」
「いやだって、あんなに恋する乙女みたいな顔で出会いを語られても『フィルター入ってんなぁ』としか思わないでしょ」
「恋する乙女みたいな顔なんてしてませんー」
ハンドボール投げ、42メートル。
立ち幅跳び、278センチ。
50メートル走、5.8秒。
それが現時点での、奥沢さんの記録だ。女子どころか、男子の得点基準でも余裕で十点をもらえる。涼しげな顔でスポーツテストをこなす奥沢さんは、それはもう目を合わせられないほど輝いていて。
黄色い声を上げそうになる自分を抑えられたことが、奇跡だと思う。だってもう、ほんとうに凄いんだもん。運動部なのは知っていたけど、こんなにかっこいいなんて。
私もテニス部、入っておけばよかったかなぁ。でも、奥沢さんが大会に出られないくらいなんだから、きっと厳しいんだろうな。私じゃ無理かも。
「いや、それは違うらしいよ」
そんな事を考えていたら、思わず口にしてしまっていたのか。友人が口を挟んできた。
えっ、なにが違うの?
「なにが違うの?」
「奥沢さん、今までは並くらいの運動神経だったらしくて。急に記録が伸びたから、先生も驚いてた」
「えっ、そうなの?」
「いや、っていうかいままで同じクラスだったんだからさ。前のスポーツテストの時も奥沢さんのこと見てたじゃん、なんでそこで驚いてるのよ」
「…………あっ、たしかに。前までは普通だった、すっかり忘れてた。奥沢さんの顔しか見てなかったし」
夏休み前までの奥沢さん、本人は目立たないように気をつけていたみたいだし。その事をすっかり失念していた。
やっぱり、ちょっとダメになってきてるかもしれない。主に、頭の中が。もう奥沢さんのことで一杯すぎて思考が回っていなかった。
「うわっ」
「うわってなによ」
「いや、流石にそれはないよ委員長。ちょっとやばいと思う」
「えっ…………? もしかして、口に出してた?」
「余裕がなくなると考えてること口にしちゃうやつ、治した方がいいよ。奥沢さんの目の前で自爆したくないでしょ? っていうか、奥沢さんの腹筋の話をしてた時も本音が漏れてたじゃん。奥沢さんはなにを言われたのか分かってなかったみたいだけど、流石に何回も繰り返したら距離置かれるって」
そう言われて、反論しようとした口を閉じる。うん、たしかに…………なんだろ、私も自覚はあるんだけど。私って、ちょっと奥沢さんのことが好きすぎるかもしれない。
姿を見つけたら自然と目で追ってるし、ちょっとした触れあいで喜んだり、会話で心が弾んだり。
これが私からの、一方的な好意なのが寂しいけれど。だって、前までの奥沢さん。ちょっとでも強く触れたら壊れてしまいそうな雰囲気を持っていたから。
でも、今の奥沢さんだったら。きっと、たぶん、私の願望が混ざっている気がしなくもないけど。仲良くなれそうな感じがするんだ。
だから私も私で、この気持ちをちょっと抑えたほうがいいかもしれない。奥沢さんを好きって気持ちが、どんな形のものか分からないけど。
あんまりがっつき過ぎると、引かれちゃうかもしれないし。
今の奥沢さんに距離を置かれたら、流石にちょっと…………というか、かなり泣いちゃう。ガチ泣きだよ。女の子が出しちゃいけないくらい顔が色んな液体でボロボロになっちゃうよ。
だってほら、想像しただけでなんか涙目になってきちゃったし。
「えっ、委員長…………もしかして泣いてるの? …………えっ、ガチ? えっ、と、ごめん。ちょっと言い過ぎたかも。ほら、元気だしなよ。奥沢さんが委員長のこと嫌いになる訳ないって、ね? あの奥沢さんだよ? 委員長が大好きな奥沢さんだよ? 信じなって、ね?」
「別に、泣いてないし」
「いやモロ涙声になってるじゃん! めちゃくちゃ声が震えてるって! そんなにショックだったの!? 本当に奥沢さんのこと好きすぎるでしょ!?」
「いや、ほんと、泣いてないから。あんまり奥沢さんの名前を連呼しないで。あと、私は別に奥沢さんが好きってわけじゃないから」
「今それ訂正しても説得力がなさすぎるって! …………あ、こら、やめい! 胸を叩くな! 結構痛いんだぞ!」
「うぅ、ぅえ、えええぇ!!!」
こいつほんとうっさい!
なんて、くだらない争いをしながら。心の中の冷静な部分で考える。
────奥沢さん、どうして急に本気を出すようにしたんだろう。
☆ ☆ ☆
もう、これ以上心乱されるようなことなんて起きないでしょ。なんて、そう思っていたのに。
現実は、私の想像を一足どころか百足くらいいっきに飛び越えていってしまった。
「じゃあ委員長、ちゃんと足抑えててね」
「うん! 大丈夫、任せて! もう、絶対に離さないから!」
「いや、そこまで気合い入れなくてもいいんだけど…………」
奥沢さんが困惑したようになにか口にしているけど、もう気にしない! というよりも、気にしている余裕がない!
外での競技を終えて、私たちのクラスは再び体育館へと移動していた。なんども移動をするのは面倒だって言う人がいたけど、クラスごとに体育館を使える時間が決まっている以上は、仕方がない。
体育館でやる競技は、二人一組で記録を取ることになっている。うん、正直この時点で薄々感づいてた。
他のクラスメイトたちは早々にペアを作り終えていて、気がついた時には、私はすでに余り物になってしまっていた。
いや、違うんだよ。いつもならあの高身長オバケが一緒にペアを組んでくれるんだよ。私が人望がないわけじゃないんだよ、本当だよ。
なんて、必死に言い訳すればするほど怪しく見えるのは、分かっているけれど。
それでも、言わせてほしい。
あいつら、私を嵌めやがった!
私がペアを探して近づくだけで、誰も彼もがニヤニヤと笑いながら顎をくいっと動かした。その示す先へ視線を移してみれば、必ず奥沢さんが困ったような顔で立っていて。
もう、なんか。ほんと、嬉しいけど、嬉しいけどね? ちょっと私には刺激が強過ぎるかなって。
クラスメイトの輪から押し出された私が、覚悟を決めて奥沢さんをペアに誘った瞬間なんて、あいつら歓声をあげて手を叩いたんだぞ。
本当に、なんなの。いじめ、これはいじめですよ!? 私をおもちゃにして遊んでいるんですよ!!
でも、そんな憤りは。奥沢さんのホッとした表情を見た瞬間、全部吹き飛んでしまって。
もう、なにその表情! そんなのズルじゃん!! 可愛すぎるでしょ!?
好きになっちゃうかと思ったよ!!
と、まぁ。話を元に戻すけど。
スポーツテストには、上体起こしという項目がある。私はこれが苦手なんだけど、それはそれとして。
なにが言いたいかというとね?
「……っ! ……っ! ……っ!」
奥沢さんは例に漏れず、すごい速さでカウントを重ねている。その上で体があまりにもブレないから、もう私が足を抑えている必要はないんじゃないかって思わなくもないけど。
それはそれとして。
私の心の中は、それはもう大変なことになっていた。だって、奥沢さんの顔が…………顔が────。
顔が近い!!
近づいては離れていく奥沢さんの顔を正面から見据えて、私はなるべく無心になって数字を数えた。
お父さん、お母さん。聞こえていますか。
私、もうダメかもしれません。今日一日だけでドキドキしすぎて、もう心臓が破けてしまいそうです。
頭が沸騰しそうだよぉ!
この番外編は全3話のつもりだったんですけど、字数が伸びた結果全4話になりました。